私たちは日々の暮らしを通して本来は先祖とつながっていたとも言えます。それが暮らしが変化してきてから、先祖の存在を感じにくくなってきて今では別の国のような生活スタイルになりいよいよ繋がりが薄れてきているように思います。
私たちの暮らしには、先祖が連綿と続けて積み重ねてきた歴史があります。その歴史は生活習慣であり、どのような生き方をしていけば後世も子孫が幸福でいられるかを自分の実体験から学びそれを改善し今の時代まで受け継いできたとも言えます。
例えば、神棚をお祀りし手を合わせて祈る、また季節ごとに季節の移ろいを感じつつ行事を協力して行う、そのほか、生活の道具からどのような食べ物を食べていればいいか、どのような生き物を身近においておけばいいか、それを風土の中で得られた智慧を用いて子孫に継承していきました。まさに民家も同様に、古民家は1000年先を見据えて建てられたものであり、風水を絶妙に活かした建物を通して子孫たちが快適に安心して暮らしていけるように見守った先祖の智慧の結晶でもあります。
それが西洋から入ってきた文明、言い換えるのなら経済効率だけを優先する中で暮らしが消失してきました。本来は暮らしの中に、多文化が入ってくるのはかえって進化の過程としては美しいものですが、現在は暮らしか経済かという2極化した中で人は暮らしを手放しているように思うのです。
私は暮らしの甦生を通して感じるのは、自分も先祖の一員だという自覚です。子どもたちのためにどのようなものを譲り遺していけばいいか、長く続くものこそ本物の経済であり、永続するからこそ本質的に経営ができますから、その両輪を常に温故知新していくことこそ今の世代の責任であろうと思います。
その今の世代の責任を果たすには、暮らしがまず大前提に存在しているからこそ実現できるものであり暮らしが消失してしまえば責任を果たせることはありません。
今はまだ消失しかけたものもたくさん残っています。一つ一つを甦生しながら先祖と対話し、先祖とつながることはもったいないことを学び直すことです。その一つ一つはとても仕合せなことで、その暮らしの中に一緒に先祖が息づいているのを感じます。
そして私たちの世代もまた、先祖になっていつまでも子どもたちと一緒に暮らしを持続していけるのです。持続可能な経済などという言い方をしますが、私にしてみれば暮らしを実践すれば必ず経済は持続するということです。
引き続き、子どもたちのためにも暮らしの甦生に取り組み一つ一つの智慧を復活させていきたいと思います。