正直者が馬鹿を見るという諺があります。これは辞書では「悪賢い者がずるく立ち回って得をするのに反し、正直な者はかえってひどい目にあう。世の中が乱れて、正しい事がなかなか通らないことをいう。正直者が損をする。 」(大辞林)と書いています。
しかしこの正直とは、損得でみてもどれくらい長いスパンで物事を観るかでその質も変わってくるように思います。例えば、短期的にみれば正直でいたことがいつも損のように思えるものでも長期的に見れば正直でいることの方が得をしていたりします。また損得だけをみれば人生で正直者は損をしているように見えていても、正直な人は周りから慕われ晩年には多くの人たちから親切にされて大事にされることもあります。結局、損か得かを基準にしたときの正直だといえば、損をする人を正直者といいたいのでしょう。つまり世の中が乱れ不徳の時代に出てくる諺ということです。
本来の正直さというのは、昔はお天道様に恥じない生き方のことをいいました。これを誠とも書き、日本人の生き方の美徳として大事にされてきました。「お天道様が見ている」と幼少期には祖父母から素直であれと叱られ、自分に嘘をつかないように、他人に嘘をつかないようにと自分を大切にすることを教わりました。ここでは嘘をつくかつかないかというよりは、一生を通して天に恥じないように自分を修め、磨き続けることに価値があると言ったのです。
例えば正直を磨くというのは、掃除に似ています。日々に汚れたり、日々にけがれたり、怠け心が出てきては日々に塵や埃が溜まってきます。それをそのままにせず、毎日丁寧に掃除をして祓い清めて洗い流して磨いて綺麗にしていく。そういうことを続けていくことが、正直にやっていくということです。これを怠り、その場しのぎで誤魔化しても塵も埃もたまっていきますからそれをいつかは片付けなければなりません。そうなって全部、散らかしっぱなしてどうしようもないと放り投げて他所にいく生き方をすれば周囲に大きな迷惑をかけてしまいます。自分で蒔いた種は自分に戻ってきますから、日々にどんな種を蒔いているのかを自覚するのもまた正直さの実践のようにも思います。
正直という嘘をつかないという実践は、単に誰かに対して嘘がなければいいのではなく日々に自分の心を手入れして誠に恥じないか、真心を尽くしたかと、内省し綺麗に掃除を続けていくことに似ているのです。そういう正直な暮らしを行う人が馬鹿をみることはなく、丹誠を籠めた真心の暮らしによって人生が磨かれ豊かになります。自分を高めて人格を磨いていくことは馬鹿なことではなく尊いことだと感じます。
まるで太陽のように清々しくそのお天道様のような心で生きていこうとするのは、自分を活かし、周囲のいのちを育み見守ってくださっている御蔭様の存在を忘れず常に感謝で生きる存在になるということです。これは人間として傲慢になるのではなく、自然のいのちと同様に謙虚に太陽の元、周りを活かし共生しながら真摯に自分の生を生き切るということでもあります。
時代が個人の損得ばかりを優先し正直さの意味もその言葉の定義も変わってしまった現代社會においては、正直さというのはあまり良いことではないと思われてしまっているものもありますが古来からある正直さは私たちの先祖が大切にしてきた真心の生き方です。自分を中心に損か得ばかりを計算して保身ばかりに走るのではなく、自分の日々の怠け心に喝を入れて自分の我に打ち克ち損得度外視で真心を尽くす実践で自分を修め磨き続けていく正直者になっていくことは敢えて馬鹿になる生き方を選ぶということかもしれません。
引き続き、日々に馬鹿になって愚直に心の手入れを怠らずに歩んでいきたいと思います。