古民家甦生を通して信仰について深めていると、改めて官位や名がなく実践される尊さについて見直すことばかりです。今では、職業として様々なことが分かれている時代でもあります。
例えば、福祉や宗教、ボランティアや医療など職業によって区分されています。本人の生き方がどうこうではなく、こういう職業の人だと分類わけされて整理されます。なのでなぜこの人は社長なのにこんなことをするのかとか、なぜ農家なのに漁師のようなことをするのかとか、宗教者なのになぜあんなことをするのかと、職業の方ばかりを見てはその人の生き方の方はなおざりになっていることが多いのです。
世の中のニュースをみても、その人の生き方がどうかが語られず、この職業の人がまさかこんなことをというように分類分けされた職業やその人の官位によって分別されてその内容を報道されます。
本来、生き方と働き方は分かれているものではありません。それは職業である前に、生業であります。つまりはその人の生き方が職業になっているのが本来であり、先ほどの信仰の例でいえば宗教が先にあって信仰があったのではなく、信仰そのものがあるとき職業として宗教というものに分別されたということです。
かつての天神信仰や愛宕信仰、山岳信仰など信仰と名のつくものはすべて無名の信心の上に成り立っています。先日の参拝しながらお地蔵さんに榊や水替えをしながらお参りをする清々しかった方のように信心をする人たちの他力によってその信仰はいつまでも守られていくのです。
そしてこれもまた道の一つです。
民藝運動の指導者、柳宗悦氏が無銘の陶器について語った言葉がありますが私はこれもまた信仰の姿の顕れのように感じます。
「無銘品はごく平凡な人たちの仕事であるから、もしそこに美しさがあるとすると、それは個人の力から湧き出たいわゆる自力の美ではなく、大勢の人たちが愛情を通わせ支えてきたといういわば他力の美に他ならない。何か人を超えた力が背後に働いて作品を美しくさせているのである」
・・・大勢の人たちが愛情を通わせて支えてきたという他力の美。
まさに私は信仰にはこれを感じずにはおれません。天神信仰についても、産業革命以前は全国各地で人々の間で土人形がつくられ毎月25日は天神さまをお祀りする日として親しまれてきました。人々の愛情を通させてきたからこそ信仰は育まれたのです。
そして、「何か人を超えた力が背後に働いて作品を美しくさせる」という言葉。
まさにその御蔭様の力によっていつまでもそのものが神々しくいのちを宿らせ輝かせ続けるということです。神社の境内を清掃したり、古民家の手入れを愛情をもって行うなかでそのものが神々しく清々しく光輝く様子を何回も見てきました。
その都度、私は人が真心と愛情をこめて無我に磨いたものにはそこに本来宿っいたものが甦生するという感覚が出てくるのです。このいのちを磨くということは、信仰の原点であり、そこに真心を盡して実践することでさらにその徳が高まっていくのです。
私は無名ですし、何の官位も持っていません。
しかし信仰についての思いは心の中にあり、その御蔭様の偉大さにいつも心は見守られている実感があります。世の中の刷り込みを取り払い、本来の原点、その初心伝承を究めて伝承していきたいと思います。