昨日の西日本新聞の記事で下記のようなニュースが流れました。
「山梨県笛吹市の送り盆の行事「甲斐いちのみや大文字焼き」で16日、火の代わりに「大」の形に並べた発光ダイオード(LED)が点灯された。火をともす足場が風雨で滑りやすく、安全性を考慮して今年から切り替えた。同市観光商工課は「送り火のLED化は全国でも珍しいのでは」としている。甲斐いちのみや大文字焼きは、江戸時代に行われていたものを1988年に再開。実行委員会などによると、昨年までは山の斜面に木で組む井桁で火をともしていたが、延焼しないよう見守るスタッフを置く斜面は、足場が不安定だった。」
送り火をLEDに換えるという記事ですが、一見読んでいると安全面を配慮しと書いているのでそれはそれで理由は理解できます。しかし本来、何のために1988年に江戸時代に行われていたものを再開したのかの理由が失われているのがわかります。
事物にはその事物を行う優先順位というものがあります。何をもっとも優先するかというのが理念であり、その理念を優先するから本物が遺り続けて伝承の意味が出てきます。
どの時点で伝承が終わるかといえば、本質がすげ換ってしまうときです。報道と共に「大文字」の火とLEDが比較されていましたが明らかに品がなくなっているLEDを見てこれを見て江戸時代に行われていた送り火の意味は感じることはないだろうなと改めて思いました。
現代は、代用品があふれ似て非なるものばかりで構成される世の中です。価値観もそれでいいと思っている人が増えていますから、本物風や本物らしいものでもいいと思われがちですがそれは本物ではないのは火を見るよりも明らかです。
たとえば、室内植物なども手入れが面倒だからと造花などで誤魔化して一見、緑が多いと感じますが本来の植物が持つ癒しの効果はまったくありませんし美しさも似せているだけで自然物の持つ自然美はありません。
優先順位や理念を見失えば何のためにやっているのかがわからなくなるものです。そうやって何のためにを考えない人が増えれば、すぐに他の優先順位が上がってきます。それが目先の課題の解決であったり、身近な不平不満を解消するものであったりが正しいことになり、それが正論として誰も反対することもなくなり、なし崩し的に消えていくのでしょう。
そもそも何のためにそれをはじめたのか、こういう時こそ一度みんなで考え直す必要がありますし、初心が伝承されなくなった理由が自分たちの都合ではないかと自分自身を見つめ直す必要があると私は思います。
伝統を継承するものとして、如何に意味を間違えないで維持し続けるかは先人たちの思いをそのままに受け継ぐ資格を持てているかと自反慎独して本質を大切に守る必要があると私は思います。
引き続き、時代が変わっていく中でも変えていいものと変えてはならないものを判断し伝承の意味を深めていきたいと思います。