義の繋がり

天神祭の準備に向けて菅原道真公のことを深めていますが、残っている文献や資料からできる限り情報を集めてその功績や事績、そして和歌などからその人格や人柄を想像しています。

しかし歴史というものは、勝者の歴史といわれるようにその当時の権力者や政府が自分たちに都合の悪いところを消していきますから消されてしまうとほとんどが遺っていません。だから今の時代になって、改めて歴史を客観視して直視するとこれだけの偉大だと信仰されている人がなんの功績も出てこないのだろうかとしっくりこない人物もたくさんいます。

まさに菅原道真公はその代表でもあり、天神信仰をはじめ全国の天満宮に祀られ、学問の神様としてこれだけみんな崇敬しているのに和歌や遣唐使を廃止したことくらいしか遺っておらず、右大臣にまでなって政治を司り、その後の「延喜の治」と呼ばれるほどの治世の礎をつくり、国風文化の発祥の根源になったにもかかわらずその実の功績のところが歴史の表舞台に出てきません。

私が思うには、過去にこれだけの人々から1100年以上尊敬され今でも篤く信仰されている人物がちょっとしたことだけでそこまでになるとは思えません。菅原道真公も、その当時の人々のことを心から思いやり仁慈をもって接した立派な方でさらに大義を貫く生き方が美しくまるで神様のようだったからこそそのままに神格を持ったのではないかと思います。

実際にわかっているのは「昌泰の変」にて901年1月、左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰員外帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にした事件があったということ。その後、権力を醍醐天皇と藤原時平が握ったこと、そしてそれから10年も経たずにまた宇多上皇と藤原忠平に権力が戻ったこと、そして菅原道真公の名誉を回復した流れになったことは書かれた通りであることが分かります。

ただしこれもまた勝者の歴史ですから、真実はどうだったのかとなるとそのまま鵜呑みにすることはできません。しかし菅原道真公が、どのような学問をし、何を愛し、どのような生き方をしたのかは、その遺した言葉や、その当時に関わりのあった弟子たちや同志たち、子孫たちによって語り継がれていきます。

これは幕末の吉田松陰のように、弟子たちが師がどのような人物であったか、弟子たちがその後、政治の中で如何に自分たちがその恩恵を受けたか、そして師の遺した文章にどれだけ励まされたか、そのようなものが信仰としていつまでも遺ります。

その当時、菅原道真公の学問の弟子たちが官僚の多くを絞め、道真公亡き後も志を持って政治に中ったように思います。だからこそその後に延喜の治と呼ばれるほどに平安文化が発展していったように思うのです。

菅原道真公をいつまでも信仰するのは、今の日本があるのはその当時に道をつけてくださった恩師のことをいつまでも忘れまいとする子孫たちの「義の繋がり」なのでしょう。

ただの学者ではなく、本物の学問を志した人物としての菅原道真公は実践を重んじた方です。だからこそ、その至誠が天に通じ、天神様となったのでしょう。まさに至誠の神様と呼ばれる由縁です。

私にとっても特別な存在になったこの天神様は、国家鎮守の風土と共に氏神様としていつまでも子どもたちを見守ってくださるように祈りを奉げていきたいと思います。