無常流転

世界というものはお互いに影響を与え合ってそれぞれの文化を高めていくものです。国の違いを超えて、また人種の違いを超えて、私たちはお互いから学び合い、水が万物を融和していくように一つのものになっていきます。

この文化を融和するというのは、振り子のように右へ左へと揺れ動く中でどこが中心であったのかを知ることに似ています。あるいは、螺旋のように円く回っているようで確かに上下に巡りながらどこが中心であったのかを知ることに似ています。

同じように行き来しているように見えても、それは単なる行き来ではなく其処には確かな文化の融和があるのです。歴史というものも等しく、私たちはいろいろなことを体験しその体験を融和しながら文化を創造し続けていきます。まさに諸行無常であり、万物流転しているのです。

この無常流転の仕組みは、中心に「いのち」の存在を感じるものです。

私たちはカタチがあるものにどうしても囚われがちですが、カタチがないものの中に中心があります。すべてが調和している場所、すべてのバランスを司っている空間、そこに全ての中心が存在しています。

この存在があるから無常流転が繰り返されるのであり、この存在の周りで私たちは様々な体験や邂逅を経てお互いに影響を与え続けてその中心を存続し続けるのです。

つまりその存在とは何か、それは心です。

文字通りこれは心が中であると書いて「中心」と読みます。

この心が無常流転の正体であり、私たちは心を中心にして万物が流転していることをはじめて自覚自悟することができるのです。

自己の対話や、世界との調和を繰り返していく中で私たちは心を育み続けていきます。自己とのバランスが崩れれば世界もまた不調和になります。調和と不調和もまた心のなせる業です。

禅の教え無門関第十九則に「平常是道」があります。

この公案の私なりの答えは、道は心の中であるということです。

引き続き、心を澄まし魂を磨き道を精進していきたいと思います。

天との対話

老師の遺した有名な言葉に、「天之道、不争而善勝、不言而善応、不招而自来、然而善謀。天網恢恢疏而不失。」があります。これは「天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、招かずして自ら来り、然として善く謀る。天網恢恢疏にして失わず」という意味です。

天に問い、天が見ているとし、ありのままであるがままに生きる人は正直の徳を磨いていきます。この正直の徳とは、自分の心を天に映す鏡として鑑照する生き方を実践していくということです。

私が尊敬する吉田松陰は、その辞世の句で「吾 今 國の爲に死す 死して 君親に 背かず。 悠悠たり 天地の事 鑑照 明神に 在り。」といいました。

これは意訳すると「私は今、故郷の国のために命を捧げ死んでいきます。私は死ぬに際しても親祖や恩君へ対する道に背くことはありません。悠久に続く天地のことだからこのことは天が観てくださっている、八百万の神々、どうかご鑑照ください」と。

天が観ているという心境は、自分にとっての都合や損得、その他の利害などを優先しているのではなく文字通り天に問い天が見ているとし天の基準に沿って歩んでいくという道の生き方です。

天が見ているという生き方はとても明るくのびのびした精神を持っています。そこには自己を中心に裏表があるのではなくそのままの自分を天に見てもらっているという偉大な安心感を持っています。

自分の心に正直であるか、自分の心は真心のままであるか、それは自分ではわからないものです。だからこそそこを天に問い、天がどうなさるのかの判断にゆだねて任せて生きていくのです。

私自身もいつも真心で生きたいと思っていますが、果たしてこれが真心であったのかどうかわからないことばかりです。しかし天が見てくださっていると信じて、天の判断に任せてそれをすべて受け入れて受け止めると覚悟を決めて歩んでいけばそのすべては天の采配であったと直観し、これでいいとすべてを丸ごと受け容れることができるように思います。

この天の采配とは、偉大な天の真心に触れるということです。

吉田松陰は生き死にが判断基準で良し悪しを考えたのではなく、まさに天の采配のすべてを信じて道を貫いたのでしょう。

最後に、常岡一郎氏にこんな言葉があります。

「宝物は大切にされる。危険なところに置かないように心を配る。人の世の宝と仰がれる人がある。そんな人は自ら求めてなくても大切にされる。心の使い方の美しい人はよい運命に守られている。危ないところから遠ざけられている」

吉田松陰は俗世にまみれてなお魂を磨いて俗世の穢れを取り払い、澄んだ心を磨き切った宝だったように思います。今でも大切にされるのは、その心の使い方が美しかったからです。生き死にが問題ではなく、天命のままにやり遂げたというところに運命から守られたという余韻を感じます。

このように死してなお今でも燦然と輝き続ける吉田松陰の魂のように、天は必ずその人の天命に沿う生き方を未来永劫変わらずに応援してくださいます。私の歩んでいる道はかんながらの道、悠久の八百万の神々と共に往く道ですから常にその古の神々がいつも見ているとし天との対話を続けて歩んでいきたいと思います。

生き様

人間はその時々において学び方というものがあるように思います。例えば、様々な知識を詰め込んでいろいろな人に会って智慧を獲得していくという学び方があります。そしてその学んだ智慧を今度は、後に続く人たちやこれから学ぼうとする人たちが獲得できるように伝承していくような学び方もあります。

学び方というのは、つまりは道ともいいますが古来より受け継がれていくものであり知識や智慧というものは伝承されて次世代へと紡がれていくものです。

それを伝統文化ともいいます。

この伝統文化は辞書には「世代を超えて受け継がれた精神性」「人間の行動様式や思考、 慣習などの歴史的存在意義」と書かれています。

学び方というのは、生き方ですからその人の生き方が伝統として世代を超えて受け継がれていきます。

何を遺していくか、何を次世代へと譲っていくかと考えるときに、私はこの伝統文化の価値の偉大さを感じます。

会社や組織は、もって100年とも言われます。日本では300年以上続く老舗が400社以上あるともいいます。形あるものはいつかは必ず滅びますが、日本ではそういう伝統の精神が引き継がれて今にまで続くものが多いといいます。そこには道があり、その職種職業にも生き方があったからに他なりません。

例えば親祖の伊弉諾や伊弉冉をはじめその後に和を理念とした聖徳太子、国風文化の礎となった菅原道真などの生き方は、世代を超えて今でも私たちの暮らしや思想に影響を与えています。名前をいちいち思い出さなくても自然に自分たちの血肉となり精神となりいつまでも私たちの生活を見守り続けてくださっているようにも思います。

この伝統文化の偉大さというのは、生き方が継承されていくということです。

自分の生き方を遺すという偉業は、遠くの先まで観通し長い目で観て今何をすべきかということを問い、先人からの智慧を次世代へと揺るぎなく紡いでいくための徳行でもあります。

自分の身の心配よりも、世代を超えて子孫たちのことを慮る心はすべて思いやりから発心しているものです。

こういう志事に関われることは人生の一大事であり、何のために生まれてきたのかという答えを生きていくという生き様です。

引き続き生き様を優先し、その生き方を貫く人たちを支え、自らのその学び方生き方を高め続けて精進していきたいと思います。

 

活かし合う社會

もともと人はそれぞれに価値観が異なります。生まれ育った環境から、あるいは遺伝子の繋がりから、あるいはもって生まれた天性もあり性格なども異なります。その価値観の異なりは文化として出てきては、それぞれの個性、持ち味としてそれが社會の中でお互いに有効に活かしあいます。

これは自然界でも同じで、一つの植物は他を活かし、また一つの虫もまた他を活かし、お互いに異なりながらも活かしあう存在して自然は社會を創造しています。そこには一つの価値観だけで他を排斥するようなものはなく、お互いに必要な存在であると認め合っていることが大前提にあります。

その大前提が人間中心主義で崩れれば、人間以外のものは尊重しないという価値観があたり前になってしまいます。そうすると、何が自然で何が不自然かが分からなくなります。

現在、人類が大きな分岐点に来ているといわれるのはこの自然からの乖離が顕著になってきたことが原因だと私は思います。西洋から入ってきた人間中心主義が蔓延し、自然に活かされているということを忘れ、お互いを尊重し合うことをやめたことが加速度的に人類の危機を高めてしまっているように思います。

国家間においても、共異体であることを認めようともせずグローバリゼーションの名のもとにお金を用いて一つの価値観に塗り替えてしまおうとしていますが、それをすればするほどに多様性は失われより自然は破壊されていきます。

本来、それぞれの持ち味や価値観の違いはお互いを活かしあう上で大変重要な自然の摂理ですからもっと異なることを大切に他を思いやり排除するのではなく共に異なるままで活かしあおうとした方が自分が生き活かされる美しい社會が創造されます。

人類の未来のためにも、子どもたちの未来のためにもまずは自分の中にある刷り込みを取り払い、周囲の環境を改善し、実践によって気づき合えるよう学びを深めていきたいと思います。

意識の磨き直し

先日から心技体のことを書くことがありましたが、その心技体によって顕現するものに意識というものがあります。意識の差というものは、すべての結果やプロセスに顕れてくるものであり意識の低さは問題意識に低さでもありますから自分の磨き方によって差が出てくるものです。

磨き方というのは、どのような意識で磨くかで光り方も変わります。先日、ある左官職人が泥団子を磨き上げ、それがあまりにも美しく、それに自分の名前をつけて名刺の裏に印刷しておられました。これは自分の紹介に、自分の目指している目標の高さを磨くことによって表現しておりここまで自分はやりたいという一つの自己表現でもありました。たかが泥団子、しかしされど泥団子なのです。どんな小さな仕事であってもその人の意識次第でその仕事は大変な価値があるものにもなるのです。そしてどのような意識を持つかは、人間の能力向上や才能開花において重要な価値を秘めています。

日本電産の永守重信氏にこのような言葉があります。

人の総合的な能力は、天才は別として、秀才まで入れてもたかが5倍、普通は2倍しか違わない。ところが、やる気、士気、意識は100倍ぐらいの差がある。だから、少々能力がなくても、意識の高い人間を採ったほうがいいと思っている。世の中には、成績のいい人を採れば、さぞや立派な製品やいい客を開発するだろうと考える。もしそうなら、日本電産などとっくに大企業につぶされているはずだ。」

そして永守氏は、意識を変えることで人を育てるとし経営をそこに集中させて人や会社を変革させておられます。

この意識を変えるというのはどういうことか、それははっきりと自分は何をしたいかと目的を定めて目標を明確にすることです。それにより分かれてしまっている潜在意識と顕在意識という意識と無意識の力が合一します。そしてそのためにもっとも必要なのは覚悟を決めることです。

意識が高いか低いかの差、言い換えるのなら当事者意識があるかないかの差はすべてはこの覚悟が決めます。こうなればいいだろうとか、うまくいけばとか、漠然としたままで何かに取り組んでいても意識が変わることはありません。

まず意識を変えるのが先で、どんな時もまず先に何のためにやるのかを突き詰めたあと「自分はどうしたい?」と自分に確認し、その目的に対して覚悟を決め行動をコミットすることで意識を育てるのです。

意識が育つのと同時に、成果も育っていきます。覚悟を決めて目的を定めた30年と、いつまでも漠然としたままで過ごしてしまう30年ではどのような成果になるかはすぐにわかります。

そういう意味で日々は、意識を磨くための大切な一日ですから覚悟を決めて日々の仕事に如何に邁進するかはその人の一生を決めるだけでなく、その人の周囲への影響も決めてしまいます。

環境に左右されない力は、この意識の醸成にこそあります。

引き続き、意識を高め意識を育て、意識の磨き直しを続けていきたいと思います。

職人の志事

昨日は無事に聴福庵の床の間に、砂鉄塗の壁が塗り終わりました。たくさんの左官職人さんたちが見守る中で、一人の左官職人が真摯に壁に向き合って黙々と塗っていく姿には深く心が打たれるものがありました。

職人の志事に取り組む姿勢、まだお若い方でしたが親方について学び、親方が見守る中で真剣に塗っている様子に講習を受けていた他の左官職人さんも次第に目が奪われていくのがわかりました。

職人たちはまるで本物の家族のように温かい感じがして、一緒にいるととても居心地がよく、楽しい時間はあっという間に過ぎていきました。みんなで同じ道に生き、同じ釜の飯を食う、こんな当たり前のことが懐かしく感じるのは、それぞれが日本文化そのものの受け継いで根っこがつながっているからかもしれないと感じられました。

みんな言葉は少なくても、それぞれが材料をつくってみたり、調合を変えてみたり、また塗り方を試してみたり、正解のないものの中からもっともその素材を活かしどのような壁にするのかを研究して周りをみながら研鑽を積んでおられました。

今回、来庵された左官職人さんたちはほとんどが独立してそれぞれの場所で左官仕事を請けておられる方々ばかりでした。日ごろはみんな離れていますが、お互いにみんなそれぞれの持ち場で真摯に挑戦し努力していると思えるから存在そのものが励みになるそうです。

そう考えると、師や仲間の存在があるからその人はさらに向上していこうとする。道の中で誰に出会うかどうかは、その人の生きる姿勢で決まります。

働く姿勢は、そのまま生きる姿勢なのです。

昨日の道場では、心構えをまず親方の姿勢から学び、技術はそれぞれの現場で日々に真摯に磨き、その実践を身体と行動で示す。その生き方を確認する機会であったように思います。

昨日も道具に対する姿勢について、たとえ年上であってもそれは間違っているとその道具への姿勢を叱責したり、あるいは火加減一つにしても厳格に指導したり、あるいは塗りにくくないかと配慮をしたり、あるいは弟子の悩みを朝からじっくり聴いてアドバイスをしたりと、そこには気づきと学びが凝縮された場が醸成されていました。

今回の体験で、左官職人たちがあのように自ら学び、自らが主体的に同じ道の上で切磋琢磨していく姿に本来の学校のあるべき姿を感じることができました。

なぜあのようになるのかをもう一度見つめ直し、日本古来からの精神の伝承、さらには文化伝承の仕組みを引き続き紐解いていきたいと思います。

砂鉄の壁は、紫黒の中に星がキラキラと煌めき、陰翳の中で瞬いている宇宙のようです。この宇宙空間の中に、私たちも存在させていただいていることを改めて悟り、このことを忘れないでいようと初心を定めました。

今回の左官講習ご縁に深く感謝しております。それぞれがお元気でお志事に邁進し、皆様にいつの日かまたお会いできるのを楽しみにしております。本当にありがとうございました。

道の師弟愛

昨日から聴福庵の床の間の砂鉄塗のための準備を、各地の左官職人さんたちと一緒に行いました。夜はそれぞれ自己紹介をしながら左官の仕事や生き方について語り合う豊かで味わい深い時間を過ごすことができました。

若い職人さんたちはみんな一生懸命で、親方の指導を受けて真剣に土の配合や塗り方などを学び取っていました。親方も弟子たちや左官職人さんたちの持ち味や性格を見抜き、それぞれに必要なアドバイスやまた励ましをしていたのが印象的でした。

そこには単なる技や能力を教えるのではなく人間としてその弟子たちや職人たちが健やかに成長していくのを見守っているようにも感じ親方の愛情と仲間たちの親愛の情に心が温かい気持ちになりました。

親方というのは、その道を究めその道で先を生きた人です。その親方が自分の歩んできた道から、葛藤し悩む弟子たちに生き方を語り、その姿でこの仕事の美しさや使命感、さらには何が人生において大切なことであるかを優しく諭します。そこに兄弟子や指導を受けた先輩が、他の未熟な弟弟子たちに「親方の顔に決して泥を塗るなよ、つまらない仕事をして名前を汚すなよ、心構えが甘いものや幼稚な技能をやるなよと本気で研鑽を積むように」と親方がいないところで厳粛に指導しておられました。

こうやって職人たちはその場で一緒一体になって、心技体を学びます。優しく穏やかに見守る親方と、厳粛に指導する先輩職人、そしてそれを受けて生き方を見つめる若弟子の姿、この伝承の学び合いの美しい瞬間に立ち会えて仕合せな気持ちになりました。

今の時代は、一般的な会社では師弟関係などはありませんしあくまで仕事とプライベートは分かれていますから生き方や働き方まで指導してもらおうなどとは思ってもいない人が多いでしょうし、何かあればパワハラなどと言われ遠慮してあまり深入りしないのが今の世の中の風潮です。

しかし道に入るというのは、生き方を変えるというこですから師は弟子に本気で愛情を注ぎますし、志を持った弟子はその愛情を受けて必死に育とうとします。師弟愛というのは、教育の原点であり、伝承の要諦です。

最後に、ある若い弟子の一人が今の左官の仕事は大きな会社の下請けでモルタルばかりを塗り自分のやりたい伝統の土壁や古来からの左官の仕事ができず煩悶し葛藤している人がいました。親方が、その状態を見守りながらあなたがどうするかとその弟子が覚悟を決めるのを寄り添い見つめているのを感じました。その若い弟子は、「親方に出会わなければ一生私はこんなことにも悩むことはなかった、土(生き方)に出会えたのは親方とのご縁があったから」と仰られていました。確かな「導き」を感じた瞬間に、伝統が伝承されていく心安らかな思いがしました。

最近は私も人生の後半に降りていくなかで特に日本人の次世代の未来のことばかりを考えるようになりました。

子どもたちには「生き方を学び直すことで道は拓ける、その生き方を一つでも多くこの世に遺したい」と願い祈るばかりです。

子どもたちが健やかに自分らしい人生を歩み、日本の先人たちの智慧や文化に見守られ根とつながり仕合せに花咲、実をつけ、種になれるよう、引き続き私の天命に従って遣りきっていきたいと思います。

永久の間(トコノマ)

明日、いよいよ待ちに待った床の間の壁の砂鉄塗が行われます。1年半越しに、準備をし伝統の左官親方とお弟子さん、また技術を学びたいと各地から左官職人さんが来庵され文化伝承の場として使われます。

この床の間への私の思い入れは大変強く、この床の間の甦生は暮らしの実践の中でも特に重要な意味を持っています。最近ではマンション住まいになり、床の間がなくなってきた家が増えていますが私たちの先祖は常にこの床の間に神様を祀り大切に暮らしを積み重ねてきました。

改めて床の間とは何かと説明すると、一般的には和室の一隅が一段高くなっているところで掛軸や置物、生花などが飾られています。しかし本来の床の間は、16世紀頃に登場した書院造りに取り入れられた「主君の座」だったといいます。そこは神聖な空間で、またハレの場であり、その主人そのものが顕現する場です。

この「トコ」という響きは、「トコシエ(永久)」、「トコヨ(常世)」と同じ音を持ち、古来から「永遠」という意味で語られます。一家の求心力や、一族が絶えることなく永久に続く象徴そのものが「床の間」であり、この床の間こそ家全体の中心であると私は思っています。

またかつての暮らしがいまでも色濃く残る沖縄では、「床の間は屋敷を守る男の神様がいる神聖な場所なので、床のある和室を一番座と呼び住宅の中で最も高貴な場所である。」と言い伝えられています。実際に、明治頃までは、床の間には神様が宿ると信じられ、神様が依り代になるものを設置し、そこに神様が入ってきてくださる空間であると信じられていました。

実際に、空間という字は、「空」と「間」からできている言葉です。これは入れ物のことであり、器を示します。神様がどれを依り代に降りてこられるか、次々に家の中に入ってきてくださる八百万の神々がそこに鎮座し、その神様をお祀りしおもてなしする至高神聖な場がこの「床の間」であると私は直観するのです。

もっとも清浄で神聖なその永久の空間を、どのようにするかは聴福庵がはじまったときからの主人としての大きな命題でした。それが地球の星魂の欠片でもある砂鉄を用いることができるご縁が本当に有難く、感謝の念が湧いてきます。

この家の暮らしの中心の床の間の甦生は、すでにはじまった聴福庵の息吹と誕生の大きな節目です。これから子どもたちのために風土や初心を伝承していくために主人のいのちが入る瞬間です。

炭と鉄に見守られ、火と水に支えられ、心玉が磨かれて光り輝いていく日本刀のように和魂円満の永久の間を味わいたいと思います。

 

参画協働

人生において主体性や自主性は、参画や参加によって磨かれていくものです。そしてその一人ひとりが参画し参加することで社會は形成されていきます。人間は社會を創造する生き物ですから、如何に周囲とつながり自分を活かしていくかは人間の命題でもあります。

上下関係の刷り込みを持ち人は誰かからやらされたり管理されたりすることが当たり前になると、やらせる側とやる側が分かれてしまいます。黙って口を空けていれば勝手に押し込んでもらえるような生活を続けてしまうと、自分から取りにいこうとも思わなくなるものです。この刷り込みが邪魔をして参画することも協働することもできなくなるのは事実です。

これは幼少時からの詰め込み教育にはじまり、誰かが管理し教え込み、何度も無理やり詰め込まれているうちに自分から何かをしようとする興味もなくなっていきます。そうなると次第に学ぶ意欲が失われ、ロボットや機械のように同じことを繰り返す人間になってしまうこともあります。最初は抵抗するのですが、そのうちこれが楽なことを知り、それに依存してしまうのです。しかし本来の人間らしさや個性を発揮していくには、まず受け身であること、他人のせいにできることを捨てていかなければなりません。これは楽にはなりませんが、主体的に責任を持つことでなんでも楽しくなるものです。

そのためにまず必要なのが参加や参画することです。

まず参加するとは、ある目的をもつ集まりに一員として加わり、行動をともにすることを言います。会社に所属すればすでに一つの社會の一員ですから参加していることになります。そして参画ですが、これは計画段階から一緒に取り組んでいることをいいます。今の時代は、如何に無関心を取り払い社會の一員としてみんなが参画してくれるかがどの社會においても課題になっています。

この参画は、例えば人のアイデアに乗っかったり、わざわざ自分から足を突っ込むというようにはじまりの段階から一緒に取り組んでいくことで実現します。先に進めてしまったり、勝手に一人でやっていたら参画する機会がありません。如何にはじまりのところから一緒に取り組むかが大事で、途中参加だと主旨が分からずに最初は着いていけなくなったりするからです。参画意識というものは、誰かからの指示が降りるのを待つのをやめることで高まっていきます。

人生を楽しくするのも、仕事を楽しくするのもすべてはこの参画意識からはじまります。それは会社経営においても、自分から運営に参画したり経営に参画しているという自覚を持てば仕事は楽しくなってきます。やらされたりさせられたりする仕事は面白くなくなってきます。如何に面白い人生、楽しい仕事にしようとするのなら自分からその人生や仕事に進んで参画して自分自身が主体的に自分の人生の主人公になっていく必要があるのです。

やりたくないことを続けているうちにマンネリ化し、やりたくない中でサボることが楽しいとインプットされた末路は空虚なつまらない日常が訪れるかもしれません。

まずは自分の中にあるその上下の刷り込みや管理の刷り込みを取り払い自由になることに挑戦することかもしれません。これに気づかずに無意識に苦しんで孤立している人が組織にはたくさんいます。実際に大人の刷り込みを取り払うのは本当に大変ですが、取り払うことで生まれ変わりその人が甦生し個性が活き活きする姿が見たいから何度も失敗しても私はそれに取り組んでいくのかもしれません。子どもたちには、最初からの姿のままで大人になってほしいと願います。

参画と協働は、常に表裏一体です。

引き続き、子どもたちのためにも見守ることを学びながら自立の意味を深めていきたいと思います。

 

変化の要諦

人は誰にしろ自分の常識というものを持っています。それを価値観とも言いますが、自分の与えられた環境が当然としてそれを常識にしてしまうものです。またその人がそれまで育ってきた環境によって常識はより強く形成され、自分の見ている世界や考え方が正しいと思い込んでしまうものです。

そうやって思い込んでしまった常識は、環境が変わると取り払われるものもありますが思い込みが強い場合は無理矢理に自分の常識に当てはめようとしてしまうものです。そうすると、本来の姿も湾曲して理解したり、自分の常識と異なるものを批判したり否定したり、さらには常識に従うように強制したりするものです。

人間関係において意見がかみ合わず折り合いがつかないのもまた、自分の常識を捨てられず手放せなせず、お互いに思い込みで話が平行線のままぶつかり合うことのほとんどがこの常識を毀せないことが理由です。

常識が毀せないというのは、自分の価値観から外に出れないということでもあります。自分がこうあるべきと思い込んだり、誰かや環境にそうあるべきと思い込んでしまうとそれを当然であると無意識にそれを正当化してしまいます。そうやって一度正当化したものは、考えられることもなく当たり前のことですから間違っているかどうかなども疑問にも思わないのです。

本来、正しいかどうかや常識であるかどうかよりも大切なものが本質です。何のためにやるのかと、目的に応じて優先順位を定めていかなければ理に適いません。この理とはあるがままの実相を理解する力であり、理由や意味を常識に囚われずに素直に見極めることができる力でもあります。

常識に囚われたり自分の思い込みが強い人は、自分の価値観の視野から抜け出しませんから必然的に視野が狭くなります。その視野は、自分の殻を破れないという言い方をしたり、自分の思い込みの外には出ようとはしないとも言えます。行動範囲も視野に応じて狭くなり、創意工夫もまたマンネリ化して変化することができなくなります。

如何に自分の常識や価値観を毀していくか、そのためにはあるがままに素直に人の話が聴けなければなりません。人の話を聴く中で、鵜呑みにするのではなく相手の言葉に一理あることを学ぶ必要があります。そうするためには、その意味する理由、つまりは理念や目的を確認し、その本質に対して自分の価値観や常識を毀し続けていく変化を求めていく必要があります。

そしてそれは新しい自分の発見をし、新しい常識を創り続けていくことでもあります。自分の常識に世界を従わせようと意固地になり頑張るよりも、自分の方を新しい常識に合わせて変えていけばいいというのが変化のコツです。

そして変化のコツは、如何にその新しい自分になっていくのを楽しむか、古い自分を毀し、新しい自分に出会い続けていくかという自分の視野を広めて価値観を柔軟にしていくプロセスをたくさん持つということです。

一生の中で、狭い視野の中で居続けているとそのうち周りの環境の変化に取り残されていきます。頑なに自分の価値観や常識から抜け出さないように努力するよりは、思い切って自分の価値観よりも大切な理念や目的に向かって自分を変え続けていこうと思う方が楽しい変化に富んだ豊かで充実した日々が過ごせるように思います。

人は自分の価値観の器をどれだけ大きくできるか、如何に柔軟に自分を変え続けるかで人生の歩み方が変わります。もっとお役に立つようにと、もっとみんなの力になるようにと、目的や原点に対してサラリと変われる人はいつも本質的ですし自然体です。

引き続き、子どものためにせっかく夢に向かって挑戦していくのだから楽しく豊かに変化の日々を味わい尽くしていきたいと思います。