幼少期からの刷り込みの一つに、正解思考というものがあります。いつも自分で本質を考えずに、誰かが言うことの何が正しいか間違っているかを常に教え込まれてしまうといつも正解思考の刷り込みを持つものです。
この正解か間違いかというのは、まず必ず正解がどこかにあることが大前提であり誰かが必ず自分の答えを持っている思い込んでしまいます。そうなると相談一つであっても、どこかに存在するであろう答えを確認するためのものになってしまい本来の相談の意味ではなく単なる正解探しになってしまいます。相談とは、問題の解決のために話し合ったり、他人の意見を聞いたりすることをやることですがこの相談の定義すら正解思考を持つとすげ換ってしまいます。正解探しが相談することになってしまえば、答えを持っていない人に相談しても意味がなく結局は一人でやった方がいいということになります。
特に組織において上司が答えを持っていると思い込んだり、先生が答えを持っていると思い込んだり、教科書通りにやっていくことが正しいと信じ込んでいるとマニュアル思考になってしまいます。
このマニュアル思考とは何か、それは受け身で依存体質、指示待ちになっているということに他なりません。主体性というものは、本来、自ら考えて行動する力であり、それは答え探しをするのではなく一緒にそのプロセスを考えながら最終的な方向へと進めていく能力でもあります。結果から考えるのではなく、その進路において一緒に答えを意味づけしていくということの連続です。日本人は特にその刷り込みが多く、マインドマップやブレーンストーミングなどでその刷り込みを取り払う研修も増えています。
話を戻せばそもそもすべての行動には目的があるものです、つまり何のためにやるのかという理由があります。それを目指してそこに向かうプロセスにはありとあらゆる組み合わせがあり、ありとあらゆる途中過程があります。その方針を確認したら、あとはその方向に向かってみんなで協力して助け合いながら歩んでいくことが主体性ともいえます。
況や、主体性とは自分から答えを導きだしていくための道程であり、それは決して誰かの正解を探して正解になることを求める工程ではないと私は思います。
何度も何度もパブロフの犬のように条件反射で、誰かの評価ばかりを気にして正解を教え込まれ、その正解を見つけては褒められ評価されるということを繰り返しているうちに、正解は自分以外のだれかが持っていると思い込んでしまうのでしょう。しかし大宇宙のようにこの世のすべてが一つの正解で理解できることなどは存在せず、無数無限の正解があるのです。それは人間が同じ人は誰一人存在していないことが証明しています。
人が協力することができるのは、一つの正解を信じ込んでいるからできるのではありません。一人ひとりが多様性を発揮し自分らしく生きて周りのアドバイスに助けてもらい、主体的に自ら問題に果敢に挑んでいくということの連続によって主体性は伸びていきます。それが多様性の本質であり自然体になるということです。
このブログもまた決して読む人に正解を教えているのではなく、間違いだと言っているわけでもはなく、刷り込みによって受け身になり依存になり、誰かの正解にゆだねるような生き方をしてしまったことを反省し、本来の自分の決めた生き方を優先していきようと自己を発奮していくために内省し記しただけです。
どうしても語気が激しくなるのは、その刷り込みの感情が自分の中にもまだ残っているからかもしれません。自分らしく生きられなかった頃のつらさも今では福に転じている私のように同様に悩んでいる人たちの力になりたいと切に願うのです。
子どもたちが自分らしく自分の有意義な人生を充実させ、いのちを昇華し、たった一つの個性を世界に役立てていけるように刷り込みを取り払い本来のその人の価値が燦然と輝くように今を生きる大人(先生)の使命として見守り続けていきたいと思います。