ダイバーシティ&インクルージョン

現在、ダイバーシティ&インクルージョンといって世界では多様性の確保とそれを受け入れ活かすといった包摂を行うことでどの政府や企業でも取り組まれています。これは急激な変化に対応していくためには、画一的な人材ばかりを持つのではなく多様な能力を持つ人たちが自分の持ち味を活かして協力し様々な変化に対して柔軟に対応していくために必要であると実感しているからでもあります。

特に価値観が入れ替わるような世界の大きな変遷時期において、イノベーションはどの組織においても最大の課題です。日本は老舗企業が世界でもっとも多く、常に時代の変わり目にはそれぞれに変化を続けて数百年の歴史を築き上げてきました。そこには当然先ほどのダイバーシティ&インクルージョンは存在していたはずです。なぜなら多様性や包摂というものは、かつての和魂漢才や和魂洋才のように和魂を醸成し渡来するのよき文化を自分たちの文化に吸収していくということを行っていく過程で磨かれるプロセスの一つであるからです。

しかし私は現在で取り入れているこのダイバーシティ&インクルージョンには疑問を感じることが多々あります。それはいろいろな価値観を受け容れて多様な人々を活かすといいますが、そこに伝統とか理念というものがなければ結果的には烏合の衆のように渡り鳥が自分のことだけを考えて移動するようになってしまうからです。

伝統や理念というものは目的そのものです。本来、老舗にはそれがあってはじめて多様性も包摂も活かされてきたのであり、そこが弱くなっていればただ混沌とするだけの組織で変化に強いようにみえて柔軟性は失われていきます。多様でなければならない、包摂していないと文句を言っていたらかえって組織も硬直してしまうからです。自由の問題と同じく、伝統が失われていくから自由や不自由かが目立ってくるのであり改めて自分たちの理念が何かということを定め、それを歳月を磨きあげてきた伝統の極みまで掘りさげて常に理念を甦生させ続けているからこそこのダイバーシティ&インクルージョンは実現するのです。

私が伝統にこだわるのは甦生のためであり、初心伝承のためです。

引き続き、子どもたちが安心して自分らしく生きられる世の中にするために知行合一、様々な実践をしつつ本質に近づいていきたいと思います。

 

 

自由という教材

自由というものを深めていると創造や独創という言葉を直観するものです。つまりは一人ひとりは天才であり、その天才が自分自身を発掘するプロセスにおいて自分なりの方法で自分らしい答えを創出していくということです。

とことんまで天命を追求していけば、自分にしかできないことに人間は出会えるものです。そのうえで、自分の実体験から考えたことはすべて独創的で創造的なものですからそのプロセスを重んじることで人生は唯一無二の自分自身に近づいていくように思います。

自由という言葉は、そもそも誰とも比較しないという前提があります。似ている言葉では私の解釈ですが、独立不羈なども同義であろうと思います。これは辞書をひけば「他からの束縛を全く受けないこと。 他から制御されることなく、みずからの考えで事を行うこと。」とあります。その本質は「自らものを考え、それを行動に移し、移した行動については自ら責任を持つ。それが、独立不羈の精神」です。

本来の自由の意味をどれだけ深く理解しているか、そのためには常に自分自身と向き合い自分自身の人生のプロセスを味わえる芯の強さが必要になります。

そこに本物の自己自立があります。

徳と才を兼ね備えるには、自分のかけがえのない人生を自分自身が主人公として磨いていかなければなりません。世間の常識に縛られたり、誰かの制約を受けたり、そういうものを乗り越えて自分自身であり続ける精進があって自由を満喫することができます。

誰かから与えられた自由や不自由にばかり囚われ、自分自身であることを忘れてしまえば本当の自由は遠ざかるばかりです。

如何に世界でたった一人の自分を仕上げていくかは、その人の生き方次第です。自由という教材は、それだけその人を磨くには都合の善い価値のあるテーマです。本来の自由にどれだけの子どもたちが気づき、それを自分なりに咀嚼して世の中に唯一無二の個性を発揮していくことができるのか。

私自身の人生のプロセスを省みながら、その文化や存在価値をどのように次世代へと継承していくのか、新しい時代の教育と学校というものの復古創新を同志たちと共に進めていきたいと思います。

自に由る

自由の森学園の学園祭に来て見学をする機会がありました。子どもたちがそれぞれに自分の個性を活かして学園祭を盛り上げています。若い時に、不自由と自由を体験することは自分の中にある本当の自由を獲得していくうえで大切な学びであろうと自分の人生体験から私は思います。

本来の自由の価値は、創造の中にありますから常に限界を定めず常識に囚われず本質や真実を掘っていくのはすべて自分自身を知ることからはじまります。

自由の森学園の教育理念は、日本の有名な数学者でもある遠山啓の思想の影響を受けています。その遠山啓は、数学のことをこう言います。

「数学は、人間と人間の集まりである社会とが、長い年月にわたって創りだした歴史的な産物で、計算術ではなく、ひとつの思想なのだ。」

その遠山啓は、近代の社会や教育のあり方に警鐘を鳴らし本来の子ども側に立った教育とは何かをその著書や言葉によって語られておられます。

「競争心を刺激する教育法は、たしかに手っ取り早く人間をふるい立たせる力を持っている。しかし、その反面、目標を他人におくために自分自身を見失うという欠陥をもっている。」(『競争原理を超えて』遠山啓)

「人間はひとりひとりがみな質的に異なった存在であり、したがって、比較不可能・序列不可能だと私は考えている。その不可能なこと、つまり、序列化をむりやりに行なおうとするやり方を、私は『序列主義』と名づけて反対しているのである。」(『競争原理を超えて』遠山啓)

この言葉を並べるだけで、何を言わんとしているのを直観できるものです。農業でも養鶏でも、野菜はみんな同じ形で同じ味、鶏も同じ大きさで同じ量の卵を産ませられ、少しでも平均から外れれば「異常」として排除していくという考え方、何が本来の異常なのかは誰でもわかります。本来は誰かによって自然の本質が歪められ、新しい常識を植えこんでいくことが異常なのです。

異常が常識に挿げ替えられ他と異なるということは自分も排除されるということになると、どんどん本来の意味での自由や個性が尊重されにくくなっています。個性とはそのものが持って生まれた質であり、先ほどの農業でいえば色々な個性の野菜がある方が質的に優れており工夫しだいではあらゆる料理にも活かせますし、養鶏ではたとえ卵を産まなくても卵を温めるのが上手な鶏があってもそれは同様に質的に優れているのです。

遠山啓はこういいます。

「こうなると、せまいワクのなかで、はやく答えがだせて、しかも、ミスをしない、というものがいちばん優秀ということになる。これにいちばん適しているのは官僚ですよ。官僚は必要なんだけれども、官僚に向いていない人間までおなじモノサシで測られてしまうのが困るんです。」

人工知能が出現した現代において、以上のような人間はすべて人工知能に代替わりされていくことになるでしょう。そうなると余計に、何のために学校にいくのかをもう一度考え直す時期に来ているのは明白です。

「おとなにはあまり期待がかけられない。まちがった教育でだめにされてしまっているからだ。しかし子どもにはまだ希望がつなげる。そのためには、いまのまちがった教育を変えて行かなければならない」

では、どう変えればいいのか、そこにもいくつか言及されておられます。一つは、「楽しくすること」であるというキーワード、そして他には「序列意識を持つな」というキーワードです。そして「「わからない」ということを、人前で堂々と言える雰囲気を作らなければだめ。」というキーワードです。わからないと言えるということは、学問を楽しみ自分自身であることが肯定されているという自信の姿になっているということであり、刷り込みを脱却できたということだからです。

最後に私がもっとも遠藤啓の言葉に共感するものを紹介します。

「創造ということは、がんらい、なみたいていのことではない。そのためには絶対に必要な条件がある。それは自由ということである。」(『子どもの側にたつ』

・・それは自由ということである。

自に由ると書いて自由ですが、まずは自分自身と深く対峙して自分自身を知ることが創造の第一歩であろうと私は思います。引き続き、様々な刷り込みを直視し学び直しながら復古創新していきたいとおもいます。

 

 

近未来の創造

先日、ある小学校で子どもたちに将来の夢について就きたい職業を書きなさいという課題があることを知りました。そこには、それぞれに将来自分が就きたい職業を書いて提出するものになっていて、子どもたちは経営コンサルタントやサッカー選手、ミュージシャンなど色々と書かれていました。

先生の課題のねらいまでは確認しておらずよくわかりませんが、今の職業が将来残ってという可能性が低くなっているのは世界情勢からもわかります。

グーグルの創業者で現CEOのラリー・ペイジ氏がファイナンシャル・タイムのインタビューの中で、「20年後、あなたが望もうが、望むまいが現在の仕事のほとんどが機械によって代行される。」 といいました。さらに必ず起こると断言していることは、人工知能の急激な発達により、現在日常で行われている仕事のほどんどをロボットが行うというもので、近い将来、10人中9人は今とは違う仕事をしているだろうと言っていました。

オックスフォード大学の調査でも、20年後には約47%の職業が機械によって代行されなくなっていると予見しています。

現実として、人工知能が出てきたことは間違いなく知識を使った労働に対して大きな変革をもたらします。人間が今までやってきたことを、力の部分だけではなく知識の部分、さらには智慧と呼ばれた部分にまで人工知能やロボットが肩代わりしていくという事実は、世界を席巻していくのは間違いないことでしょう。この良し悪しを人類が時間をかけてじっくり語り合うこともゆるされず、技術の急激な進歩はもはや誰にも止められません。

人間はまだその現実に心が着いてきておらず、多くの人はこの問題を直視しようとしていないことが多いように思います。しかし近い将来、10人中9人が他の仕事をしているという事実は簡単に予想されますから、あるかどうかわからない職業を求めるよりも如何に今の自分が自分らしく新しい分野を創造していくかと考える方が価値があるように私は思います。これを逆手にとって考えれば、機械や人工知能にはできない人間らしい新しい仕事を9人が開拓したということでもあるからです。

人工知能が出現しているすぐそこにある近未来において、果たしてどんな新しい仕事を創造していくか、子どもたちはそれを自由闊達に語り合い学び合い、未来を豊かに切り拓いていく存在であります。

だからこそ自分の実体験と人生経験で振り返り大切だと感じるのは、柔軟性や楽観性、また五感を磨いたり、遊び心を蓄えたり、さらには自国の独自の文化や、先人からの智慧に触れ、生き方を素直に学んだりすることが人工知能にはできない人間の持ち味の発掘になるように私は思うのです。

今の大人は現実を直視できないこともあるかもしれませんが、子どもたちは次の時代を生きていく存在です。その存在たちを信じて見守れるように、今、私たちが何をなすべきか、心とよく正対し向き合う必要があると私は思います。

自分のことばかりを考えて疲弊するのではなく、もっと豊かに未来に何を譲り遺していきたいかを語り合いそのために今を大切に遣っていくことが未来の子どもたちを助けることになるように思います。

先祖たちが何代もあとの子孫たちのために木を植え続けたように、私も今の時代の木を植え続けていきたいと思います。

 

ボタを拾う

昨日は知人と一緒に、郷里のボタ山周辺で石炭を拾ってみました。石炭とは、数億年前の植物が完全に腐敗分解する前に地中に埋もれ、そこで長い期間地熱や地圧を受けて石炭化したことにより生成した物質の総称のことをいいます。

今では見たことも触ったこともない子どもたちも増えていますが、少し以前まではこの石炭が燃料やエネルギーとして私たちの近代化の発展を支えていた材料でした。石油も化石燃料ですが、この石炭もまた化石燃料です。豊かな湿地帯や水辺、砂や泥が多いところに巨大な森があったところから石炭は出てきます。かつてここ筑豊一帯は、大きな森に覆われていたことが分かっています。

そしてこの筑豊にはボタ山というものがあります。石炭でも燃えなくて使い道がないものを炭鉱夫はボタ(捨石)と呼び、それを捨てたところが山のようになっていることから名づけられました。このボタ山は、炭鉱閉山後は自治体から「負の遺産」として位置づけられることが多く石炭産業に代わる産業として炭鉱跡地に工業団地を造成したり、最近ではソーラーパネルを設置したりと急速に数が減ってきています。同時に日本の近代化を支えた石炭産業の象徴としてボタ山を恒久的に残し、維持管理していこうとする動きも出始めて歴史遺産として遺していこうという活動もあります。

郷里には、優美な美しさから「筑豊富士」と呼ばれる日本最大級のボタ山があります。これは大正7年から集積され始め、昭和40年の閉山までに10tトラック70万台分がたまっていきました。なんと高さ141メートル、敷地面積は22.4ヘクタールあります。

40年以上前に使われなくなったボタ山も、時代の流れと共に子どもたちには忘れ去られていきます。歴史というものは、学び直すことと価値を再発掘することでこれから生きる私たちに風土の大切な教えとして発展を約束してくれるものでした。なんでも均一化し、平均化していく世の中で、如何に風土の個性や歴史の価値、また文化の智慧を継承していくかは今の大人たちの課題です。

色々なご縁を味わいながら、歴史を学び直し、風土の魅力を再発見し、子どもたちに風土とは何か、文化とは何かを復古創新し、伝承していきたいと思います。

 

人生の鉱夫~着宝~

先日、人生の鉱夫のことを紹介しましたがなんでも掘っていくうちに発掘できる喜びに出会うものです。掘り下げていくことは、今まで観えなかった世界に出会う喜びであり、今まで知らなかった自分の心に出会う旅でもあります。遠くにいかなくても、今いるところを掘っていけばそこに自分の運命や天命、宿命があることに気づいていきます。

そしてそのすべてを受け容れ認めるとき、「ああ、そうだったのか」と自分自身の持って生まれた才能や自分の興味がある本質に気づき仕合せな気持ちになるのです。

掘り下げている最中は、ほとんどが泥や砂ばかりです。しかしいつの日か、宝石に出会えると信じて掘っているのならその掘り下げる最中は仕合せな時間でもあります。すぐに人は、掘っても何もないではないかと文句を言ったり、悲観的にこれだけ掘ってもでないではないかと結果主義を突き付けて早々に諦めたり他人を批評したりしますが「掘っている最中こそが本来の仕合せ」であり、いつか掘り当てるかもしれない自分にしかない宝石に出会えるかもしれないと「希望を持って歩んでいく人生」こそが「自分を磨き自分を宝石にしていく」のです。

ちょうど、聴福庵の前には炭鉱王と呼ばれた伊藤伝右衛門の旧邸宅があります。この伊藤伝右衛門は、皆が途中で掘るのを諦めてしまうような岩盤の大きなところを自ら選びそこを掘り下げていった人物です。あと少し掘ればいいところを、最後の壁にぶち当たってみんなやめてしまいます。しかしその最後の分厚い岩盤の中にこそ人生のロマンがあり、自分の人生全てを懸けてその岩盤を掘りぬくことで良質な石炭、黒ダイヤモンドに辿り着いて成功した人物だったのです。それを炭鉱夫の言葉で「着炭」といいますが、今の時代ならこれを「着宝」といってもいいかもしれません。

人間は、自分の才能や能力を誰かの役に立てようとします。しかし泥や砂、石ばかりがゴロゴロ転がっている暗闇を掘り進めることは本当に精神力がいることです。ほぼ宝などないと感じる最中かもしれません。しかしその最中こそが、自分を磨いて光らせていると信じていけば、必ず自分が光り輝く宝に変化していきます。

もしもそうなるのなら宝は出なくても、宝になっているはずです。

掘り下げていく人生というのは、自分を磨く人生のことです。このブログも、日々の実践もすべて掘り下げてはじめて自分を磨けます。意味を深めたりご縁を大切にしたり、出会う人の幸福や目の前の人の仕合せのために自分を使っていくことこそが磨かれて光るプロセスです。

引き続き、人生の鉱夫との出会いを通して現代の磨きの黒ダイヤモンドを掘り当ててみたいと思います。ご縁に感謝しながら、永遠の子どもたちのために精進していきたいと思います。

 

人生という鉱山~物語を仕立てる~

人生の中ではいろいろな出来事が起こります。それは予想のつくものもあれば、まったく予想外であることもあります。それは日常と非日常の異なりと同じく、予想がつくのが日常で予想外が非日常です。その両輪を行き来しながら人は一度しかない自分の人生の物語を自分で創造していくものです。

かつて文化庁長官を務めた河合隼雄さんは、心の専門家としてとても素晴らしい言葉をたくさん遺されています。私もこうやって日々に心に正対してブログを書いていますが、共感するものが多く、不思議なご縁を感じております。その河合隼雄さんの言葉で、

「物語の『主人公』は自分。人間は一人ひとり違うのですから、それぞれが自分の物語を作っていかなければなりません。」

「『せっかく生まれてきたこの世で、自分の人生をどのような物語に仕上げていこうか』という生き方の方が幸せなんです。」

があります。

人生はどうなっていくのかと不安がる前に、大切なのはこの自分の物語をどのように創造していこうかとしていくことこそが豊かな生き方であるということです。よく幼少期から周りの大人や学校で夢や目標を設定され、それに向かっていくように教えられます。しかしそうするとそうならなかったら不幸、叶わないことがよくないことのように勘違いしてしまうものです。

それよりも、どんな出来事があったにせよどのような物語にしようかと自分の人生を自分なりに物語にして楽しく豊かに語っていければそれはもう仕合せといっていいものです。この仕立てる仕合せというものは、自分なりに生きていいということあり、まるで一反の反物を自由に誰とも比較せずに織っていいんだよという天の声のようです。

比較競争し目標管理をすることが社会の通念になっている中で、如何に自分らしく自由に生きていくかはこの「物語」を仕上げていくという心持に由ります。

今日はどんな物語がある一日にしようかとワクワクドキドキし、一日の終わりにはどんなことがあった一日だったかと内省しご縁と仕合せに充実していく。こういう繰り返しによって人生の物語は彩られ、主人公としての自分に磨きがかかってくるのです。

昨日は、石炭のボタに文字を彫りこんで磨いて石と対話し歴史を感じ心が感動して泣いている人を観ました。その人は夜には私たちは炭鉱夫のようなものだとも言いました。人生の物語を主人公として生きていく人は、どんな出来事もご縁も出会いもすべてドラマチックにしロマンチックにしていきます。同じ人生であっても、心持一つでそれは変化していきますから純粋無垢な心をどのように仕立てていくかも自分次第です。

最後に河合隼雄氏の言葉です。

『人間というものは自分で自分を知らない鉱山のようなもの。自分を生きるということを考え始めると、「こんなこともできるんじゃないか、これもやれるんじゃないか」――と自分を発見することができます。』

これもできるこれもやれる、なんでもできるじゃないかと思うところに夢はあります。夢に向かって挑戦していきたいと思います。

おくどさん

昨日は、おくどさんの竈を左官と仲間と一緒に手作りでつくりました。約500キロ以上の土を運んで、鏝で叩いて固めながら成形していくのは子どもの粘土遊びのようで夢中になってやりました。

この土は、自然農で7年間共にした田んぼの土を用いそこに淡路の土や石灰、井戸掘りで出てきた粘土などを混ぜて作り上げていきます。すべての土もまた身近にあるもので、ご縁があったものを活かして甦生させていきます。

この竈は、竈の神様である三宝荒神、その横には愛宕神、火伏の神様たちをお祀りしている真下にあります。暮らしの中心にある火は、竈の神様と共に私たちの人生を支えてくれる存在です。これらの存在を自分たちの手で甦生させていくことはいのちの火を甦生することで、先祖代々から今までずっと一緒に生きて助けてくださった日本の暮らしの道具と共に再び歩もうとする決意でもあります。

私たちは便利さと引き換えに今まで大切にしてきたものや、自分を助けてくれてきた道具を不要だと捨てていきます。日本にはもともと「勿体無い」という精神があり、お役にたってくださったものへの御恩を忘れずにそれを大切にしてきました。さらには役に立たなくなったのは自分の見立ての問題だとし、見立て違いを反省してさらに他のお役に立てるように配慮をして大切に尊んできました。

今では新しいものが価値があるとし、古いものは価値がないとさえ思われ捨て去られていきます。しかしこの捨て去られるものは、今まで役に立ってきたものであることは明白です。自分の都合で損得利害を測り、要不要を捌いては捨ててしまうという考え方はこの地球上でみんなで助け合っていきる共生の概念とはかけ離れたものです。

古の道具は、暮らしを一緒に生き延びてきた智慧と共にあります。田んぼがあれば、そこには稲藁があり、土があり、そしてお米があります。牛があり鶏があり、馬があります。さらには、トンボや蛙、蜘蛛や土壌の菌類にいたるまで長い年月を共に暮らしてきた仲間たちがあります。

今では動物たちは食用にされ、虫たちは害虫になり、菌などは農薬で殺菌されていきます。一緒に暮らしてきた仲間たちを、自分たちの便利さや身勝手のために簡単に捨て去っていくということに悲しみを感じます。

私が暮らしを甦生する理由の一つは、かつての仲間たちを集めていきたいからです。自分たちの都合で捨てて本当に申し訳なかったと、そのすべてを拾って新しい価値を創造しようとしているのです。

その価値は、人類の未来を変え、世界の行く末を変えていきます。

引き続き、子どもたちが末永く仕合せに豊かな心で暮らしていけるように今できる最善を盡していきたいと思います。竈の神様が見守ってくださっている安心感に包まれながら暮らしの実践を高めていきたいと思います。

磨く文化

縁日で開催した、「貝磨き」を通して磨くことの大切さを参加者が感じていました。ボランティアで手伝いに来ていた学生たちが、磨いたら光ることを知って感動して集中して何時間も磨いていたのは印象的でした。

この磨けば光るということを知っていても、磨き方をどうすればいいかまでは体験してみなければわかりません。貝を通して自分の磨き方を伝授していく講師の声に、真剣に耳を傾けている様子に美しいものを感じました。

昔は、貝は貨幣として大切にされてきましたが今では貝殻といって粗末にされることも増えています。日本家屋、特にここ聴福庵は漆喰を多く使いますから貝が家の一部として一緒に空間を維持しています。

この自然物を用いて磨くというのは、自分を磨くのに最適な砥石になります。砥石も自然物ですが、貝もまた自然物です。砂浜で波に揺られて磨き合いながら、角が取れて円くなりさらに光っていく貝殻のように、自分もそのリズムで磨かれていく。

日本人は伝統を通して自分磨きをし続けてきた民族でもありました。自分を磨くことこそが伝統を継ぐことであり、磨いてきた結果として日本の文化が今でも遺っているとも言えます。

時代を超えてもっとも大切なことはこの磨く文化を子どもたちに伝承していくことではないかと私は思います。

引き続き、磨く文化を仲間と共に磨き合いながら伝承していきたいと思います。

縁が続く

昨日はまちづくりの講演会を聴福庵で開催しましたが、とても不思議なご縁に包まれた一日になりました。昼からの縁日もまた、会いたい人に出会えたり、これから大切な仲間になる方になるだろうという人に出会えました。

まちづくりにおいては、講師から「観光のためにやるのではなく地元の人たちや故郷の人たちのために観光を活かせばいい」というお話がありました。確かに地域の人たちが楽しんでいないものは長続きすることはなく、あくまで地域活性化というものは地域の人たちの智慧と暮らしが集積して顕現するものであることを改めて学び直しました。

さらに縁日では、子どもたちがたくさん来てくれると急にその場が明るくなり街道筋の雰囲気もガラリと変わる体験をしました。

子どもがいることが私たちの仕合せであり、子どもを中心に周りの大人たちがつながっていく様子に本来のコミュニティの在り方を見直すいい体験になりました。

はじめてご縁が結ばれていくとき、それは数が多ければいいわけではありません。お互いに思いが共有できたり、共感できたり、そして体験を共にすることによってそのご縁が発展していきます。

ご縁を大切にするというのは、一つ一つの起きてきた出来事の意味を大切に味わい感じ取りその一つ一つを丁寧につなげていくということです。

伝統が今に残のもまた、このご縁を結んできた先人たちがいてくださったからです。その今に残ったものをまた次世代へと結んでいくことが今を生きる私たちの大切な使命です。

引き続き、本日もまちづくりとこども縁日を開催しますが子どもたちに譲り遺していきたい生き方を実践していきたいと思います。