心を磨く暮らしの実践

昨日は、天満神社の参道や周辺を仲間たちと一緒に掃除してきました。この時季は特に落ち葉や枝が多く、掃いても掃いてもまた翌日には落ち葉の山です。しかしこれはただ結果だけをみて綺麗にすることが目的ではなく、信仰心の実践として掃き清められるのが自分自身ですから落ち葉があることはかえって自分自身と向き合うには有難い存在です。

中国、南宗禅中の洪州宗の祖馬祖道一の法を継ぐ唐時代の禅僧に百丈懐海という方がいます。この方は、掃除を座禅と同様に大切になさったいたそうです。その理由は、「己の心を磨く」ためであるという信念によるものだったといいます。

またこの方は「一日作さざれば一日食らわず」とし、暮らしの実践をすることこそが修行であるとし自給自足を確立しました。日々の暮らしの実践にこそ己の心を磨くすべてがあると見なしたのかもしれません。

昨日もみんなで掃除をしていると、みんな無心で掃除をしています。誰一人口を開くわけでもなく、自然に掃除と一体になっていきます。夕暮れ時で暗くなってきていたからか、みんな掃除に没頭していたように思います。

心を高めていく工夫は、生活の中に存在します。ちょっとしたことにどれだけ丁寧に心を籠めていくか、一日一日の小さな作務にどれだけ心を用いていくか、日々に心に降りかかってくる汚れや散らかりを如何に片付けていくか、それは心の内省にも似ています。

毎日、生きていれば様々なご縁と出来事に出会います。そうやって降り積もってくる日常を、毎日振り返りながら反省し改善を続けていく。小さなことではありますがこの積み重ねこそが心を磨いてくれるように思います。

人間は、人格形成においてたった一人の自分を自分で育てていきます。その自分には心がありますからその心がどのような心境であるか、平常心はどのようになっているか、そこに一つの達人を目指すことで人生が揺るぎない豊かなものになっていくように思います。

形式的な外的な豊かさではなく、心の豊かさを併せ持つ真の豊かさは暮らしの実践により高まっていくものです。今日の行事もまた、暮らしの実践としてみんなで心を磨き心を高めて精進する大切なご縁にしていきたいと思います。

子ども第一義の第一歩

明日からの天神さまのこども縁日の準備で故郷に帰ってきました。これからいつものように天神様に所縁のある掛け軸や木像、牛や梅などをお祀りし準備を整えていきます。天神様が喜んでいただけるだろうか、また古民家が喜んでいただけるだろうかその気持ちの中に古来からある日本のおもてなしの精神が入ります。

天神様の菅原道真公は、「和魂漢才」といって菅家遺誡には「わが国固有の精神と中国の学問と。また、この両者を融合すること。日本固有の精神を以って中国から伝来した学問を活用することの重要性を強調していう」と記されます。「菅家遺誡」は、菅家の子孫のために言い遺していく遺言のようなものです。

現代の西洋文化にとって代わられた姿を観ていると、菅原道真公はどこまで先を観通していたのかと畏敬の念が湧いてきます。

この和魂とは、大和魂のことを言い日本の民族精神のことを指します。たとえどのような海外からの技術が入ってこようとも、その根底に日本的精神があるのならどんな技術すらも柔軟に正しく活かすことができるということです。

現代は様々な新しい技術が渡来してきます、衣食住だけではなくそれはIT技術であったり、遺伝子組み換え技術であったり、核融合の技術であったり、ありとあらゆるものが猛スピードで世界で行き来するような時代になっているともいえます。まもなく人工知能が発展し、私たち人類は大きな岐路に立たされることになります。

その技術の本質や意味を正しく咀嚼できなかったり、直観的にその技術が何をもたらすのかを掴むこともなく、便利だからと深く考察せずに便利な技術に飛びつけばその後、そのことから取り返しのつかないような事態に陥ることもあります。なぜなら便利な道具は使い方次第では人間にとってとても危険なものにすげ換ってしまうこともあるからです。それは歴史がすべて証明しています。

だからこそ人類が優先する必要があるのは自分たちの先祖たちが自らの人生体験で築き上げてきた経験からの反省や改善してきた生き方、いわばその暮らしの文化を学び、その精神を民族の一人ひとりが責任をもって身に着けることとです。

私たちの場合は和魂といい、それは私たちの先祖が自然との共生の中で築き上げてきた風土の智慧です。それを大和魂といい、どうすればこの地球上において長く平和に睦まじくお互いに貢献し合って生きていけばいいかを精神に宿し遺し文化にまで高めたものです。

その代表的なものに日本民家があり、暮らしの行事があります。この日本民家と暮らしの行事は、日本文化を幼少期の子どもたちに伝承するために遺された先祖の遺誡であり、智慧の結晶です。それを幼少期に体験することで人類はその風土の文化を学ばずとして学び、教わらずして教わったのです。

この伝承の大切さを私は気づき、それを恩返しの柱にしているとも言えます。明日からの子ども縁日は、子ども第一義の理念を掲げる私たちの会社の大きな第一歩になると信じております。

天に問う

先日、天神祭の中で新宿せいが保育園の藤森平司園長から「学問」についてお話を拝聴するご縁がありました。その中で、学問の「問う」とは何かそれは天に問うことであるということをお聴きしました。

今では学問は知識を詰め込むことのように思われがちですが、古来からの学問の本質は「天命を問う」ことであったように思います。

江戸時代の藩校の最高峰であった昌平坂学問所に佐藤一斎があります。この方の遺した「言志四録」はその後、多くの日本人を育ててきました。明治維新の際には、維新の志士たちの座右の書として長く愛読されてきました。その中の一つに天命について記されたものがあります。

「人は須らく、自ら省察すべし。天、何の故に我が身を生み出し、我をして果たして何の用に供せしむる。我れ既に天物なれば、必ず天役あり。天役供せずんば、天の咎必ず至らん。省察して此に到れば則ち我が身の苟生すべからざるを知る」

意訳ですが、「人間は真摯に省みる必要があります。それは天がなぜ自分を創造し、私を何に用いようとなさっているのか。私はすでに天が創造したものであるから必ず天から命じられた大切なお役目がある。そのお役目を慎んで果たそうとしないのならば必ず何かの天罰があるはずである、それを真摯に省みるのなら自分勝手に安逸に生きていくことはできないと知ることになるだろう」と。

そもそも自分は自分のものではない、自分はすでに天のものであるという考え方が根本にあるのなら、自分の生は天命であるという覚悟が決まるように思います。天が何を使役させようとしておられるか、天が何をしてほしいと願っているか、「主語」を自分ではなく「天」にすることこそ本来の命を活かせるということでしょう。

この「天に問う」とは、自分の天命を知るために問うように思います。天命を知るためには、人事を盡してのちよく慎み省みて天が何を与えてくださっているのかに気づかなければなりません。

自分に与えられている道はいったいどんなものなのか、誰かの道ではなく自分に与えられた道があるのだからその道を歩まなければ天罰があるはずです。その天罰は、そうではないよ、そっちではないよと教えてくださる偉大なる罰のことです。それを素直に謙虚に聴いて歩んでいくのなら、後になって「ああ、これが私の天命だったのか」と知るに至るのです。

迷わずに生きている人は、とても強いように思います。あれもできるこれもできると選択肢が多い人よりも、これしかできないと選択肢がない人の方が迷いがありません。迷いがないから自分の天与の道に専念できるように思います。

人はできないことをやろうとするのは自分が主語になりすぎるからです。できないことは悪いことではなく、自分にしかできないことをやることが本来の学問の意味であり天意を知ることにつながると思います。

私は善い師に巡り会い人生の早い時期に、自分にしかできないことは何かと考える機会を多くいただきました。その師の根底の精神には常に「天に問う」があったように思います。

論語では、「四十にして惑わず、五十にして天命を知る」とありますからこの十年はしっかりと天と対話しながら歩んでいきたいと思います。引き続き、子どもたちの未来のためにも今を大切に生き切っていきたいと思います。

 

 

 

存在のご縁

人は自分にとってどうかと自分を中心に物事を分別していきます。例えば、使えるものがあったり使えないものがあったり、それは別の人にとっては逆転するものもありますがその人を基準に分けられます。

しかし、空気のことを使えるとか使えないとか言いませんし、地球のことも使えるとか使えないとか言いません。つまりは、絶対的に必要なものは使えるも使えないもなく、ただ有難い存在だと感じているのです。

人は自分を中心に物事をいつも考えていると視野が狭くなっていきます。自分を基準に役に立ったか役に立たないかではなく、必要だとお互いに感じることがあって存在を確かめあうことができるのです。

自分にはなくてはならない存在、それをご縁とも言います。何かしらの有縁があり、出会い、そして一期一会に人は人と出会うことでお互いを高め合い成長していくことができます。

それは自分にとっての利害を超えて、人間として必要なことだからです。

人間には空気と同じくらい、出会いというものは必要な存在であろうと私は思います。どんな出会いであったにせよ、その出会いによって人生は大きく変化していきます。出会いの有難さは、かけがえがなくその出会いがなければ今の自分はありません。

出会いを大切に生きるということは、自分の基準を超越して生きていくということです。そしてご縁を活かすというのは、かけがえないご縁であることを自覚し、ご縁を大切に生きていくということです。

どのような出会いもお互いの人生にとっては一期一会。

子どもの憧れる生き方を通して、すべての出来事を学びにして存在のご縁を大切に真心で実践していきたいと思います。

子どもの姿を~何を変え何を変えないか~

貨幣経済が優先され、古来からある日本の伝統的な文化や生活習慣は次第に便利さに流され失われてきています。歴史を鑑がみてもそれぞれの国家の発展と繁栄はその国の風土の文化で育成された民族の個性が発揮され多様な世界の中で自国の強みを活かすことによって成し遂げられてきました。

便利さとは楽の追求ですが、この楽は「楽しみ」とは異なるものです。今では大多数の人たちが便利な方を選択したり、楽な方に進むように子どもたちにアドバイスをする人も増えています。進んで苦労をしなさいというよりも、できる限り苦労はない方がいいと言ったりもします。近代に入り、技術の進歩と共に便利さが発展すればするほどに精神の方は本来は高まっていかけなければなりません。

なぜなら道具や技術を用いる側の人間が成熟していなければそれを使いこなすことができないからです。どこまではよくてどこまではよくないか、これは人生の自立と自律の話と同じで楽を選んでも人生は楽にはならず、人生を楽しくするには楽との付き合い方を知らねばならないからです。

例えば、暮らしというものを考えてみてもお金さえあればなんでもいつでも手に入れることができる状態になれば食事も生活もすべて便利なもので済まそうとします。すると健康が害され、より時間のスピードがあがり心の余裕も次第になくなってきます。大都市に住めば、ほとんどのことがお金で解決するような環境になっています。しかし人間を磨き高めているような古来からの自然な暮らしを実践している人は、日々に自律をし健康管理や生活リズムの維持、運動や学問などの時間を環境に左右されずに丁寧に工夫して生きていきます。

いくら技術が進歩しても、人間としての進化とは別ものですからなんでも便利に効率化したからといってそれが人間の幸福や豊かさにはならないものです。

子どもたちが置かれている環境は今は便利なものであふれています。最近では乳幼児のスマートフォン率がかなり高くなっているともいいます。かつて子どもにはよくないと危惧されていたことのほとんどが今の世の中では実現してしまいました。子どもは環境の中ですぐに流されてしまいます。一時的に大人の圧力で厳しくしつけたとしても、大人になれば何でも自由に自分で選択できますから楽に流されることもあります。だからこそ保育環境は大切なのです。

人生の豊かさを感じる環境をどれだけ幼少期に用意できるか、それは未来を見据えて今どう生きることが将来の真の豊かさにつながるか自分の経験から見つめ直せばいいのです。そうして大人たちは今の社會現象と真摯に向き合い未来を真剣に考える必要があると私は思います。

世の中が進化が求められるとき、いつの時代も下支えしてくれたのは根とのつながりです。根があるからどのような環境下であってもしっかりとその養分を吸い上げながら成長していくことができるのです。この根のつながりは、日本の伝統的な文化や先祖の智慧が凝縮された暮らしの中に色濃く遺っています。

今、私が暮らしの甦生に取り組むのも幼児教育の現場で子どもたちの姿が変わってきていることに危機感を覚えるからです。日本民族の存続を懸けて、風土で育まれた古来からある子どもの姿を変えてはならないのです。

何を変えて何を変えないか、それを正しく見極め行動できることこそが人間の成熟であろうと私は思います。今の社会現象を洞察しつつ、この先子どもたちが乗り越えていくであろう課題に対し少しでも多くの選択材料を私の人生を使って遺していきたいと願います。

 

丁寧と工夫と暮らし

人間は心が忙しくなると雑然としてくるものです。これはいろいろなことがありますから、目先のことに追われてその意味や目的を省みる時間がないときに起きるひとつの現象とも言えます。

しかしこの現象は、心がけと工夫次第ではいくらでも丁寧にしていくことができます。この丁寧は「暮らし」と直結しておりどのような心で生きていくかが日々の修練によって磨かれているともいえます。

古民家甦生を通して暮らしの甦生をしていますが、この丁寧さと創意工夫は今の時代の個ばかりが優先され我や利己的な部分ばかりがせめぎ合うような環境の中で改めて大切なその人の生き方の資質になってくるように思います。

イエローハットの鍵山秀三郎氏にこういう言葉があります。

「丁寧な生き方をする人を消極的で弱い人と勘違いする人がおります。大きな誤解です。積極的で強い意志がないと出来ません。その上、時間と手間、忍耐と工夫がなければできません。丁寧な生き方は強固な精神力を育みます。」

私も同感で、この丁寧な暮らしを実現するには強固な精神力が必要です。どんなに状況が千差万別しても常に初心を忘れずに創意工夫しながら目的に対して粛々と実践していくという信念。まさに暮らしは、継続するものですから自分の決心した生き方を日々の充実した生活へと昇華していく必要があるからです。

今は働き方改革などといって、それぞれに工夫するように国家としても取り組んでいますが私の思う働き方改革は自他一体であり、相乗効果でもあります。

よく勘違いされるのは、残業時間を減らすとか、もっと効率的にするとか、手段ばかりが語られ議論されることがありますがそれは働き方改革の本質ではありません。

働き方改革は、生き方改革ですから生き方が変わるから働き方が変わるのです。

雑然と生きているうちは雑然とした働きをしてしまいます。一つ一つを丁寧に取り組む実践は、心を入れずに処理をしていくことではありません。それは作業の一つ一つの意味を確かめながら、心を籠めて感謝や真心で取り組んでいくという心の作法が求められます。

質の充実というのは、日々の暮らしの実践の積み重ねの上に存在するものです。その場しのぎでは、生き方までは変わりませんから働き方も変わりません。生き方を見つめるということは、如何に限られた人生の時間の中で自分のいのちをどのように使っていくかといった優先順位の確認が要ります。

会社や社會では、「理念」というものがあり自分勝手にみんながバラバラにやるのではなくその中でも自分よりも少し優先するものを持つことこそが自利から利他になるコツになります。この理念は目的ですから、人生の目的に近づき忘れないために丁寧に工夫する暮らしが創造されていくのでしょう。

引き続き暮らしの甦生を通して、日々の生き方と働き方を磨き直していきたいと思います。

縁日2

引き続き縁日について深めてみますが、縁日で有名なものに京都北野天満宮の「天神さん」というものがあります。これは北野天満宮の御祭神菅原道真公の生誕日と葬去日が25日であることから毎月25日に開催し「天神さん」と呼ばれ全国各地から多くの参拝者で賑わいます。そしてこの縁日では、たくさんの屋台や露店が出店されます。

改めて屋台と露店、出店の違いを調べるとまず「屋台」は屋外に簡易的に組み立てられた台と屋根を備え付けた小屋の様な移動可能な店の事をいいます。リアカータイプや、軽トラ等を改造して荷台の部分が店舗の様になっている物もありますがすべては「移動ができる」ということです。そして「露店」は露天とも言い、屋外にゴザを敷くなどをして一時的に構えられた店の事で屋根を必要としていません。もう一つは「出店」(でみせ・でたな)とも呼びますが神社の参道にある酒屋や醤油屋が店先にテーブルや台などを出して販売などしています。昔は街道筋や参道の周囲に店舗を構えていた商店が多かったこともありお祭りのときは出店を出していたといいます。

そもそもお祭りは寺社普請の意味もありました。明治以前の人々の暮らしの中心にはお寺や神社があり、それを守るために定期的に建物の修繕、または社会基盤の拡張や一新を図るにあたり莫大な費用が必要になっていました。

その資金を集める一環として寄付を直接募るよりは、お祭りを開催し「的屋」を招き地域住民に参加してもらい非日常(ハレの日・カムニギワイ)を演出する事で的屋から場所代として売り上げの一部を普請の資金にしていたといいます。また庶民も夜店や出店の縁日を通して日本の祭り文化が発展していきました。この的屋とは、縁日・盛り場などに露店を出し、興行や物売りを行う業者のことをいいます。そのような特殊な技術を持った大道芸人や商売人としての的屋も縁日の開催によって生活がなりたったともいいます。

地元の神社でも、昔はお祭りくじがありそれを地元の皆さんで割り振って購入することでお祭りの資金をねん出しており、また神社や境内の運営維持の費用に当てられていましたがそれも失われ今では神社の維持は個々人の寄付のみになっています。個々人の寄付もお祭りや神事に参加しなくなれば次第に失われていきます。

縁日の減少は、言い換えるのなら地域の中心の自治の減退とも言えます。

地域住民が氏神様を中心に氏子として、みんなで地域の政治を協力して協働していた暮らしが失われていくことで地域の繋がりや絆、また暮らしも失われていきます。

縁日の開催は、暮らしの甦生の一つであり、地域の人たちがみんなで有縁を感じ、力を合わせて地域をより暮らしやすい地域にしていこうとする参画意識の確認でもあります。

引き続き、氏神様とのご縁を大切にした小さな天神さん縁日の実践を通してご先祖様が大切に守り続けてきた地域文化の甦生、暮らしの甦生を学び直していきたいと思います。

 

 

縁日

来週末開催の「まちづくり×古民家甦生=観光創生化」の準備のために聴福庵に来て色々と段取りをしております。午前中は、まちづくりのファシリテーターとの座談会。午後からは地域の子どもたち向けの縁日を開くことになっています。

そもそもこの縁日とは、「有縁の日」の略語であり、神仏の降誕・示現・誓願などの縁があり、祭祀や供養が行われる日のことをいいます。先月は、地域の氏神様である天神様をお祀りし天神祭を開催しました。これもまた一つの縁日とも言えます。近代以降はお祭りもセットになり、露店などが出て賑わうようになりましたが本来は有縁の神仏の祭祀と供養のために暮らしの一つとして家々においてそれぞれに有縁の日に実践されていたものです。

それぞれの風土で実践される縁日には、それぞれに受け継がれている思いや願いがあったり、大切な歴史的意味があったり、御先祖様からの伝言や文化の伝承であったりするものもあります。

例えば縁日で有名なものに8、12日の薬師如来、15日の阿弥陀如来、16日の閻魔、18日の観音菩薩、21日の弘法大使、24日の地蔵菩薩、私たちがお祀りしている25日の天神様などもあります。他にも毎日、何かの縁日と結ばれ人は信仰を守り続けてきました。特に、一年の中で特に大切に結ばれる縁日の功徳は大きく、たとえば7月10日は観音菩薩の四万六千日といって、この日に参詣すれば4万6000回参詣したのと同じになると説かれたりしているものもあります。

こうやって縁日は信仰と結びつき、お祀りすることでさらに神仏のご加護を実感しながら感謝で暮らしていたのが私たちのご先祖様たちの生き方でした。

そもそもご縁とは、何かしらの因縁によってつながっているということを意味します。私とあなたも、そしてこのブログを読んでくださっている方も、何かしらのご縁によってつながって結ばれています。これは私たちの親祖からはじまり、私たち子孫はその発展と共に増えて広がってきた民族でありその元は同一であったことを意味しています。

何回も生まれ変わり、そして巡り会う中で、時代を超えて再び出会います。また出会うのもまた何かの因縁があるのであり、そのご縁のつながりの中で共に生き貢献し合っていきていくのは私たちです。

このご縁を大切にするというのは、自分は結びの中にある存在であるということを確認するということです。この縁日はまさに、日常の喧騒や忙しさの中でつい忘れがちになっているつながりやご縁の存在を改めて確認する日でもあると私は思います。

真摯に神仏やご先祖様からいただいたご縁を活かしていけるよう、ごつながりをもったいなく使わせていただき、ご縁のある皆様が幸福であるように自分のいのちを盡していきたいと思います。

 

真の誇り

先日、あるお客様同士での会食の中で素直さについて改めて感じる機会がありました。物事が大成する人は、みんなその共通点として素直さというものがあります。

自分に非があろうがなかろうがプライドなど気にせずに素直に謝ることができる人、また自分が間違っていたとすぐに気づいて感謝し改心していく人は周りから愛されますし、人間的にも魅力があります。そういう人はいつも周りの人々や仲間と良好な関係を築いていくことができます。

この逆に傲慢で高慢な人は、自分のプライドがあるから決してすぐに謝ろうともしません。自分のプライドばかりを守る人は、自己主張ばかりに躍起になり、我が強く自分の価値観に囚われ視野も狭くなっています。人間関係が上手くいかず常に周りに嫌な思いをさせてしまいます。

自分のプライドを守るようになれば自分は悪くないとか、自分のせいではないなど、自分を守るために必死ですから指導をしてくださったり、教えてくださったり、アドバイスをいただいた方に対しても謝ることも感謝することもありません。むすっとした顔や投げやりなそういう他人への態度を観ると、プライドが高い人にはなりたくないなと他人のふり見て我が身を省みます。同時にこれでは大成することもないだろうなと残念に思えてしまいます。

素直さや謙虚さの反対には、このプライドの高さがあるように思います。このプライドは、誇りとは別物です。プライドはどちらかといえば、自分をわかってもらえないと嘆き、自分以外を認めようとせず、自分の弱さや欠点も決して認めません。しかし誇りは、すべてを認めており、自他を尊重することができ、揺るがない自信がありブレることもなく信念や志を優先していきます。そういう人は目的や大義のためのこと以外は特に気にすることもなく、当然自分のことなども気になりません。目的を達成するためには、どんな人のことも丸ごと認め、自分のプライドよりも素直で謙虚であることを優先できるのです。

自分のことを認めてくれないとばかりを思い悩む前に、もっと自分が他人のことを認めているかと自反することで人は素直に謙虚を磨けるように思います。自分自分にしか興味がないうちに、大切な身近な人のこともわからなくなっているのではないでしょうか。相手のことをわかろうとせず認めようとしない、そして聴こうとしない心の態度こそがプライドばかり高くなっている原因になっていることに気づかなければなりません。

世の中を見渡せばほとんどがこの「認められたい」という強い我が人間関係の衝突の原因になっている気がします。人間の承認欲求の強さを大義や社会のためにと、貢献や利他に転じることができればその人は「誇り高い生き方」を選べるように思います。

自分を認め許すことは謙虚の入り口であり、他人の話を聴き謝り自分を直していくのが素直の入り口です。「すみませんでした」「ごめんなさい」「ありがとうございます」という基本の姿勢に素直さや謙虚さが入っているかどうかが自他を丸ごと認める実践になっていきます。

引き続き、子どもの憧れる生き方と働き方を優先するためにもすべての体験から学び直し、運を高め真の誇りを醸成していきたいと思います。

学問とは何か~日本の学問~

先日から伝統的な教育を深めていますが、明治初期に西洋の教育手法が入ってくるまでは日本では学問は儒教を中心に「天」というものを相手にするという思想がありました。この天は、日本ではお天道様やお日様に例えられ自分自身を片時も離れずに見守ってくださっている偉大な存在として崇め自らに学び問いました。

孟子は「学問の要は、唯諸己に反求するに在るのみ」といい、常に己に問い、内省反省し、慎独するなかで実践するものこそ学問の要であるといいました。

教育手法ばかりが注目され競争する昨今において、そもそもやり方ではなく根本的なあり方がどうであったかは歴史から学ぶものです。日本の伝統的な教育は、社會のために行われるものであるから公のものであり、さらにはその公のために如何に個々が社會のお役に立てるか、そしてその命のお役立ちこそを天命あると導いていたのが分かります。

教育者本来の本文は、この天道に導くことであり如何に道からそれないように我を省き、その人が利他に生きることができるようにするかを様々な言葉で伝えてきました。

例えば、かつての日本の親子の教育の柱で伝承されてきたものに「お天道様が見ている。ご先祖様に恥ずかしいことをするな。故郷に錦を飾りなさい。」というものがあったといいます。

これは道に入るための導きの言葉でもあり、社會の中で自分の天分を活かしなさいと励まし応援するものでもあります。

今の時代は、自分のことばかりを心配して自分の思っていた通りにうまくやることが人生が成功したと思って我ばかりが増大していく環境があります。しかし本来は、どんな自分であろうがその社會の中で如何に自分の天分を周りに活かしていけるか、言い換えるのなら自分をお役立ちさせていくかに本来は専心することが肝心であり、自分のことなど考える必要もなかったのです。

俺が私が自分がの我を主語にするのではなく、主語を社會や天や世の中などその公器を主語にして生きれば自ずからお役に立てるところに命が役立てる仕合せに出会えるようにも思います。

自然界も等しく、私たちは同じ太陽の下みんなで協力して共生しながら貢献し合って存在しています。だからこそその自然の法則から離れないように、天道地理から外れないようにと道を照らしたのが教育者だったのでしょう。

私たちは教育を職業の一つとして認識していますが本来は道の一つです。この道は親子でも兄弟でも子弟でも、すべての関係の中に存在する一本道でもあります。未来の日本の子どもたちのためにもその道をもう一度、再認識し今の時代に温故知新していきたいと思います。