真の誇り

先日、あるお客様同士での会食の中で素直さについて改めて感じる機会がありました。物事が大成する人は、みんなその共通点として素直さというものがあります。

自分に非があろうがなかろうがプライドなど気にせずに素直に謝ることができる人、また自分が間違っていたとすぐに気づいて感謝し改心していく人は周りから愛されますし、人間的にも魅力があります。そういう人はいつも周りの人々や仲間と良好な関係を築いていくことができます。

この逆に傲慢で高慢な人は、自分のプライドがあるから決してすぐに謝ろうともしません。自分のプライドばかりを守る人は、自己主張ばかりに躍起になり、我が強く自分の価値観に囚われ視野も狭くなっています。人間関係が上手くいかず常に周りに嫌な思いをさせてしまいます。

自分のプライドを守るようになれば自分は悪くないとか、自分のせいではないなど、自分を守るために必死ですから指導をしてくださったり、教えてくださったり、アドバイスをいただいた方に対しても謝ることも感謝することもありません。むすっとした顔や投げやりなそういう他人への態度を観ると、プライドが高い人にはなりたくないなと他人のふり見て我が身を省みます。同時にこれでは大成することもないだろうなと残念に思えてしまいます。

素直さや謙虚さの反対には、このプライドの高さがあるように思います。このプライドは、誇りとは別物です。プライドはどちらかといえば、自分をわかってもらえないと嘆き、自分以外を認めようとせず、自分の弱さや欠点も決して認めません。しかし誇りは、すべてを認めており、自他を尊重することができ、揺るがない自信がありブレることもなく信念や志を優先していきます。そういう人は目的や大義のためのこと以外は特に気にすることもなく、当然自分のことなども気になりません。目的を達成するためには、どんな人のことも丸ごと認め、自分のプライドよりも素直で謙虚であることを優先できるのです。

自分のことを認めてくれないとばかりを思い悩む前に、もっと自分が他人のことを認めているかと自反することで人は素直に謙虚を磨けるように思います。自分自分にしか興味がないうちに、大切な身近な人のこともわからなくなっているのではないでしょうか。相手のことをわかろうとせず認めようとしない、そして聴こうとしない心の態度こそがプライドばかり高くなっている原因になっていることに気づかなければなりません。

世の中を見渡せばほとんどがこの「認められたい」という強い我が人間関係の衝突の原因になっている気がします。人間の承認欲求の強さを大義や社会のためにと、貢献や利他に転じることができればその人は「誇り高い生き方」を選べるように思います。

自分を認め許すことは謙虚の入り口であり、他人の話を聴き謝り自分を直していくのが素直の入り口です。「すみませんでした」「ごめんなさい」「ありがとうございます」という基本の姿勢に素直さや謙虚さが入っているかどうかが自他を丸ごと認める実践になっていきます。

引き続き、子どもの憧れる生き方と働き方を優先するためにもすべての体験から学び直し、運を高め真の誇りを醸成していきたいと思います。