自由の森学園の学園祭に来て見学をする機会がありました。子どもたちがそれぞれに自分の個性を活かして学園祭を盛り上げています。若い時に、不自由と自由を体験することは自分の中にある本当の自由を獲得していくうえで大切な学びであろうと自分の人生体験から私は思います。
本来の自由の価値は、創造の中にありますから常に限界を定めず常識に囚われず本質や真実を掘っていくのはすべて自分自身を知ることからはじまります。
自由の森学園の教育理念は、日本の有名な数学者でもある遠山啓の思想の影響を受けています。その遠山啓は、数学のことをこう言います。
「数学は、人間と人間の集まりである社会とが、長い年月にわたって創りだした歴史的な産物で、計算術ではなく、ひとつの思想なのだ。」
その遠山啓は、近代の社会や教育のあり方に警鐘を鳴らし本来の子ども側に立った教育とは何かをその著書や言葉によって語られておられます。
「競争心を刺激する教育法は、たしかに手っ取り早く人間をふるい立たせる力を持っている。しかし、その反面、目標を他人におくために自分自身を見失うという欠陥をもっている。」(『競争原理を超えて』遠山啓)
「人間はひとりひとりがみな質的に異なった存在であり、したがって、比較不可能・序列不可能だと私は考えている。その不可能なこと、つまり、序列化をむりやりに行なおうとするやり方を、私は『序列主義』と名づけて反対しているのである。」(『競争原理を超えて』遠山啓)
この言葉を並べるだけで、何を言わんとしているのを直観できるものです。農業でも養鶏でも、野菜はみんな同じ形で同じ味、鶏も同じ大きさで同じ量の卵を産ませられ、少しでも平均から外れれば「異常」として排除していくという考え方、何が本来の異常なのかは誰でもわかります。本来は誰かによって自然の本質が歪められ、新しい常識を植えこんでいくことが異常なのです。
異常が常識に挿げ替えられ他と異なるということは自分も排除されるということになると、どんどん本来の意味での自由や個性が尊重されにくくなっています。個性とはそのものが持って生まれた質であり、先ほどの農業でいえば色々な個性の野菜がある方が質的に優れており工夫しだいではあらゆる料理にも活かせますし、養鶏ではたとえ卵を産まなくても卵を温めるのが上手な鶏があってもそれは同様に質的に優れているのです。
遠山啓はこういいます。
「こうなると、せまいワクのなかで、はやく答えがだせて、しかも、ミスをしない、というものがいちばん優秀ということになる。これにいちばん適しているのは官僚ですよ。官僚は必要なんだけれども、官僚に向いていない人間までおなじモノサシで測られてしまうのが困るんです。」
人工知能が出現した現代において、以上のような人間はすべて人工知能に代替わりされていくことになるでしょう。そうなると余計に、何のために学校にいくのかをもう一度考え直す時期に来ているのは明白です。
「おとなにはあまり期待がかけられない。まちがった教育でだめにされてしまっているからだ。しかし子どもにはまだ希望がつなげる。そのためには、いまのまちがった教育を変えて行かなければならない」
では、どう変えればいいのか、そこにもいくつか言及されておられます。一つは、「楽しくすること」であるというキーワード、そして他には「序列意識を持つな」というキーワードです。そして「「わからない」ということを、人前で堂々と言える雰囲気を作らなければだめ。」というキーワードです。わからないと言えるということは、学問を楽しみ自分自身であることが肯定されているという自信の姿になっているということであり、刷り込みを脱却できたということだからです。
最後に私がもっとも遠藤啓の言葉に共感するものを紹介します。
「創造ということは、がんらい、なみたいていのことではない。そのためには絶対に必要な条件がある。それは自由ということである。」(『子どもの側にたつ』
・・それは自由ということである。
自に由ると書いて自由ですが、まずは自分自身と深く対峙して自分自身を知ることが創造の第一歩であろうと私は思います。引き続き、様々な刷り込みを直視し学び直しながら復古創新していきたいとおもいます。