湿式工法の瓦葺き3

昨日は再び屋根にのぼりみんなで土葺きでの瓦葺きを体験しました。職人さんが軽々とやっているのを見るのと自分たちでやるのでは勝手が異なり、瓦一枚を葺くのに大変な時間がかかりました。

しかしみんなで協力して葺いた瓦には愛着が湧き、そこに綺麗に波打ついぶし瓦の様子にぬくもりを感じます。日本の伝統的なものを伝統的なやり方で実践する、まさに心と技術が調和することで和の家が実現することを再確認する有難い機会になりました。

この後は数週間の間、土を乾かし仕上げにのし瓦や鬼瓦をのせて完成です。時間をかけて土を乾かす間もまた、味わい深い大切な時間です。のし瓦は屋根の棟に来る雨水を表側と裏側に流すために積まれる瓦の事を言います。そして鬼瓦は屋根の棟の端に置く大きな瓦のことでこれは厄除けと装飾を目的として設置されています。

少し鬼瓦を深めますが、この鬼瓦のルーツはパルミラにて入口の上にメデューサを厄除けとして設置していた文化がシルクロード経由で中国に伝来し、日本では奈良時代に唐文化を積極的に取り入れだした頃、急速に全国に普及したとウィキペディアにはあります。

この鬼瓦を眺めていると、家を守る存在が屋根であることをより実感します。中国での鬼は、厄災をもたらすものとして忌み嫌われますが日本のオニは厄災を転じて福にするオニです。

例えば、大みそかに山から降りてくる神さまを祀るのに神が鬼の姿に転じた行事が日本各地に残っています。人々は鬼を恐れながら囃(はや)し、もてなします。また仏教では敵対していた悪が仏法に帰依し仏法を守護するものとして鬼があります。日本では牛若丸と弁慶のように、純粋な魂や義を守る守護神としてオニのような強さを持つ存在を守り神として大切に接してきました。

この屋根のオニは、日本の精神を顕すものでありオニの存在が屋根を守り、私たちはいつも守られながら暮らしているということを忘れないということに気づかせてくれます。

家を思うとき、私は守られている存在である自分に気づきます。家が喜ぶかということは、守られているということに感謝してその家に住まうことをゆるされている自分たちがあると実感して楽しく豊かに暮らしていくことだと思います。

今回の瓦葺きから、日本建築が如何に「守る」精神に包まれているかを学び直しました。引き続き、聴福庵の離れの完成までのプロセスを味わい子どもたちに初心を伝承していきたいと思います。

湿式工法の瓦葺き2

昨日は、引き続き土葺きでの瓦葺きを行いましたが土の吸着力のみで瓦は葺かれていきます。私たちの先祖は、土の持つ性質を巧みに活かし、土をあらゆるところで活用してきました。家においては、土壁であったり瓦であったり、また竈であったり、土鍋や食器だったりと土はあらゆるところで私たちの暮らしを支えてきました。

現代ではあまり土に触れることもなく、土は汚いと嫌悪されることが増えてきましたがずっと長い間、私たちの命を守る大切なパートナーでした。土は汚いものではなく、ありとあらゆるものを浄化する清らかなものです。どんなものでも土に埋めれば時間がかかりますが必ず分解されまた循環の一部に回帰してくれます。土は、甦生の代名詞であり、土はどんなものにも姿かたちを変え、そして何回も何回も新しく生まれ変わります。

世界では土で作った建築は無数にありますが、私たちの日本では高温多湿の気候と自然の水気の多い瑞々しい土の建築があります。基本的には日本の家の中心は木を用いますが、その木を活かすのは土であり、土を活かすのは木です。さらには、紙や石など日本の風土に適ったもので構成されます。

幼いころ、三匹の子豚の寓話でレンガ造りの家だけが狼から守ったという本を読みました。しかし大人になって日本建築に触れてみるとその逆で頑強な家よりも柔弱の家の方が、そこに住む家人たちを守り、末永く住み続けられる仕組みがあることを知りました。

柔弱とは和かいということです。

この和の家は、自然災害が起きたとき真っ先にそれぞれの土や木や紙が自らが先に壊れ合ってしなやかに周りの損壊を防ぎます。自分だけを守ろうとするのではなく、自分の方が周りのために少し崩れることで周囲を助け守ります。

これはまるで日本的な生き方のようであり、日本建築や家にはその日本の精神が凝縮されていることに気づきます。当然のことですが、日本人が建てたからこうなったのであり、日本人が考えたからこうなったのです。

私たちは家に住むことで教えられるのは、どのように先祖が生きてきたか、何を大切に暮らしてきたか、どんなことを理想としてきたかに気づきます。

今回の土葺きでいえば、瓦は土に載せているだけで、瓦自体は一切どこにも固定していません。瓦と土が載ることでかなりの重量が屋根にかかりますが、その御蔭で地震が発生したときに建物が左右に大きく揺れていきます。その揺れ幅が大きければ大きいほど、家が倒壊するより先に瓦が先にずれ落ちることで家を守ります。

今のように修理する気のない家であれば、全部捨ててやり直しですが古来の日本の家は傾くだけならすぐに元に戻せましたし、土葺きの土も再利用できます。そうやって自然災害を体験し何度も改善を繰り返し、悠久の年月を持たせることができる家に昇華してきたのでしょう。

この体験も未来の子どもたちに譲り遺せるように真摯に学び直していきたいと思います。

 

湿式工法の瓦葺き1

昨日は、伝統工法ができる瓦葺き職人さんに聴福庵に来ていただきみんなで一緒に瓦葺きを土葺きによって行いました。最近では瓦葺きを拝見することも少なくなってきましたが、一緒に屋根にのぼり瓦を一枚一枚葺いていくことではじめて屋根瓦の魅力を再発見できます。素材もそうですが、職人さんの手仕事には感動することばかりです。

この土葺きというものは、 近江大津の瓦工である西村半兵衛によって発明された平瓦と丸瓦が一体化した「桟瓦」が発明され、その瓦の風と地震対策として土葺き工法が行われたといいます。この土葺きは湿式工法とも言われ、野地板の上に杉の皮などの下葺き材を敷き、その上に粘土を乗せ、その粘土の接着力で瓦を固定していく工法です。

ただ関東大震災後に建築基準法に「瓦葺に在りては引掛瓦の類を使用し又は野地に緊結すべし」という言葉が追加されて今ではほとんどが土を使用しない「引掛桟工法」になっていきました。土葺きの減少は著しく、ほとんどが土のない屋根で軽量化された瓦を用いられています。

今では重要文化財や国宝など旧工事法を保存しなくてはならない建造物だけで、一般住宅で見かけることはほとんどなくなっているといいます。

土葺きは、一つひとつの瓦の個性や形状をみて瓦職人さんの塩梅で瓦割をして配置され施工していきます。こだわっている職人さんになると、何回も何回も数多くの組み合わせを試していくので葺くのに相当な時間を要するともいえます。

確かに、どの瓦もまったく同じ瓦であればそんなことをしなくても並べられますが、かつては同じ瓦などなくそれぞれに癖があったり形が異なるものが焼きあがっていたわけですから瓦職人の腕前と技術次第で自然の風雨によってすぐに雨漏りやズレたりもあったのかもしれません。

雨漏りする家はそこから腐りシロアリが来ますから、如何に屋根は家の生命線であるかを実感します。「家を自然災害から守るという観点」でもう一度瓦を観ると、これは本当に大切な役目を果たしていることを実感します。

本日も屋根にのぼり土葺きを体験していきますから、このまま深めてみたいと思います。

 

 

歴史を継ぐということ

昨日は、郷里の炭鉱遺構でもある大門炭坑(原口炭坑)に見学にいくご縁がありました。長年、住んでいながらちゃんと見たのははじめてで,、ここの土地のオーナーの方に隅々まで案内していただきました。

ここは市が運営しているのではなく、完全に個人で整備し無料で開放して見学者に炭坑の歴史を遺してくださっています。かなりの広さに合わせて、竹林の伐採や除草など大変な費用や労力がかかっていると思いますが、これだけの炭坑跡はなかなか遺っておらず有難いことだと感じます。

ここは明治27年に開坑し、昭和38年ころに閉坑したそうで巻揚機台座などがまだまだしっかりと遺り、ボタ山も立派に存在しています。足元には、1億年前の木の化石でもある石炭が大量に転がっており、かつては黒ダイヤとして非常に価値が高く、燃料として人々の暮らしを支えたものですが今はひっそりとした佇まいにかつての歴史を感じます。

本来、自分たちの先祖が何をしてきたか、そこにはどのような文化があったか、そのルーツを知ることで私たちは自分たちのアイデンティティの源泉に触れていきます。特に子どもの頃に、どのような風土や環境の中で育成されたかが自分たちの将来の誇りになっていくこともあります。

よく私はどこどこ出身とか、幼いころからこのような行事をしてきたとか、何が有名だとか、自分たちを語るとき、自分たちの郷里や風土を語るとき誇りや自信を感じます。かつて留学した時、世界各国の人々が集まりそれぞれに自己紹介するとき最初に話をするのは自分が何処からきたものであるか、そしてこれから何処にいこうとしているか話していました。

それだけ私たちは自分を語るとき、自分が何者であるかご先祖様はどのような人であったかと伝え合うのです。今も残る世界各地の少数民族もまた神話を通して自分たちの歴史を語りルーツから今までを伝えます。

それが誇りであり、どのような生き方をした人がどのような生き様であったかと伝え自分はその文化を伝承しているということを語ることで自分を知るのです。

今ではこの炭坑跡も、お金にならないからと産業廃棄物を捨てる場所になったり整地されてソーラーパネルが置かれたりしています。この文化や遺構の価値に気づく人も次第にいなくなり、跡形もなくなくなり誰も語られなくなることは本当に残念なことです。

歴史を継ぐというのは、私たちがこの伝統の民族であり続けるということでもあります。子どもたちに、誇らしく感じてもらえ、自信をもって世界に出ていけるような存在にしていけるように真摯に時代を見つめ直して福に転じていきたいと思います。

家主と大工棟梁

昨日は、御蔭様を持ちまして上棟式を無事に済ますことができました。早朝より祭壇の準備をし、お神酒やお米、お塩にいりこを用い東西南北を清めるために四方固めの儀を執り行いました。

思い返せば昨年4月より古民家甦生をはじめてから大工棟梁と一緒に古いものや捨てられているものを拾い、一つ一つ家が喜ぶように甦生に手掛けてきました。何回も諦めそうになるところを助けてもらい、譲ることができない理念や信条から出てくる身勝手な無理難題を何度も受け止めて手を盡していただきました。

そしてお金にもあまりならず、手間暇もかかり、現代の儲け主義の経済観念からは程遠い私の仕事を心意気で支えてくださっています。家を支えるのが大黒柱だとしたら、その家の主人を支えてくださるのが大工棟梁なのかもしれません。人間に掛かりつけのお医者がさんがいるとしたら、家の掛かりつけのお医者さんは大工さんです。この安心感はとても大きく、長く共に暮らす家には欠かせない存在です。

私のようなど素人がここまで古民家甦生ができるのは、周囲に支えてくださっているご縁があるからです。上棟式の御蔭様でそのご縁の尊さを改めて感じる有難く感慨深い振り返りができました。家や家の主人にとっては暮らしを支える伝統の職人さんたちが減っていくのは本当に悲しいことで何とかしなければと思います。

その後は柱を組み立てていきながら作業は続けられ、お昼の直来では手づくりの「おくどさん」にはじめてかまど鍋を用い「ハレの日」の初のお祝いとしてトン汁をつくりました。具材は地場産野菜、味噌も自家製の手作りのものを使いました。また竈でご飯も炊き、左官職人さんたちも合流して一緒に食事をしました。

夕方の上棟式では、クルーの一人も一緒に屋根に上り四方餅を撒き、祝杯と共に私たちの会社の創作祝い唄である「円満祝い唄」をみんなで唄いました。

大工さんや鳶職の方にも古来から木遣り(きやり)という労働歌の祝い唄があります。これは木遣り歌・木遣り唄ともいわれ、由来は1202年に栄西上人が重いものを引き揚げる時に掛けさせた掛け声が起こりだとされています。私たちの祝い唄も同様に、どんなに苦しくて大変でも笑っていこう、すべてのことは福に転じていこうという歌詞になっています。

これまでの苦労と仕合せを噛み締めながら唄う円満祝い唄が心に染みました。同時にこの日本人の精神や真心が、未来永劫子どもたちにずっと伝承されてほしいと願い、家に祈りました。

引き続き、これからはいよいよ古建築の智慧を学び直すため古来の工法の瓦葺きの挑戦に入ります。いただいているご縁を大切にし、恩返しに換えていきたいと思います。

聴福庵離れ上棟式

いよいよ今日は聴福庵の離れの上棟式を迎えることができました。ここまで来るのに1年半以上、復古創新の実践の一つとしての風呂場にするために古来からの智慧を結集して建築します。

風呂桶は60年前の大きな奈良漬けの樽と明治頃の炭で沸かす桶風呂を甦生し、建具は時代物の格子戸をはじめ蔵戸や板戸と甦生し、屋根は古建築の智慧を甦生し、床下は菌を用いた発酵床に備長炭と水晶を設置し、玄関の踏み石は古代の六方石を甦生し、壁面の塗料は柿渋と渋墨を用い、ご鎮座する神様は禅宗の跋陀婆羅菩薩をお祀りし、古材の板と水場は古瓦によって装飾されます。その風呂やシャワーの水は仲間と一緒に手掘りした井戸水を用います。そして明後日には屋根に上り呼吸する伊賀の土を用いて伝統の瓦葺きを仲間と一緒に行う予定です。

文字を並べただけでも数多くのご縁の賜物でよくもここまで集まったものだと感謝が湧きあがってきます。一つ一つを深堀りしていきながら、どのようなものが未来の子どもに本当に譲っていきたいか、生き方と働き方の一致を通して学び直してきました。

古からの先人の智慧を学び、それを伝承していくことはまさに連綿と続いてきた日本民族の生き方の踏襲であり、同じ道の上を歩んできた過去と今がつながる瞬間でもあります。どんなに世界や時代が変わっても、その風土で生きてきた暮らしは変わらずに存在しているのです。日本に育った私たちは風土とは切り離すことはできず、私たちは自然の一部として存在しているのだからその暮らしを守り続けるために常に今を温故知新し自分自身を毀し続けて本質を磨き直していく必要があります。

このように感慨深いものがありますが、話を戻して上棟式のことを紹介すると家などの建物を建てる際に末永く持つ堅牢で安全な家が建つこと願いこれから住む家族の健康や幸福を祈ります。そこから式典を設け工事の安全と建物の末永い神の加護を祈る行事として行われてきました。

この上棟(むねあげ)とは木造建築で柱や梁などを組み立てて、屋根の一番上の部材である棟木を取り付けるときのことをいいます。

最近では神主さんを呼んでまで行わず略式で施主と大工棟梁で略式で行うところや、上棟式をしないところも増えてきているといいます。式典というよりも大工さんへの労いなどもあって直来といって食事会を開きお互いに関係を結んでいくということもあるそうです。

私の幼いころは、近所で上棟式があるとお餅まきを目当てに子どもたちと一緒に必ず訪問していました。50円玉を躍起になって拾っては、お餅がいくつで小銭がいくらとみんなで数え合ってそのまま駄菓子やさんに直行していました。

今ではそういう場面を見かけることも少なくなりましたが、懐かしい風習がなくなっていくのは寂しいものです。今日は大安吉日、とても目出度い日ですから自分たちになりに、懐かしい未来を体験して味わい深い祈りの一日を過ごしていきたいと思います。

 

火から学ぶ

古民家甦生を実践する中で、囲炉裏や竈、和ろうそくなどかつての暮らしの火を中心に甦生していきますがこれはとても現代の暮らしとの対比をするのに重宝しています。

かつて日本の民俗学者である柳田國男氏にこのような記述があります。

「世の中が進んだということを今が昔とくらべてどのくらいよくなっているのかいうことを考えてみるのには火の問題が一番わかりやすいと思います。闇を明るくするために昔は大変な苦労をしたのであります。」

今では電気をつければスイッチ一つでどんな暗闇も瞬時に明るくなりますが、昔は夜を明るくするということは大変なことでした。昔のことを調べていると、かつては夕方になるとじわりと送電線から電気が流れてきて夜は電気が灯され、朝方には自然に消えていたといいます。スイッチなどもなく、水力発電などで電気を送電していたそうです。

明治の頃、若い留学生たちが欧米に渡航した際にガス灯で明々と照らされた夜をはじめてみたとき、きっと今では計り知れないほどの衝撃であったかもしれません。それほどかつては、夜は真っ暗であり火を灯しながら暮らしを成り立たせていました。

現代においては、コンビニを中心に明々と町中が照らされ、どこもかしこも街灯があり都会などはまるで昼間のようなネオンの明るさでにぎわっています。夜が失われたことと同時に、火の暮らしも失われたのです。

しかしこの懐かしい火の暮らしは、人間を内省的にし、心に豊かさとぬくもりを与えていました。ゆらゆらと揺らぐ炎には、まるでいのちの様相を実感し、その灯りによって精神が落ち着いて心が穏やかになったものでしょう。

なんでも便利になっていくと当たり前のことに感謝できなくなっていくものです。そしてそれは物だけではなく人に対しても感謝の気持ちが失われていくものです。不便さというものは、当たり前ではないことに気付けるものです。電気の有難さは電気が失われて気づきます、そして火の有難さも火が失われて気づきます。

便利になればなるほどにもっとも当たり前である大切な存在を忘れ、そうではない存在ばかりを気にしてしまいます。太陽であったり空気であったり水であったり火であったり、私たちはもっとも当たり前にあって大切である存在に日々に感謝できているでしょうか。

便利さという豊かさは、真の豊かさではありません。不便さの中にある豊かさは、当たり前の存在をいつも気づかせてくれます。昔の人々は、人間として感謝の心が磨かれていたからこそ自然そのままの暮らしで善かったのでしょう。敢えて技術的な豊かさに走らず、もったいない質素で慎ましい暮らしの中にある心の豊かさを大切にしたのかもしれません。

火から学ぶものを、様々な心のカタチにして子どもたちに伝承していきたいと思います。

 

豊かさ~感受性を磨く~

人生が豊かな人という人がいます。その人はどんなできごとも感受性豊かに感じ取り、自分と周囲を尊敬して美しいものに日々に感激しています。物質的なものは他人でも作り出せますが、心の中のものは自分にしか創り出すことができません。心の感性を磨いていくことができる人は豊かであり、仕合せな人だといえます。

ではどのように心の感性を磨いていくか、それは人間の持つ豊かさを高めていくということです。どんな小さなことでも素晴らしいと感じる感性、どんなに微細な変化でもすごいじゃないかと驚く感性、どんなご縁であってもそれがとても有難いと感謝を実感している感性、そういうものを日々に味わい感受する力を育てていくということです。言い換えれば無感動人間ではなく、日々感動人間になるということです。

私はかつて営業の仕事をしていたころ、日々に出会う方々の御蔭様でいつも自分と相手の素晴らしいところや美しい心を感じる修行をする機会がありました。毎日、本当に多くのお客様のところに訪問し常に自分が何者か、そしてお客様に何を伝えたいのかと、その時々に合わせて対話をしていました。どんな人でもこの方は本当はきっと美しい心を持っていると尊敬し、この方はきっと素晴らしいことを教えてくださっていると信じて、心をオープンにし、相手を尊重し褒めたたえる訓練をしました。

周りの営業の方からは私がおべっかを使っているとか、褒めすぎて気持ち悪いとか言われましたが、私自身は褒めることは自分が相手を認めるところを磨くことだと信じていましたから相手の善いところ美しいところを探そうと精進していきました。

その御蔭様で、どんな人ともいい出会いに恵まれさらには同時に自分の感性も豊かになっていくような機会をいただいたような気がしています。そしてそれがどんなに苦しい時にでもできるか、つらい時にもできるかと心の感性が高まったように思います。

人間は豊かさの分だけ、その豊かさが周囲に伝達していくように思います。豊かな感性がある人は感動によって自他を動かしていきます。豊かな人は、感性のアンテナがたち、好奇心が発動している状態であり、さらに万物を尊敬する状態になっています。

人間はどんなに物質的な豊かさを持っていても、感性が鈍くなると何も感じません。そしていくら物質的に貧しくても感性が豊かな人はその貧しさを豊かに転換していきます。そうやって人間性が磨かれていけばいくほど、真の豊かさもまた持てるようになるのかもしれません。

何歳になっても感動できるような人物になるというのは、豊かな人間になるということです。豊かな人はその存在だけで周囲を仕合せにしていきます。感受性を磨いていく人生とは、豊かな人生のことです。

引き続き、感受性が鈍ったり感動がなくなったりするようにならないようにどんな物質的なもののあるないにかかわらず、子どもたちに見習い感性を豊かに育てていきたいと思います。

 

日本人の役割

自由や平等という言葉は、以前からよく権力や支配に対立するものとして用いられています。言い換えれば、権力や支配によって社会を管理していく中で反発するものは排除していこうとするときにこの言葉が使われることが多いように思います。

人間は社会をつくっていく生き物ですから、そこに個々の主張が入ってくればどう折り合いをつけるかを考えなければなりません。それを誰かだけの主張を優先し個々を無視したり軽視すればそこに差別が発生し反発していくものです。

宗教論争や、戦争の発端になるのもまたこの人権のところが折り合いがつかずに争いは尽きません。歴史をみて今をみても、あまりその問題は変わっておらず世界情勢を観ていてもいつも問題は自由や平等の主義主張の話ばかりです。植民地化するということが前提になっている国造りではこの問題はいつまでもなくなりません。勝者や強者が敗者や弱者を支配すれば、対立がうまれすぐにまたその立場が栄枯盛衰で逆転すると何度も似たようなことを繰り返していることに変わりません。

7世紀初頭、日本ではこの似たようなことに正面から向き合った方がいました。それは聖徳太子です。この時代は、それまでの日本に渡来文化や宗教、他民族との融和などあらゆることが同時に発生していました。その争いの姿を観た聖徳太子は、未来の国と子どもたちの行く末を案じて国家の理念を明確に打ち出しました。それを17条の憲法を制定し、「和をもって尊しとなす」としたのです。

この「和」は、すべてのものが守るべき理念でありその理念を何よりも優先することとしました。これは日本の風土の中では、どんな民族、宗教、文化の違いがあったとしても、何よりも仲良く協力して調和することを優先しなさいといった考え方です。

誰かが誰かを支配するのではなく、一緒になって協力して調和を優先していこうとすること。言い換えるのなら、個々を尊重し合い和することを絶対的なルールにしなさいということにしたのです。

それぞれに信じたものを絶対的な正義にしてその正義を振りかざせば対立や争いは尽きません。そうではなく和を優先していけばそこには調和や融和、対立や争いではないところで対和していくことができます。そこからお互いを思いやることを大事にしてみんなで一緒に助け合い生きていく方法を考えようとなるのです。

日本の平和の精神の礎はこの「和」にこそ存在します。

あの時代から1300年、変わったようで変わらないのが人の世の常です。しかしあの当時に心配してきたものが世界の国々がいよいよ混ざり合う今の時代になってようやくはっきりとその意味と向き合う時期に来ています。

日本に産まれ日本人としての役割を世界に果たしていきたいと思います。

幸福の道

生きていく中で私たちが学ぶ大切なことに「感謝」というものがあります。この感謝は、自然に生まれてから備わっているものですがそれを磨いていく中で人格が高まり人生がよりよく仕合せに実現していきます。

しかしこの感謝は、性格の歪みによって別のものにすげ換ってしまうことがあります。それは「素直」かどうかがカギを握ります。性格が素直な人は、感謝しかない状態でその心境のままであるから無理をしたり頑張ることがありません。

文字通り素直に自分の心と言葉が一致しており、無理して頑張って感謝したりされなくても自然に感謝の状態を維持することができています。その素直さが謙虚さであり、感謝しかなく有難いと全てのことを感じているからこそその人物は自然体で人を信頼し、また周囲から信頼され、楽しく豊かな日々をみんなと一緒一体になって生きていくことができます。それこそが、真実の幸福であり自由であり自立した成熟した人間の姿です。

ただ幼少期から、自分以外の誰かの評価を気にしてはその評価がよくなるように頑張って評価される経験を積み重ねていくと自分の仕合せが歪んでいきます。無理して誰かのためにやることで自分が仕合せになると信じ込めば、感謝もまた評価の一つにすげ換ります。

本来、感謝は自分が仕合せを感じているのが先です。例えば、こんなに恵まれて有難いや、自分の好きなことをやってみんなが喜んでくれてとか、自分の遣り甲斐が誰かの役に立っていて幸せとか、まずは自分自身が自分自身であることに感謝していることが先であることが本来の感謝ということです。

しかし実際は性格が歪み素直でなくなれば、感謝のために頑張ろうとして感謝を忘れるという本末転倒することをしてしまうのです。

禅語に「足るを知る」がありますが、これは自分がまずその恩恵をいただいていることに感謝することです。不足を思うのは感謝ではなくなっているからであり、知足を感じるのは感謝の状態になっているからです。そこには無理な努力や頑張りは必要なく、いただいている感謝を活かしてもっとみんなの歓びになりたいと自然体になっていきます。

自分自身が仕合せかどうか、それを立ち止まって考えることは感謝を忘れない実践です。感謝を忘れていないのならば素直のままであるということです。素直だから事物は明察され鏡の如く真実がそのままに映りますからどのような判断もあるがままです。

人間は誰かのことをとやかく言う前に、自分自身はどうなっているのか、自分に矢印を向けて謙虚かどうか素直かどうか、また感謝のままでいるかどうか、「人間としての自然体」を常に自己反省して人格を磨き高めていくことが幸福の道につながります。

子どもたちを見習い、素直で謙虚で感謝しかない生き方を目指していきたいと思います。