変革の味

人間は基本的には、自分が体験したこと以外のことはわからないものです。その人の常識はその人が過去に体験してきたものの集積の結果であり、その常識は人によって千差万別です。

その常識とはまたその人の価値観になりますから、その人が生きていくうえでの価値基準とも言えます。どのような体験を積み重ねてきたか、その人生の深さや浅さで人間の価値基準もまた変わっていくものです。

しかしある時、人生の体験で今まで体験することもないような大きな出来事に出会うときその人の価値観が一変していくことがあります。それは例えば死ぬ目にあったり、見たことのないような疑いようのない真実に出会ったりすると人は常識と同時に自分の価値観が毀れて新しくなっていきます。

人間は常に体験次第で常識を変化させていく生き物ですから、イノベーションとは絶えず自分の常識を毀し続けることいいます。しかし実際は、自分の常識に縛られそんなはずはないと疑いももたず、いつまでも自分の常識にしがみ付いては無理矢理に自分の価値観に合わせていこうと真実を歪めていくものです。

いつまでも固着して固定概念に縛られれば縛られるほど変化することができなくなるばかりではなく、その体験の価値を気づけないままに時間を浪費していくものです。もっと自分自身を疑って本当は違うのかもしれないや、もっと自分の知らない世界があるのかもしれないと、その体験に全身全霊で丸ごと飛び込んでいけば自分を毀していくことができるように思います。

確かに自分の知らない価値観に触れることは、正解が突然変わってしまうのですから最初は何が起きているかわからず不安や心配があるかもしれませんがその貴重な体験を振り返っているうちに本当は何か、自分が知らなかったことは何かと、自問自答する歓びや、プロセスそのものがワクワクドキドキ楽しくなるといった喜びを味わえます。

つまり変革、イノベーションは本来は怖いものではなく体験できる仕合せ、プロセスが味わえる幸せを感じることなのです。

自分の常識や価値観、固定概念があるからこそ変化を怖がり、それを毀そうと自ら体験を味わいプロセスから学ぼうとすればするほど挑戦を楽しめます。

自分自身を知ることは、世界を知ることです。

引き続き、伝統と革新を組み合わせながらお客様の変化に寄り添って一緒に楽しんでいきたいと思います。

自他一体~八百万の精神~

日本には古来から全体にとって善いかどうかを大切にする精神があります。これを「和」とも言います。この和というものは、調和の和であり、バランスを取りみんなで協力し合い生きていくことを優先して暮らしを形成してきた民族です。

この和を尊ぶというのは、日本民族の理念であり日本という国が世界から称賛されるのも根っこにこの和が息づいているからであろうと私は思います。例えば、震災や災害時には日本人は誰に教えられたわけではなく自然とみんな自律して周囲のために思いやりの行動をとります。これは自分だけが勝手なことをせず、全体善のために自分が自らを律して自立するということを実践しているということです。そしてこれが本来の自由の姿です。

「自由」という漢字はもともと仏教から伝来したものだそうで、これは仏陀が臨終が近くなった時に弟子たちに「自らを拠り所とせよ。他人を拠り所とするな。法を拠り所とせよ。真理を拠り所とし、どこまでも向上せんとする自らを灯とせよ。」といったところからきているともいいます。自灯明、法灯明といい、自らに由り、法に由れともいってもいいかもしれません。

ちょっと難しくなりましたが、私なりの解釈ではこの自我に囚われないで思いやりを盡すことや、我執を手放し真心で生きていくことを指すように思います。そしてそれを自分自身で自覚することは、勘違いすることもあることからみんなのためになることをし、全体にとって善いことになるようにつとめていくことをいうのだと思います。そしてその状態が「和」であり、社會の一員として周囲を思いやり生きていくことを優先して平和を築いてきたのです。

現在、その自由の意味が単なる束縛からの自由であったり、外圧からの自由、自分の欲望を開放する自由や、常識から逸脱することを自由だと定義しているものもあります。人格が未熟な状態で自由を持てば、人間はその自由を武器にして他を傷つけ、周りを排斥し、平和を壊し戦争を生み出します。そうなると結局は、対立関係になりいつまでも本当の自由は訪れることはありません。

本当の自由は、全体善のときにこそ出てくるものです。日本では八百万の神々といって、この世のすべての存在は神様であるからその神様たちがみんな仕合せになるように配慮して生きていこうとする思想があります。

これは自然の思想ですが、みんなによって善いものを探しみんなにとって善い生き方をしていこうと全てを幸福にするように自分を少し慎み利他に生きようとし循環型の社會を築いていきました。

本当の自由は、どこまで全体を自分だと思い思いやるか、如何に自分が全体によって生きていられる存在であるかを自覚することで目覚めていくことができます。それを私は自他一体の境地であるとしています。

引き続き、子どもたちが未来に異なりや違いを超えて幸福な社會を築いていけるように様々な刷り込みを取り払っていきたいと思います。

人情という理

先日、ある方の人生相談にのるご縁があり色々と私自身も考え直す機会がありました。その方とは、天神様の縁日で少し話をした程度でしたがその後すぐに人生が変わってしまうような出来事に出会い大変困難な状況をむかえておられました。

日ごろの人間同士の交友関係は私よりもずっと数が多く、相談する方もたくさんいらっしゃるだろうと思っていましたが天神様のご縁なのでととても他人事には思えず私も誠実に尽力していきました。

そういう困難な状況にあるとき、一体誰に相談するのだろうか、また精神的に苦しい時、誰に助けを求めるのだろうか、色々と置き換えて考えてみました。

作家の小林多喜二が「困難な情勢になってはじめて誰が敵か、 誰が味方顔をしていたか、そして誰が本当の味方だったかわかるものだ。」という言葉があります。言葉の重みはわかりませんが、大なり小なり状況や情勢がかわることで人は距離を置くのもわかります。

しかし本当に困っているとき、大変なときこそ傍に寄り添って助けてくれる存在は有難く、特に孤独を味わい精神的に落胆して目の前が真っ暗なときこそ手を添えて一緒に乗り切ろうと力を貸してくれる人が有難く思います。

そのような友人とはなかなか巡り合えることはなく、それはその人の人格や人徳にもよりますし日ごろの信頼関係もありますが、その相談する人物如何に由るものだとも思います。

アメリカの作家のマーク・トゥエインが「友人の果たすべき役割は、間違っているときにも味方すること。 正しいときにはだれだって味方になってくれる。」という言葉もあります。

これはさらに難しいことですが、その人物のことを思いやるからこその味方ができる人というのは少ないように思います。その人の人生や運命を丸ごと応援するという関係は、その人物の生き方に由ります。

人間は間違ってみてはじめて深く気づき、悟ることもありますし、間違うことが反ってその人を人間として大きく成長させてその後の本物の人格を身に着ける教養になっていくことだってあります。

しかし人間はどんな境遇においても諺にあるように「捨てる神あれば拾う神あり」といって見捨てられることがあっても、一方で助けてくれる人もいてたとえ不運なことや困ったことがあっても、悲観することはないというものです。

世間には見限って去っていく人もいれば、味方になって助けてくださる人もいる。「仏千人、神千人」ともいって世の中にはそれだけの神様仏様がいらっしゃっているということだと私は思います。

誰かだけの正義や正しいがすべてではなく、そして間違いがすべて悪ではなく、その人の人生であるすべてを受け容れられるような許しや認める心は人間の人情の中に存在しているのも事実です。自然の心の中には、善悪正否もなく天の理があるのみです。

今回は天神様のご縁でしたが、天神様から教えていただくことばかりです。引き続き、ご縁を辿っていきたいと思います。

 

真の国際人

世界にはそれぞれの風土に適した文化というものがあります。それはその風土で仕上がった環境が個性として生き物に顕現されてきたものとも言えます。その個性が風土そのものであるとき、私たちはそこに多様性を見出し、さらには世界に唯一の個性を実感するように思います。

現在、大量生産大量消費の経済優先の世界において画一化されていき風土の個性もまた消失して文化も失われていきますが本来はこの唯一の個性を発揮するからこそ国際的に必要になるわけでそれがなければ世界の中でユニークな自分を発揮していくことはできません。

白洲正子にこんな言葉があります。

「本当に国際的というのは、自分の国を、あるいは自分自身を知ることであり、外国語が巧くなることでも、外人の真似をすることでもない。」

自分自身を知るということは、言い換えるのならば風土を知るということです。その風土を知り、風土人であるからこそ世界でその風土の進化の過程が発展の原動力になっていきます。あらゆる生き物や道具は、文化を具備していますからそのものの値打ちや価値が分かってこそはじめて世界の同様に進化してきたものと渡り合うことができるのでしょう。

日本の文化というものは、私たちが今までどのような環境の中で育まれてここまで来たかというご縁の変遷のことです。そしてそれは景色や風景というようなものと一体になってどのように自然の姿そのままに暮らしを実現してきたかということです。

今は、渡来した文化に影響を受けかつての日本人としての個性や風土の文化を捨てて別の国の人のようにその国に存在していますが自分たちが何者であるのかを分からなくなった人たちが増えたように思います。自分が何者なのかを知るということは、国際人たる人物の入り口でありさらにはそこを掘り下げていくことが真の国際人になる道です。

最後に白洲正子の言葉です。

「日本の自然ほど多くのものが含まれているものはない。その中には、宗教も、美術も、歴史も、文学も、潜在している。」

もっとも日本の風土に長けた人物こそが、これからの時代で日本を代表して世界で活躍していくでしょう。引き続き、子どもたちに根がつながる暮らしを通して本物の日本人を伝承していくために命を懸けて文化事業に取り組んでいきたいと思います。

今ここ、すぐやる

物事をやるときにすぐやる人と先延ばしにする人がいます。少し前の流行語に「いつやるか、今でしょ!」がありましたが、今やる人は常に主体的であり後でという人は受け身になっていることがほとんどです。

この理由は簡単で、期限が迫ればその期限の圧力や惰性の力で物事をなんとかしようとするのは「しなければならない」という外圧を用います。例えば宿題などもそうですが、期限があるからやらなければならないからやっているのでありそれを何度も何度も繰り返していく中でそうやってやることが癖になってしまっているからです。

本来、宿題などではなく自分から進んで学びたいと思っている人は期限がありません。いろいろなことを深めていきながら、その事物に没頭していきます。この没頭するというのが今のことで、今没頭しているのだから後にするという発想はありません。もしも後にしたとしても、それは先延ばしではなく没頭しながら後にするので「今」から離れたわけではありません。

これはどんな仕事もそうですが如何に意義を持たせて面白くやっていくか、面白くないことでも如何に面白く取り組むかが、「創意と工夫」です。創意と工夫をする理由は、好奇心をもって主体的に自分が取り組めるようにするためでそれを維持することでマンネリ化を防止しているのです。

そもそもどんなこともそれをやる理由は何かと思うとき、それは単にやること自体が目的ではなかったはずです。そう考えてみると、ただ真面目に頑張ればいいのではなくもっと楽しく面白く豊かにやる工夫は自分自身ができるはずです。余裕がないからそうなったのではなく、余裕を創造していないからそうなっていくのです。

忙しさというのは、創意工夫で忙しくなくなるものです。それは自分が初心を忘れずに心を籠めていくことを大事にしたり、せっかくだからと一石二鳥のようにこちらで学んだことをあちらで活かし、自分が起きたことを誰かの役に立てたりと発想を転換していくことで忙しさは感謝に換ります。

一見つながっていないように観えますが、この感謝があるかどうかが「やっているのとさせていただいている」との大きな違いになります。させていただいていると思っている人は無駄なことは一つもないことを知っており、その機会に感謝し、天からの声やお客様からの声、周囲からの声を真摯に聴き、それを楽観的に福に転じていきます。いわば素直で謙虚な人です。聴いて福にする人というのは、常に素直に謙虚に物事の声を聴き自分に矢印を向けて反省を欠かさない実践を積んでいます。

思考の癖もまた刷り込みですからそれに気づいてそれを転換するためにもっと創意工夫や余裕を創造していくといいのかもしれません。またあれこれと考えて先延ばしするのではなく、今来ているものだけを丹精を籠めて取り組んでいくことで今に没頭していけるように思います。今、此処すぐに自分を使っていくことの繰り返しが真の余裕を持たせるように思います。引き続き、今できることに人事を盡していきたいと思います。

精とは何か

よく精進や、精神、精通、精一杯、精を出すとか働くときに用いられるこの「精」という字があります。この精という字は、誠や魂、真心など目には観えませんがそのものの根源、そのものの本体、本性のことを指すように思います。

精神統一という言葉もありますが、これは自分自身のすべてが混じりけのない純粋なものになっている、雑念もなく澄んだ状態でそのものと一体化しているときにも使われます。

精の語源は、青はよごれなく澄んだ色をあらわし、精はよごれなく精白した米。(漢字源)とあります。自然体で無の境地、そのものの根源や根本、根元の力を使っていくことが精を出すということです。

働き甲斐や遣り甲斐、生き甲斐はこの精を出すかどうかに由ります。

そう考えてみると、どんな小さな仕事であってもどんなにわずかな行為であっても、その事物や出来事に初心や目的を忘れないで取り組んでいくことが精進とも言えます。

社会福祉活動家のヘレン・ケラーが遺した言葉に、「I long to accomplish a great and noble task, but it is my chief duty to accomplish small tasks as if they were great and noble.」があります。これは訳されると「私は素晴らしく尊い仕事をしたいと心から思っている。でも私がやらなければならないのは、ちっぽけな仕事をも素晴らしくて尊い仕事と同じように立派にやり遂げることなのだ。」といいます。

自分が取り組んでいる仕事は、どんなことでも目的や理念に通じる尊い仕事であると片時も忘れずに取り組んでいくことが精を出すことであり精進するということです。ただ闇雲に頑張ることを精進というのではなく、どんな物事や出来事に対してもその価値を自分の都合で決めて要領よく雑に取り組むのではなく常に真心でどんなことに対しても細心の注意と丁寧さ、いわば丹精を籠めて取り組むときその生き様は精進と呼びそして遣り甲斐や生き甲斐になっていくように思います。

マザー・テレサは、「いかにいい仕事をしたかよりもどれだけ心を込めたかです。」ともいいます。日本語に昔からあるこの「精」という字は、同様に誠や真心を顕しています。

結果に対して云々ではなく、そのプロセスにどれだけ精神を傾けて誠を盡したか、それが日々の自己の創造に問われているのでしょう。評価ばかりを気にしている人はどうしてもこの精進することができません。

今の仕事に打ち込んでいくことで道は開けていきますから、子どもたちの未来のためにも常に今、全身全霊で事に当たり精神を磨いて真心を発揮し歩んでいきたいと思います。

 

 

歓びの種

社会現象の一つとして、遣り甲斐や働き甲斐について語られることが少なくなっているように思います。これは生き甲斐のことであり、生きる歓び、働く歓び、遣る歓びを感じにくくなってきているということです。

まず働き甲斐というものは、決して楽ばかりを求めたり、効率や結果ばかりを望んでいても得られるものではありません。実際に働き甲斐は、苦労や非効率、プロセスの中に存在するものであり不便さや手間暇の中で感じるものです。

仕事をする際に自分自身がどういう考え方や姿勢で臨んでいるか、先ほどのように効率優先、要領よく、結果だけをみて早くスピーディなことばかりをやっていたら働き甲斐は失われていくのです。楽ばかりを求めていく社会の価値観に自分も流されれば、日々の仕事はつらいだけのものになります。苦労するのは、誰かの役に立つ歓びを同時に連れてくると感じるのなら、誰かのためになることと自分のためになることが仕事になるように努めていくことが好きな仕事にしていくコツかもしれません。

好きなことをやるというのは、単に自分の趣味をやるということではありません。自分が何のお役に立てるか、どういう天命を持っているか、自分の才能がどのようにみんなの役に立つか、自分にしかできないことで如何に世の中の力になっていくか、ここに生き甲斐と遣り甲斐があり好きなことに出会います。

大好きなことを仕事にする人はみんな、そういう自分が役に立っている歓びを知っている人たちであり、好きなことをして生計を立てることができる仕合せを享受しているとも言えます。

人間社会には、得るものと与えるものしかありません。自分たちが得ているものは誰かが働いてつくってくださったものをいただいて生活を営むことができています。同時に自分はそれをいただき、誰かに何かを与えることで生計を立てることができています。

与えられたもので生活をしているのだから、同時に与えられた場所と与えられた仕事に打ち込むことで自分も与える側の役割を果たすことができます。もしもそれが自分にしかできないことで、社会が必要としていると実感することができるのならばそれが働き甲斐になり、遣り甲斐、生きがいになるのです。

生き甲斐や遣り甲斐、働き甲斐を持つ人は自分の天命を愛しています。同時に仕事も愛しています。自分が心を籠めて取り組んだ質量が、その仕事の値打ちを高め自分の値打ちも上げていきます。どれだけ本気で自分の与えられた仕事に没頭できるか、ここに私は歓びの種があるように思えます。

どんな種を与えてもらったとしても、それを懸命に育てていく中に生き甲斐があります。子どもたちに全身全霊のすべてを与えて愛を育てるように、自分の仕事にも同じように全身全霊の愛をもってかかわっていきたいと思います。そしてそれこそが生き甲斐であり、遣り甲斐であり、働き甲斐なのです。

子どものためになり自分のためになる仕事は偉大な遣り甲斐を感じています。引き続き、いまここの使命に没頭しながら生きる歓びや仕合せ、仕事ができる有難さに感謝しながら取り組んでいきたいと思います。

文化とは何か

「文化」という言葉は明治時代に翻訳された言葉の一つです。英語、ラテン語ではこれをcultureと書き、意味は耕すや洗練、また私の意訳では素養や教養、たしなみや心得ともいいます。企業文化などで語られる文化は、その組織の価値観のことであり一つの目的や理念に対して洗練されて創造されたその企業らしさを企業文化と語られるのかもしれません。

そう考えてみると、この文化というものはそのものが磨かれ洗練され創造された一つのカタチであるともいえます。これは企業に限らず、個人でさえ文化を持っていることになります。よく美術や芸術、もしくは造形のすべてにいたるまで私たちが鑑賞しているものはそのものの「文化」のことであり、その人物が思想や精神、その全生命を真摯に注入して具現化させたものを文化として認識しているということでしょう。

文化というものを考えるとき、それを創っている担い手は何かということになります。結果が大事なのではなく、その洗練される過程こそが文化育成そのものであり、如何に磨き洗練させていくか、その洗練する過程の中で人々はその文化に共感し、その文化が明確に外に顕れ現実の世界の人々に伝えることができるに至るのです。

例えば、人間には素養というものがあります。その人らしい天真を、如何に掘り下げていくか、如何に耕していくか、人間を磨き上げて人格を高めていくか、そういうものが文化です。

その人物がどのような文化をもっているか、言い換えるのならその人物の理念がどのようなものであるか、その理念をみんなで磨きあげていく中ではじめてその理念は顕現して周囲を感化するに至るのです。

人格を養いそして修めると書いて「修養」とも言いますがまさに文化とはこの「修養」のことであり、その人物たちがどのように修養したかが文化の証明であると私は定義しています。

これから文化事業を始めるにあたり私はこの意味をもう一度、展開していくなかでご縁ある人々と語り合い磨き合いたいと思うのです。

歴史を省みるとどのような時代もその時代に全生命あらゆるものを懸けて生きた人々の修養の洗練があったからこそ文化が今でも光り輝き歴史遺産として遺っています。その文化を観照するとき、私はその時代の人々がそうであったように、今の時代であってもそう生きたいと願い祈るのです。

かつての先祖のようなものが今の時代では同じようできなくても、今の時代にしかできない洗練されたものが創造できるはずです。それを自らの内面に見出し、かつての先祖の生き方に恥じないように文化を耕し、自分自身を掘り下げ、無二の初心を子孫へと伝承していきたいと思います。

低成長

「低成長」という言葉があります。言い換えれば、じっくりと少しずつ成長をするということです。急成長ばかりが良しと思われているグローバル経済の風潮の中で、敢えて低成長をするというのは勇気が必要かもしれません。

しかしよく考えてみると、どのような自然界にあるものでも急成長したものは必ず折れたり枯れたり災害にあって滅びたりと長続きしません。そもそも長続きしないものを目指しているところに問題があるのであり、結果主義の刷り込みが強くなればなるほどすぐに結果を求めては急に物事を進めようとします。

真田幸弘が藩主の時代、松代藩の藩政改革を担った恩田木工民親(おんだもくたみちか)の業績について記された書物に『日暮硯』というものがあります。それまでに取り組まれた様々な改革が失敗に終わる中、この恩田木工が行ったものは見事に改革を実現しました。

その恩田木工は、先ほどの低成長にこだわりじっくりと時間をかけて物事に取り組んでいきました。そしてその時のポイントは、下記の言葉に潜んでいるように感じます。

「総じて、人は分相応の楽しみなければ、又精も出し難し。これに依って、楽しみもすべし、精も出すべし。」

なんとかしなければとただ真面目に急いでやるのではなく、一つ一つを楽しみ味わいながらやった方がみんなも和気藹々と精進できる。ただ真面目にやるだけではなく、楽しくやっていくことが大事であると。

貧しいからと必死になっていれば余計に貧しさは身に染みるものです。しかし貧しいときこそ豊かさを味わいながら楽しくやっていく、言い換えれば大変だから早く楽になりたいから必死になるのではなく大変だからこそその一つ一つを内省し体験を深く味わい、みんなで学び直し磨き合いながら歩んでいく、その中に人生の歓びもあるということです。

例えば、自分が大変だから楽になろうではなく自分の体験が誰かの役に立てるのではないかと思うことや、忙しいから暇になろうではなくみんな忙しいのだから思いやりをもってみんなの力になろうとする方が歓びが増えていきます。

自分ばかりを気にして己自身の感情に囚われて悩むのではなく、そんな時こそ日々に体験しているご縁や学びに耳を傾けて聴いて福に転じていく豊かさを持ちたいと思うものです。

楽しいと楽(らく)は別物ですから、楽は苦の種になりますが苦しいは楽しいの種になります。楽しい種は、急ごうとする中にはなくじっくりと少しずつ時間をかけて取り組む中にこそあります。自分の都合で時間をなんでも早めないようにすること、己に克つとはそういうことです。

引き続き、苦楽一円観を味わいながら様々なものを転じて低成長を続けていきたいと思います。

真実の花

世阿弥に「命には終あり。能には果あるべからず。」があります。これは人間の命には終わりがあっても、能を極めるのは果てがないということを言います。人間も同じく、人間の命には終わりがあっても人間を極めることには果てがありません。

そのことを示す漢字に「修身」があります。この修めるというのは、果てがないものを極め続けるということです。人間はすぐにわかった気になってわかることが悟ことのように思い違いしますが、それは知識の上で知っただけでそれが極めたことではないことは明白です。

極めるというのは、極め続けているという状態のことをいい、それはわからないものをわからないままに深め続けて改善を繰り返しているということです。

マンネリ化というものは、少し慣れたものをわかった気になりきっとこうだろうと思い込み磨くことをやめ、改善することを怠るときに発生するものです。分かることやできることなどの結果に重きを置くのではなく、そのものを極めていこうとするところに人間精進の鍵があるように思います。

世阿弥の遺した「風姿花伝」には、自分の花を咲かせることを極めると示されます。これを森信三氏は「一個の天真を宿している」といいます。それぞれに天から与えられている花を咲かそうとすれば、極め続けてその時々の花を咲かせて人生を全うしていかなければなりません。人生の命には終わりがあっても、まさに生き方や道には終わりがないということです。

世阿弥は、その時々の花を咲かせることをわかりやすく整理しています。これは自分の人生を省みて感じた一つの指標であったのかもしれません。そしていつか極め続けて真実の花を咲かすように説きます。そしてそれが「初心を忘るるべからず」に続きます。

この真実の花は、果てがありませんから常に分かった気にならずに学び直し続けて一生涯を懸命に傾け続けていく覚悟が要ります。分かることよりも、修めようとすること、極めようとすること、そこには初心を持ち続けて命果てるまで道を歩んでいこうとする根があります。

根から養分を吸い上げてまた土に帰るまで、人はその時々で真実の花を咲かせ続けていくために一所懸命になるのが人間そのものの至高の姿ではないかと感じます。引き続き、子どもたちにその時々の真実の花のままで接することができるように常に真心と脚下の実践に精進していきたいと思います。