人情という理

先日、ある方の人生相談にのるご縁があり色々と私自身も考え直す機会がありました。その方とは、天神様の縁日で少し話をした程度でしたがその後すぐに人生が変わってしまうような出来事に出会い大変困難な状況をむかえておられました。

日ごろの人間同士の交友関係は私よりもずっと数が多く、相談する方もたくさんいらっしゃるだろうと思っていましたが天神様のご縁なのでととても他人事には思えず私も誠実に尽力していきました。

そういう困難な状況にあるとき、一体誰に相談するのだろうか、また精神的に苦しい時、誰に助けを求めるのだろうか、色々と置き換えて考えてみました。

作家の小林多喜二が「困難な情勢になってはじめて誰が敵か、 誰が味方顔をしていたか、そして誰が本当の味方だったかわかるものだ。」という言葉があります。言葉の重みはわかりませんが、大なり小なり状況や情勢がかわることで人は距離を置くのもわかります。

しかし本当に困っているとき、大変なときこそ傍に寄り添って助けてくれる存在は有難く、特に孤独を味わい精神的に落胆して目の前が真っ暗なときこそ手を添えて一緒に乗り切ろうと力を貸してくれる人が有難く思います。

そのような友人とはなかなか巡り合えることはなく、それはその人の人格や人徳にもよりますし日ごろの信頼関係もありますが、その相談する人物如何に由るものだとも思います。

アメリカの作家のマーク・トゥエインが「友人の果たすべき役割は、間違っているときにも味方すること。 正しいときにはだれだって味方になってくれる。」という言葉もあります。

これはさらに難しいことですが、その人物のことを思いやるからこその味方ができる人というのは少ないように思います。その人の人生や運命を丸ごと応援するという関係は、その人物の生き方に由ります。

人間は間違ってみてはじめて深く気づき、悟ることもありますし、間違うことが反ってその人を人間として大きく成長させてその後の本物の人格を身に着ける教養になっていくことだってあります。

しかし人間はどんな境遇においても諺にあるように「捨てる神あれば拾う神あり」といって見捨てられることがあっても、一方で助けてくれる人もいてたとえ不運なことや困ったことがあっても、悲観することはないというものです。

世間には見限って去っていく人もいれば、味方になって助けてくださる人もいる。「仏千人、神千人」ともいって世の中にはそれだけの神様仏様がいらっしゃっているということだと私は思います。

誰かだけの正義や正しいがすべてではなく、そして間違いがすべて悪ではなく、その人の人生であるすべてを受け容れられるような許しや認める心は人間の人情の中に存在しているのも事実です。自然の心の中には、善悪正否もなく天の理があるのみです。

今回は天神様のご縁でしたが、天神様から教えていただくことばかりです。引き続き、ご縁を辿っていきたいと思います。