風通しの智慧

昨日、無事に聴福庵離れの瓦葺きを終了することができました。伝統的な工法に加え、瓦葺き職人がさらに空気が下から上に抜けて呼吸できるように土と瓦の組み合わせを考案してくれました。日本の高温多湿の環境と、お風呂としての活用になりますから自然に風が建物を通り続けるようにするためにも屋根は家の要になります。

今回のことを通して学んだのは、風通しの智慧です。

風と一概に言っても風にはいろいろな風があります。例えば、澱んでいる風、濁っている風、また新鮮な風や透き通った風など、すべて感覚ではありますが体験したことはあるはずです。

例えば、澱みや濁りの風でいえば空調や扇風機などで一カ所だけから出て行き詰って風が通りません。他にも密集地のビルの合間などによくこのような風があります。天井付近に溜まった空気なども澱みます。また逆に新鮮な風や透き通る風は、例えば深い杜のあるような神社の境内や風の通りを邪魔しないときに入ってくるような自然な風です。草原を流れる風や、海風なども透き通っています。新鮮な風は、密封されていないところや水が流れているところなどに発生しています。

感覚が鋭い人は、密室密封ですぐに気分が悪くなったり、その逆に空気で心身が澄み渡り鋭敏になる人もいます。つまりこの風一つで人体をはじめすべての生き物たちに多大な影響を与えているということです。

私たちが風を感じるのは、呼吸するときに感じます。その呼吸は肺や皮膚によって行われ、酸素を吸って二酸化炭素を吐き出して血液を循環させて健康を維持します。しかしこの空気というものですが、ただ酸素を吸っているわけではないのは先ほどの風からもわかります。

私たちは空気の中にある、不思議な存在を取り込み、それをエネルギーや原動力にして生命を維持しているともいえます。空気によって元気なったり、空気によって健康になったり、空気によって精神や肉体、気力などに大いに影響を受けているのです。

眼でみてわかりやすい食べ物や飲み物などは、すぐに体に影響が出ることはわかりますが、空気という一見何もない透き通った存在がそんなに影響を与えるとは思わないものです。しかし、水や食べ物は少しの間、とらなくても生きていけますが空気は取れなくなるとあっという間に死んでしまいます。

つまり私たちは呼吸を通して地球とつながったり、呼吸を通して生命を維持するのです。この当たり前の原理にどれだけ気づいているか、ここに風通しの智慧の極意があるとも言えます。

風通しをよくするのは、別に自然や建物の話だけではなく人間関係においても同様に行われます。風通しのよい組織は、元気になりますし日々の暮らしを健康にしていくこともできます。

この仕組みは、建物にすれば目に見えるものになり、これをマネージメントで用いればすぐにまた人の間において目に見えるものになります。どのように風を通すか、そこには「風を通す技術」が必要ということです。

ジメジメとカビが生えて、腐ってくるような場所には風は通りません。風が通らないということは生き物は生存できる環境ではないという事です。私が自然農や伝統の智慧で学んでいるものはこの風通しの智慧なのです。

引き続き、この自然の法則や先祖の智慧を通して日本の風土にあった仕組みを今に温故知新し、発明し直し子どもたちに伝承していきたいと思います。

新しい発明、新しい自分

私たちは可能性というものを思うとき、できることやできないことから考えていきます。例えば、あれもできるこれもできるとやってもいないものでもある程度は今の自分の能力や状況から判断していく可能性というものがあります。同時に、今の自分にはできないという現実を受け容れるとき、今までにはなかった選択肢が新しい可能性として出てくるものです。

つまりは、できようができまいがそれがすべて可能性としてあらゆる選択肢を考えることができる。人間に可能性がなくなるときは、自分が先に可能性を見失うほどマイナス思考に陥っているだけで決して選択肢がなくなったことではないのです。つまりは人間はどんな状況においても可能性はなくならないということになります。

ではこのように可能性を持ち続けるためにどうすればいいか、そこには心も持ち方や発想の転換の訓練が必要であるように思います。何か行き詰ったとき、「だったらこうしてみよう」や「逆転の発想だとどうなるか」など、人間塞翁が馬であるとしたり、禍転じて福にするというように心の持ち方を鍛えていくのです。

発明という言葉があります。

これは「今までなかったものを新たに考え出すこと。」と辞書にはあります。つまりは心の持ち方を健全に鍛えて逞しくしていれば常に逆境や苦難は発明の糧になります。

この糧とは、これは本当は何の意味があるのかと深く自問したり、天からの何かしらの手紙ではないかと受け止めたり、ひょっとしたら自分は何か大切なことを見落としているのではないかと見直したりというアイデアの原点に出会うのです。

人は何もなければ今までやってきたことのままでいいや、延長線上に物事があると思い込んだり、階段のように上がっていけばたどり着くと思ったりします。しかし実際は、変化とはブラッシュアップのように温故知新し続け「今までになかった新しい自分になる」ことが求められます。

新しい自分とは、今までではなかった自分ということ。それは発想が変わることであり、今までの価値観ががらりと入れ替わることです。変化は常に自分の心の側で行われ、可能性もまた自分の心の側で変わります。人は日々に自分自身の新しい可能性に挑戦するなかで得られるその発明の糧の御蔭で自分自身の可能性を引き出し広げていきます。

難しい相手や困難であればあるほど、新しい発明と新しい自分を発掘していけるのです。引き続き、困難や苦難の意味を味わいながら新しい発明を楽しみたいと思います

心の余裕~聴福人の実践徳目~

人は相手の立場になってみることで初めて人の話を聴くことができるように思います。自分のことしかない視野や自分の価値観のみに囚われていたら、相手に心を寄せることができません。つまり人間は、本当の意味で心に余裕がなければ人の話をちゃんと聴くことができないのです。

例えば、怪我をしたり病気をしたり外傷がなくても心が深く傷ついている場合もあります。見た目がそんなに気にならなくても、その人の立場になってみると本当に辛く苦しいと感じることもあったりします。そういう時はいくら頭で考えて考えてみても本当にその人の立場になったわけではないのだから表面上のことしかわからないものです。

しかし心の余裕がある人は、たとえ自分がどのような状況にあったとしても相手の立場になって相手を思いやることができるのです。忙しい中でいくら相手の話を聴こうとしても聴けないのは、相手の立場になって思いやる余裕すらなくすほど自分のことだけで忙しくなるからです。自分自身を自意識で満たし、自分の思い通りにしようとすればするほど欲に呑まれ思いやりや心の余裕から遠ざかります。

人は日々に誰かと出会うのだからまず相手と接する前に、一度立ち止まってみて、もしも自分が相手が置かれた状況だったらと深く考えてみたり、自分にもわからない苦しみや葛藤、大変さがきっと相手にあるのだろうと深く思いやることで人は心の余裕を持てるようになります。

心の余裕は別に暇になれば持てるものではなく、考えたからと持てるものではありません。そこには自分というものを相手の立場に置いてみる訓練、もしくはもしも相手が自分だったらと置き換えてみる意識、そういう自分と相手が分かれていないといった自他一体の境地になってみてはじめて本当の真心や思いやりも発動していきます。

人間は過去の体験からの知識など思い込みで相手のことを勝手に認識してしまいますから、心が感じるよりも前に頭で過去の想定から相手のことを分かった気になってしまいます。そうすることで心は着いてこない状態になり余裕もなくなります。心が着いてこなければ、「聞く」ことはできても、「聴く」ことはできません。

聴福人は、まず自分を相手に置き換えて自分だったらと共感していく必要があります。そのうえで、しっかりと受け止めて傾聴し、その状況に一緒に寄り添い受容する、そのうえでお互いに出会ったことや共にあることに感謝していくというプロセスを経ていきます。

そうすることで心は救われ、心の余裕がまた広がり、思いやりと安心の間で穏やかな暮らしを積み重ね仕合せに生きていくことができるのです。

思いやりは、心の余裕ということです。そして心の余裕は、聴くことによって磨かれ高まっていくということです。

引き続き聴福人の実践を日々に重ね、子どもの憧れる生き方を貫いていきたいと思います。

前向きに諦める

人生には自分の思っていた通りになるものと思い通りにならないこと、思いもつかなかったことがあったりするものです。生きていく中で、色々と願望が固着し思いが重たくなってくるとその願望に執着して諦めることができなくなることもあります。

しかし本来は、目的を失うわけではないのだから手段は無数にあっていいわけで私たちはその手段を変えていくときに葛藤があるのかもしれません。言い換えれば、今までできたことができなくなることへの不安感であったり、今までその手段でやってきたことができなくなることへの心配が手放す勇気を減退させてしまうのかもしれません。

前に進んでいくためには、いろいろなことを手放していかなければなりません。それまでできたことが、新しいことをやろうとするとできなくなる。新しいことをやるために過去の手段を変えていこうと冷静になればいいのですがこれまでやってきたことはなかなか簡単に捨てることができないのです。

例えば、健康などもそうですが怪我をしてみて今までできたことができなくなるとそれまでできていたことがなかなか諦めることができません。なんとか元に戻ろうとしますが、元通りにはなりません。リハビリをしながら、新しいやり方を身に着けていく必要があります。ひょっとすると、元にやっていた時よりももっと上手にできるようになるかもしれません。しかし元通りになることに執着すればするほどに過去の習慣が手放せず変わることができなくなるのです。

人生の中で前向きに諦めるときは、目的を達するために他の手段を考えようと諦めないと気です。ある部分は諦め、ある部分は決して諦めない。この諦めると諦めないの間にこそ諦観があります。

この諦観とは、辞書には「 本質を明らかに見て取ること。」「 悟りの境地にあって物事をみること。」と書かれます。

思い通りにいくことが目的を達する道ではなく、どんなに思い通りにいかないことがあったとしても目的を最期まで失わないこと。人生はどんなことが起きるかわかりませんから、その中でも目的を失わなければ色々なやり方があるという中に本当の可能性が隠れているかもしれません。

なんでもできるという可能性と、できなくなって明らかになる可能性。

前向きに諦めることの本質は、流れに逆らわずに我を手放し来たご縁をすべて活かしていこうとすることのように私は思います。

気づく感性を高め、何かを見落としいなかったか、無理をしていなかったかと、内省を深め、さらに一歩一歩前進していきたいと思います。

 

音楽の仕組み

先日、自由の森学園の音楽祭を見学する機会がありました。2日間に渡る音楽祭は、初日は生徒たちの有志によってそれぞれに自己表現を楽しんでいました。2日目はクラスや学年別、全校生徒による合唱が行われています。

生徒たちがそれぞれに楽しそうに音楽を奏でる姿に、学校の雰囲気や子どもたちの成長の様子なども表現されていました。音楽を奏でるというのは、それぞれの自己表現を楽しむということでもあります。自分らしく主体的に楽しく取り組んでいる姿がそれぞれの音として顕れ、その音楽に乗っかることでさらに主体性が引き出されていく。音楽は子どもたちの主体性を揺さぶるひとつの仕組みかもしれません。

人間はそれぞれに自分の人生があります。それは誰かと比較したり、誰かのようになろうとしたりしても意味がなく、それぞれに与えられた自分の人生があります。それがどのようなものであれ自分の人生なのだからその人生を謳歌することが仕合せであり、その謳歌したものが音楽として全体に響き渡ります。

ひょっとすればその人生は成功かもしれないし失敗かもしれません。しかしそれは他人が勝手に評価するもので自分自身がどう思うかとは別の話でもあります。

音楽というものは、どのようなものであっても楽しむということやどんなことも善いことへ転じるという人生への逞しい意志を感じます。歌を歌う人は、その背景に人生を力強く生き、その転じられたものを表現するときそれぞれが実感した人生の音を奏でていきます。

どのような音を奏でるか、どのような声を発するか、その人の人生が丸ごと歌になっていることを思えばその人生を如何に楽しむかが何よりも重要だと私は思います。

人生の大切な時期に、学校に入り、仲間と語らい、人生の大切な意味を知る。

音楽もまた自由を学ぶための大切な仕組みの一つです。深めたものを実践に活かすためにも、新たな仕組みを創造していきたいと思います。

 

信頼関係

人間にとって何よりも大切なのは信頼関係を築くことです。信頼関係のことをあまり考えない人もいますが、人との関係で何かをするのが人間ですから協力するためにもこの関係づくりへの努力が何よりも優先されています。

信頼関係のことを英語にすると信頼関係を英語にすると「Relationship」といいます。「Trust relationship」を「Build」という言い方をしますが本当の関係性を築き上げていくという意味です。具体的には、お互いに心を通じ合わせて困ったときに頼り合える存在を持つという事です。文字通り、信じて頼る人がいるというのがこの信頼関係です。

よく観察していると、信頼関係を構築していきやすい人とそうではない人の特徴が分かってきます。自分の生き方がはっきりしていて、自分に嘘がない人はこちらが相手のことを見て判断しなくてもその人は勝手に自分に生き方を貫いていきます。自分に正直であり、真心があり周りに対して親切な人はその生き方を優先するため誰が頼っても同様に対応してくれます。

逆に、人をみてコロコロと意見を変えたり自分に嘘をついて誤魔化したり、隠れてこそこそと周りを見ては自分のスタンスを変えたり、本音や本心をさらけ出さない態度をとって不信な行動をとっている人は信頼されにくくなります。

本人は無自覚であったとしても、この「隠れて」や「隠そう」という行為や行動が周りの不信と不安を広げてしまうからです。自意識過剰な人やプライドが高い人、自分中心な人は如何に上手にその場を合わせているように見せてもすぐに本心が周りに露呈します。本人が無自覚なのは、その自我の強さから信頼を失っていることに築かず信頼関係ができないのもわからなくなってしまうからです。

自我が強い人は、自分を守ろうとするあまり頼れる関係ができにくくなります。自分を守るのではなく、全体を守ろうとしたり相手を守ろうとする人は自ずから周りに信頼される人になります。自分よりも大切なものを持つというのは、生き方もそうですが大事なのです。この生き方が優先といいながら自分勝手を優先していることにも気づかないこともありますから注意が必要です。

だからこそ組織は理念が必要であり、みんなが理念を優先することで自分勝手なプライドや自意識過剰、自分中心な自分が抑えられていきます。

どんな時も理念が優先されるか、その辺に信頼関係を築くポイントがあるのかもしれません。引き続き、深めつつ子ども第一義の理念を積み重ねていきたいと思います。

聴福人の実践

私たちは聴く仕事をしています、その聴く仕事の人を私たちは聴福人の実践と定義しています。この聴くという実践は本当に奥深く、聴く境地に達するにはいのちがけの精進が必要になります。すぐに人は聞きましたと返答しますが、その実は聴いているようで聞いていないということが多々あるものです。

「聴く」ということにおいて、高木善之氏の著書 『ありがとう』(地球村出版)に「耳の大きなおじいさん」と題するお話が紹介されています。これは私の思っている聴くということに通じていてとても参考になるのでご紹介します。

『私が子どもの頃、近所に東(あずま)さんというお宅があり、そこにおじいさんがいました。おじいさんはいつも籐椅子で揺られていました。 耳が大きく、いつもニコニコして、いつも半分寝ていました。

もとは父と同じ病院の歯医者さんでしたが、数年前に定年退職しましたので六十五歳くらいです。いまなら六十五歳は高齢ではありませんが、「村の船頭さん」の歌詞にも「ことし六十のおじいさん」とあるくらいですから、当時は六十五といえば、近所でもっとも高齢でした。

この「耳の大きなおじいさん」は、「悩み事、相談事をするととても楽になり、解決が見つかる」 ということで評判で、近所の人はもちろん、遠くからも人がやって来ました。

私は、小さな子どもだったので実際に相談したわけではありませんが、人の話によると、おじいさんは、どんな話も黙って聴くのだそうです。

相手が笑うと、おじいさんも微笑んでくれるのだそうです。 相手が泣くと、おじいさんも涙を流してくれるのだそうです。

相手が黙り込むと、おじいさんはやさしい目で見つめて黙って待ってくれるそうです。

そして、相手が立ち上がると、抱きしめてくれるそうです。そして玄関まで送ってくれて、相手が見えなくなるまで手を振ってくれるそうです。

相談に来た者は、最後にはみんな涙を流して「ありがとう!ありがとう!」 と感謝して帰っていくそうです。

「耳の大きなおじいさん」はどんな悩み事も、受け止めてくれるのだそうです。

あとになって私は、父親にこのことを聞くと、

「あのおじいさんはね、耳が聞こえなかったんだよ」 と衝撃的なことを話してくれました。

「えっ!どうして!どうして耳の聞こえない人が相談を解決できたの?」 と聞くと、父は

「さあ、わからないけれど・・・きっと愛だったんだろうね」 と言いました。

そして父は、 「ボケ(認知症)がかなり進んでいた」と付け加えました。

耳が聞こえないおじいさん、認知症のおじいさん、 相手の話も聞こえない、相手の話も理解できないおじいさんが、 多くの人の相談事や悩み事を解決したということ。

そのおじいさんを思い出すと、いつもニコニコしている笑顔が浮かんできます。

相談者は、

黙って聴いてくれること、

うなずいてくれること、

共に喜んでくれること、

共に悲しんでくれること、

それを一番に求めているのです。』

人間は、自分自身を信じられなくなる時、心情が揺さぶられます。そのとき、「うん、うん」と心を寄り添って、きっと深い意味があると丸ごと信じて聴いている存在に、自分自身が救われ信じる力を取り戻していくものです。

様々な人生の困難があるとき、その困難を解決することが大事なのではなくその困難の意味を学び、その体験を周りの人たちのために活かすことが何よりも大切なのです。

それが人の本質であり、それが人生の意味であり、人間は助け合うことで信じる仕合せと幸福を実感するようになっているのです。

聴くということは、話すことよりも重要です。如何に、相手にとっての善い聴き手になるか、話し上手よりも聴き上手という諺もありますが聴き手の力によって相手はもっと成長し、さらに学びを深めていくだけではなく自信と誇りを持ったり、勇気や元気を出したり、自分のやっていることの背中を押されたり反省したりすることもできるのです。

聴き手の力はどのように磨かれるか、それは「省みること」によって行われ、「信じること」によって高まります。自分の真心はどうだったか、相手のことを丸ごと信じたか、そしてご縁を一期一会にしたか、その場数によって磨かれ研ぎ澄まされていきます。

現場実践による聴福人の生き方とは、その場数を高めて精進することで本物になります。引き続き、子どもたちのためにも聴くことが徳であり、徳こそが人であるという背中を遺していきたいと思います。

聴福人の実践目録

人間というものは様々な感情を抱きかかえながら生きていくものです。また真面目に生きていけば、理不尽だと感じることがあったり、なぜ自分だけこんなことになど被害者意識に苛まれることもあるかもしれません。人間は弱いからこそ人と繋がりますから甘えもまた人間の大切な感情の一つです。

私たちの目指している「聴福人」は、傾聴や共感、受容というプロセスを大切にしていますがこれはできるようで大変難しいことだと実感しています。人には、みんな異なる苦しみがありそれを乗り越えようと努力する中で葛藤があり成長していきます。その成長に寄り添うということで人は安心して成長を選ぶことができます。

成長を選べない理由は、成功や失敗を恐れたり、不安や不信があれば成長よりも無難であることを望むようになります。成長は失敗をすることで学び、不安を乗り越えてしていきますから誰かが見守ってくれていると実感しながら取り組むことは成長を助けるうえでとても大きな要素になると私は思います。

人間の感情を詩にして励ましてくださる方に詩人の「相田みつを」さんがいます。この詩にはすべて傾聴、共感、受容、感謝があります。一人で抱え込んだりして辛く苦しいときは心情を見守り理解してくれる存在として聴いてくださっているのを感じます。

ぐち」

ぐちをこぼしたって
いいがな
弱音を吐いたって
いいがな
人間だもの
たまには涙を
みせたって
いいがな
生きているんだもの」

(にんげんだものより)

生きていればいろいろなことがある、それを丸ごと共感してくれます。さらにこういう詩もあります。

うん

つらかったろうなあ
くるしかったろうなあ
うん うん
だれにもわかって
もらえずになあ
どんなにか
つらかったろう
うん うん
泣くにも泣けず
つらかったろう
くるしかったろう
うん うん

いのちいっぱいより)

このうん、うんと聴いているのはただ聞くのではなく丸ごと受容してくれているのがわかります。誰かにわかってほしい、逃げ出さずに頑張っている自分をわかってほしい、そうやって自立に向かって甘えを乗り越えて巣立っていく。人間は弱い自分を受け容れてはじめて自分自身と素直に向き合うことができるのかもしれません。そうして御蔭様や見守られたことを実感し人格が高まり感謝を知るように思います。

またこういう詩があります。

肥料

あのときの
あの苦しみも
あのときの
あの悲しみも
みんな 肥料に
なったんだなあ
じぶんが自分になるための

(いちずに一本道 いちずに一ツ事より)

振り返ってみると、苦しみがあったから成長したともいえます。困難から逃げず、苦労に飛び込んではじめて今の成長があります。成長の過程で人間は、己に克ち己と調和するために、挑戦の最中ずっと自分を誉めたり、慰めたり、労わったり、安らいだり、癒したり鼓舞したり、激励したりと自分自身との対話を通して本物のじぶんが磨かれ自分になっていきます

だからこそその時の心情がそのまま詩になります。

心情を吐露することができるのは、苦労の真っ最中であり幸福の真っ最中、まさに生きている真っ最中ということです。生きている実感や生きている歓びや充実は、困難や苦労の中、つまり成長にこそあります。

成長する仕合せを福に転じ続けていくためにも聴福人的な生き方が大切であることを改めて感じます。引き続き子どもたちのためにも、聴福人の実践を積み重ねていきたいと思います。

 

めぐり合わせ

人生はいろいろなめぐり合わせによって歩む方向が変わっていきます。これは川に浮かんだ紅葉のように様々なめぐり合わせで留まったり遠くまで流れ着いたりしていくのに似ています。

このめぐり合わせというものは、一つの運ですがそれはずっと以前からつながっているご縁であったり、一つ一つの日々の選択が集積して組み合わさり常に変化を已みません。人間にはそれぞれ宿命というものもあり、避けられない出来事との出会いというものもあります。それは時折、事故であったり災害であったりといろいろとあります。

不運と思えるようなことであっても時間が経てばそれは実は幸福であったり、その逆に幸運だと思っていたことが不幸であったりそれも時間の経過で観えてくるものです。失うものがあれば得るものがあり、得るものがあれば失うものもある、それを差し替えながら歩んでいきます。

どちらにしても私たちはそこから体験し学ぶことで成長していきます。どんなに幸運不運、幸不幸があってもそこに学びまた次のめぐり合わせへと向かいます。どんなめぐり合わせがあったとしてもそれは奇跡的に発生したことであり、そのこと自体が仕合せということになります。

この仕合せというものは、めぐり合わせのことでこの世で出会った一期一会のご縁のことです。

今の自分があるのは、そのめぐり合わせによって存在し、自分を自覚できるのもまたその仕合せによって今があることに気づくからです。

ご縁を大切にという言葉もありますが、なぜご縁を大切にする必要があるのか、それは人生は仕合せによって出来上がっているからに他なりません。二度とない人生、二度とないご縁、二度とない仕合せ、そういうものを大切にしているか、めぐり合わせを思うときそれを省みると有難い気持ちに包まれます。

どんな仕合せがくるのか、ワクワクドキドキしながら悲喜交々と味わいながら丁寧に歩んでいきたいと思います。

理想と調和

人は向上心があるのは理想を持つからでもあります。理想が高くなればなるほどプライドも高くなり、そのことから現実とのギャップに苦しむことがあります。それは目標に向かって努力するモチベーションにもなりますがストイックになりすぎると苦しみが増えて楽しみが減っていきます。そういう時は、理想よりも調和を優先することで楽しみも増えて苦しみが和らぎます。

この場合のストイックな理想は自分の理想のことであり、それを言い換えれば小我がエゴだとも呼びます。理想にはもう一つ、本当の理想があります。それは全体調和や全体最適とも言いますが、自然界のように全体が活かされるものと一体になってお互いに活かし合う存在になっている理想のことです。

人間は、自分を中心に善悪や優劣をつけたがるものです。しかし考えてみればすぐにわかりますが、自分が成功すれば相手は失敗していたり、自分に利益が出れば誰かが損失を被ったりします。そうやって自分だけをみて自分さえよければと、自分のことばかりを理想にすればその陰には全体にとってどうかなどあまり感じなくなっていくものです。

本来、私たちは自然のようにみなそれぞれが懸命に生きて周りと調和して生きていく生き物です。その中で、周りのために自分を盡してまた周りも自分のために盡していきます。恩恵をいただき、恩返しをする関係が私たちです。恩恵を忘れてしまえば恩返しもなくなるように、まずは全体からいただいていることを忘れないようにして如何に自分を全体のために活かしていくかに取り組むことが理想の実現になります。

自分の小我の理想のためならすべてを犠牲にしてもいいという考え方の中にある理想では、周りは仕合せになりません。みんなの仕合せのために自分の理想を実現するのなら、全体最適や全体調和を優先しながら自分も懸命に精進していこうと思うものです。

肉体でも調和が乱れると病気になったり怪我をしたりするものです。病気は文字通り「気」が「病む」となり気の循環が乱れてしまうこと、怪我は「我」を「怪しむ」、これを中国語の意味では良心の苛責、自分を責めることだといいます。

自我が前に出すぎないように理想を持つために理念があり、常に理念を優先して取り組んでいけば全体調和や全体最適こそが本当の理想の実現に向かうことを自覚するのです。自分のことばかりを思い悩み、理念を忘れて理想ばかりを追いかければ病気や怪我が付きまとうのかもしれません。

自然治癒とは、調和に向かう作用のことです。

どんなことがあったとしても人間をはじめすべてのいのちは調和に向かいます。何が不自然であったか、何が自然かを私たちは本能で自覚していますからやり過ぎたらまた反省し見直し再び挑戦していけばそのうち中心を掴んでいけるのかもしれません。

引き続き、子どもたちの憧れる生き方と働き方を見つめて楽しんでいきたいと思います。