坐骨神経痛になった御蔭で、自然治癒のことを学び直す機会が増えています。医と農は私の生涯の学習テーマであり、自然に照らして自己を内観することでさらに道が深まり楽しみも増していきます。
昨日は、「自助」ということについて考える機会がありました。本来、人間をはじめいのちのあるすべての生き物は偉大な恩恵を宇宙や地球からいただいて生活を営んでいくことができます。
当たり前のことですが、自然の中に空気も水も光もあり、さらに地球には重力というものがあり私たちはその存在によって活かされています。この活かされているもの、それが自然治癒の根源とも言えます。この自然治癒の根源の力が常日頃から発揮されて私たちは生きています。
その活かされている力は、例えば重力であればそのことによって筋力も骨力も高まっていきます。他にも空気や水であれば、美しい森の森林浴のように私たちは心身を癒され安らいでいきます。
当たり前すぎて忘れてしまうものですが、私たちの体は自然の一部です。自然の一部だからこそ自然治癒をする。その自然治癒を邪魔するものが何か、それが人間の意識であろうとも思うのです。
自然治癒を邪魔するものは、不自然なもののことです。例えば、昔の人たちはよく自然の中で歩き、歩くことで心身を循環し鍛錬し健康を維持していました。今では車社会になり、ほとんど歩くことも亡くなってきています。道路は舗装され、かつてのような弾力のある土や砂利、草の上を歩くこともありません。
不自然な生活を積み重ねることで生活習慣病になり、様々な問題が発生してきます。それを一時的な対処療法で治してしまうと自然治癒がより働かなくなることにもなります。
自然治癒の特徴は、じっくりとゆっくりと治していくというものです。即席栽培のようにいきなり育たせるのではなく、自然栽培のようにじっくりと周りの環境に適応しながら治していきます。
私たちが生活習慣病になるもの時間をかけて行われるように、同時に生活習慣病が治癒して本来の自然な姿に原点回帰していくのもまた時間がかかります。その際に、何が不自然なのかを見極め、その不自然な暮らしを少しずつ改善していくことで自然治癒に向かっていきます。
自然をよく観察していけば、何が不自然で何が自然であったかを学び直すものです。もっとも危険なことは、不自然なことが常識になってしまうことと、不自然であることに気づくことがなくなってしまうことかもしれません。
自分の不自然に気づくために病気もあり、活かされていることを忘れていることで不安も葛藤も起きてきます。これは実は自然なことかもしれません。人間が自然の一部であることを忘れることから問題が生まれ、その問題に気づくために病気がある。病気とは天の声であり、その病気はすべて治癒のはじまりなのです。
自然治癒の根源に気づくことこそが、自然治癒の極意なのかもしれません。
見守られていると感じながら病を得ることは、病があることに感謝する生き方です。この病が自然から離れないように心が自分自身を助けてくださっているのかもしれません。自然に見守られる中で如何に自立するか、これはすべての生き物のいのちの命題です。
子どもたちに不自然な道を残していかないように、かんながらの道を歩んでいきたいと思います。