「読み」と「聴く」という言葉があります。
この読みとは、物事の筋道を読むことで言い換えれば読み解く力であるとも言えます。よく「読みが深い」や「読みが当たる」、「読みが鋭い」という言葉もありますがこの読み解く力は全体を観通す力のことで、過去の経験の洞察や事物をよく観察するときに読みを使います。
しかしこの読みは、時として将棋や囲碁で使われる「勝手読み」のように相手の応手をしっかり考えずに、自分に都合のいい手順を読むことになり独善的に陥ることもあります。これは深読みし過ぎていることで、うがちすぎたということです。このうがちすぎるというのは、辞書で意味を引くと「物事の本質や人情の機微をとらえようと執着するあまり、逆に真実からかけ離れてしまうこと。」と記されます。
つまりは、読みだけで全部を解決しようとすると深読みし過ぎたりうがちすぎたりするということです。読みが外れるのはこういう心の態度が原因になります。なぜ読みだけでいこうとするのかは、聴けないからです。
今度は「聴く」というものがあります。聴くは聴き過ぎや、聴きが外れるとか、聴きが当たらないなどという言葉はありません。分からないときは素直に聴けばいい、また相手のことを深く聴けば聴くほどに共感し受容しますから問題はありません。聴けば真実がそのままに観えますから聴き外れもありません。
読みは独善的になりますが聴くは満善的になります。読みは自分中心になりますが、聴くは全体中心になります。人間は読みだけに頼るのではなく、聴くことが何よりもバランスを保つうえで重要になるということです。
独善的に陥らない方法は、聴くしかありません。聴き上手は常に、周囲の力を借りることができ、また人材を活かすことができます。
私は意味を深めるために、読み解く力は必要だとは思いますが生きていくためにはその意味の本質を理解するために聴くことの方がもっと重要だと感じます。聴くことで人は自他を信じることができ、聴くことで全体の声にならないようなすべての声を受容し円満に循環していくための道理を学ぶことができるからです。
聴福人というのは、独善的な人ではなく満善的な人になるということです。この満善的な力のことを私は聴福力と定義しています。
引き続き、組織の風通しを見極め実践を高めて聴福人の道を弘めていきたいと思います。