自然の姿~仏性~

先日、あるお客様のところの話でその方の座右について教えて頂きました。その座右は「人間は落ち込むときは自分の仏性が観えない、そして怒っていると他人の仏性が観えない」という話です。

この仏性とは、仏さまの性質や仏の本性と呼ばれるものですが仏教では山川草木悉有仏性という言い方をします。それを道元禅師は「山川草木、悉有は仏性なり。」と訳しています。つまりは、自然のすべては仏性そのものであるということです。

私たちは自然が観えるとき、もしくは静寂の中で自然を感じるとき心は穏やかで落ち着いているものです。しかし不安や怒り、落ち込むときは自分に囚われて執着していますから自然の音や声や姿が目には入ってきません。全体を観て視野が広く心が開いている状態のときは自然が観えても、この逆に自分の感情の中に入ってしまうと視野が狭くなり心を閉ざし何も観えなくなってしまうものです。

この不安と怒りの感情は表裏一体ですから、表に怒りが出れば裏に不安があり、不安が表にあれば裏には怒りがあります。そのどちらもまたはっきりしているのが不自然な状態になっているという事です。

不自然ではない状態を如何に維持するか、平常心を磨き如何に自然体で居続けるか、それが仏性の状態でいるということかもしれません。自然の姿には、怒りとか不安というものはありません。自然に生きるものは無心にあるがまま、つまりは自然のままの姿で生きています。

そこには運命を受け容れ、天命に従うというようにどんな状況に置かれていても必死で生きていこうとします。今に集中し、今を生き切っています。そんな心のままでいられるとき、人はもっとも仏性が顕現しているのかもしれません。

自分の目を曇らせているものは何か、自分の心を澱ませているものは何か、自分の執着を見つめてそれを手放していくことや、元来の生きる動機や初心を忘れずに心をなくさないように日々に内省を続けていくことであるがままの状態を維持していくことができれば自然と同様に自然に近づいていくことができるようにも思います。

人間は自然から離れていきましたから、余計に仏性のことが観えなくなっていったのでしょう。自分に囚われていないか、執着していないかと、自問自答しながら自省して自分を変えていくことは本来の心を守るための大切な仕組みの一つです。

子どもたちの心が見守れる大人であれるよう、実践を積み重ねていきたいと思います。