真己を磨く

刷り込みを深めていると、環境のこともありますがそれに負けないような自分を如何に創り上げていくかという課題も同時に感じます。幼いころから自分というものを育てようとせずに外から誰かに一方的に教え込まれたままに大人になると自分のことが分からなくなっているものです。

この「自分を知る」ということがどれだけ大事なことか、改めて書いてみようと思います。

そもそも自分を知るために必要な問い「自分とは何か」、これとちゃんと向き合ってきた人は少ないように思います。漠然とした自分のことはわかっていても、本来の自分というものはほとんどわかっていないものです。人生は自分を知る旅だとも言えますが、日々に本心や真己と対話をし良心ともいうべき本当の自分に出会い続けることで自分のことを知っていきます。

素直な自分というか、自分を欺かず自分の心と向き合い自分の声に耳を澄まして自分でその今の事実を受け止めて決断していく連続において自分を知っていくとも言えます。

何のために自分を知る必要があるのか、それは誰も代わることができないたった一人の自分、たった一つの人生を、自分が責任をもって主人公として生き切っていくためでもあります。もしもそうでなければどうなるか、他人の人生を自分の人生だと思い込み、一度きりの人生を無責任に他人事のように流されていたら本当の自分に出会うことのないままに死んでしまうことになります。自分を知るというのは、すべての自立の根っこであり、自立するためにはまずその最初の登竜門でもある自分を知ることからはじめなければなりません。

そして自分を知ることができれば今度は自分を創ることをはじめていく必要があります。本当の自分から目を逸らさずに自分を見つめて自分を知れば、自分にはいろいろな感情や性格や性質、特性や徳性があることに気づきます。その中で如何に自分を全体のために発揮していくかを考えるとき、善いところを伸ばし、悪いところは目立たないようにしていく、そして今できないものは周囲を頼ってカバーしてもらうというように自分を創り上げていかなければなりません。

畢竟、教育の本質はこの自分を知る、自分を創るということでしょう。そして如何にその自分が社會に参画し世界を平和にしていくか。そのために私たちは日々に学ぶ機会を経ては己を知り己を磨き続けるのです。

今の時代は、歪んだ個人主義が蔓延し、あまり自分自身を知ることや自分自身を創ることをし自己を評価して改善する時間をじっくりと取るよりも、周囲の評価に合わせては見た目ばかりを誤魔化し忙しくすることで自分を知ろうとも創ろうともしない風潮があります。

どんな自分に仕上げていくかは、自分が自分を知り、自分で自分を創造していくしかありません。そのためには、自分を見つめることから初めていくことだと私は思います。日々に省みることは、自分を知るための最大最高の道です。真己を内省により磨き続けていけばそのうち穢れも洗い流され曇りも晴れて、本当の自分を知る出会いに巡り会えると思います。諦めないで続けていくこと、どんなことからも逃げずに向き合ってみること、いただいている有難いご縁に感謝することからはじめていくといいと思います。

引き続き、刷り込みを見つめながら子どもには刷り込みを与えないように、大人にはその刷り込みを毀すために如何に真己を磨くかを伝道していきたいと思います。

階層型組織から協働体組織へ

現在、キャリアパスなどを義務付けされ研修に参加することを法的に施工させるという現象が教育業界でも起こっています。そもそもこのキャリパスというのは経営学用語の一つであり、企業においての社員が、ある職位に就くまでに辿ることとなる経験や順序のことをいいます。職員や社員の視点では、将来自分が目指す職業を踏まえた上でどのような形で経験を積んでいくかという順序・計画を指し、キャリアプランなどを設定してはそれに沿って研修を受けて成長していくという仕組みです。

階層型組織、いわゆるピラミッド型組織で目標設定型で取り組んでいくような経営組織においては有効かもしれませんが今の時代のように多様化する変化に柔軟に対応していくような場合の組織ではこの階層型やピラミッド型の組織という戦略は私ならまずは選択しない方法論です。時代遅れというか、官僚型の仕組みをいまのような変化が大きな時にやろうとしてもニーズとの不一致は広がるばかりです。補助金を出すからキャリアパスをやれというのは、そもそもがおかしな話でこのような官僚型の発想で上から押し付けられたキャリアパスはやればやるほどに後の修正が非常に困難になるだろうと私は予測しています。

今の時代に必要な能力として欠かせないものは協働するリーダーシップです。それは社員一人ひとりにも必要となる協力する能力のことです。これをチームワークともいいますが、世界ではすでに戦略的に階層型組織をやめ協働体組織への変化にシフトしています。この協働体組織とは共異体組織のことであり、それぞれの徳性を伸ばし持ち味を活かし、皆で一緒にいることの相乗効果を最大限に発揮した組織のことです。

そのモチベーションの動機は決して個人の成長が優先されるのではなく、みんなの仕合せが優先されます。自分だけが良くなればいいではなく、如何にみんなが善くなるか、部分最適ではなく全体最適が行われることを最善とします。みんなが必要とし合い持ち味を活かし家族のような結束で豊かな社會を人間は本能で望んでいます。これは名君がいて平和に国が豊かに治まったような状態、それを実現した組織とも言えます。

古来より日本には、全体善という思想がありました。これは利己ではなく利他の精神であり、みんなが利他で思いやり助け合うことで豊かで幸福な社會を実現していくという考え方のことです。モチベーションを高めるために、馬の鼻先にニンジンをぶらさげるような場当たり的なキャリプランを設置しそんなものを与えてもやる気が永久に持続するわけはありません。もちろん短期的にはそれが合った人もいるでしょうが、視野を広げればそれで合ったはずはなく長持ちもせず組織も協働体になることはまずありえないでしょう。これで余計に個々のつながりが断たれバラバラになる仕組みが活発化し、その終息に数年から十数年かかるかもしれません。

自分でやったこともないことを絵に描いた餅のように施工するのではなく、実際にそのような協働体や共異体を実践して実現している組織の人物たちと一緒にどのように世の中を変えていこうかと話し合うことができるくらいに質を議論できるようになる必要性を私は感じます。いつも思いますが片方が一歩的に何かをやったりやらせたりするのではなく、正しく対話を行い一緒に考える中で磨き上げていくのが本質的な取り組みです。

日本では昨日ブログで書いた産学官連携においても、連携が既存の既得権益や悪しき風習によって学主導や産主導、もしくは官主導になっているだけの壁や枠が取り払われなければ本質的な協働などはまだ先の話のように感じてしまいます。ここの協働がまず成り立っていないところに問題があるように私は思います。

しかし批判してもはじまりませんから私たちは理念を同じくする仲間やパートナー、お客様と共に協働や協力を対話によって一歩ずつ実現する仕組みを地道に広げていこうと思います。

子どもたちのためにも、今の時代に合致した戦略、今のニーズに対応した対話の在り方を発明しつつ丁寧に実践を取り組んでいきたいと思います。

 

窮屈と抑圧~社會の在り方~

何かを自由にしようとするとすぐにその自由に対して批判やルールを押し付けられることがあります。本来の自由は、そういう壁や枠を乗り越えて自在に自分を展開していくことですが周囲からの評価や空気を読めといった押し付けられるものに負けてしまえば自分を社会の型に嵌められ押し殺されてしまいます。

この窮屈や抑圧から連想される言葉は他には、マニュアル的や規格的、官僚主義的、制限つき、呪縛される、 自由がきかない、融通が利かない、ガチガチ、こり固まる、役所仕事など、いわゆる息が詰まるような圧迫したマジメさというか狭苦しい不寛容な雰囲気を感じます。

以前、オランダにいったとき教育の自由が保たれ、どんな人でも教育を語ってもよく民間企業であっても官学連携も普通に行われ豊かにその教育の質を議論し合える寛容な環境があったことに感動したことがあります。そのオランダでは私のような人間をユニークだと褒めてくれて、日本にこのようなユニークな会社があることが素晴らしいと認めてくれたことに感動したことがあります。

しかし日本ではすぐに何かをしようとすると、大多数の古い価値観から否定され「こうであらねばらない」というすぐに誰かが決めた社会の固定概念というか封建主義的な風習から語られ、本質的な議論もなされず余計な時間を浪費してしまう傾向があります。

真面目にやりなさいと言われ続けて型に嵌められることが当たり前になると型破りであることはそのまま不真面目であると認識されます。しかしこの型破りというのは決して不真面目にやっているのではなく本質を守ろうとするがゆえに型を破っているのに過ぎないこともあるのです。

なんでもすぐにマジメはいいこと、フマジメは悪いことと認識してその常識を信じ込まされていることこそが自分も窮屈で不寛容な社会の助長をしていることになるように私は思います。

マジメかフマジメかではなく、本質的にどうなのかと質の話に議論がいかないことが成熟を阻害し、民度を下げているようにも感じます。なんでも同じ型に嵌められるほど画一的なものではないのが実際の社會です。

この画一的で規格品ばかりができたことによる窮屈で抑圧された状態で凝り固まっていたら世界に取り残されてしまうのは自明の理です。

もっと純粋な人や、志のある人、本質的な人を助けて応援する気風を国家全体で醸成していくことが本来の国家の品格ではないかとも思います。どこぞの大量生産の規格品ばかりをつくるロボットの工場のような国が果たしてこれからの多様化された自由な世界で一体何をすることができるのでしょうか。子どもが減っているのも子どもの元氣が減退しているのもそれは今の大人たちが作り上げて押し付けてきた社会がいつまでも変わらないままであるからでしょう。

社會は本来寛容です、そして寛容さは広く明るい伸び伸びした自然の環境と心です。

もっと心豊かに生きられる国にしていけるように、子どもたちにはいろいろな生き方があり自分らしく生きていいというロールモデルになるようにどんな窮屈で抑圧された社會であってもそれを乗り越えて新しい今を今を生きる大人たちの選択として創造していきたいと思います。

子どもたちの元氣に貢献できるよう、自分らしく明るく伸び伸びとした活気を放って挑戦していきたいと思います。

価値観を毀す

人間は知らず知らずのうちに、自分の生まれ育った環境の中で価値観が固定されていくものです。特に国家や社会の中で、これは正しいこれは間違っていると一つ一つがインプットされればその固定概念によってできないことやできることが身に着いていきます。

時に外国に行き、別の国家や社会の価値観に触れれば日本では常識的にあり得ないことでもその国では当たり前に行われたり、世界で非常識だと思われることでも日本では常識だと認識されていることもあります。

通常であれば、大多数の方の価値観に無意識に従って判断していますが価値観が異なる環境の方に身を置けばそれまでの自分の価値観を維持することが難しく価値観が揺さぶられ毀れていくものです。

この価値観を毀すというものが、自分を変えていくということかもしれません。

自分の価値観を揺さぶり、自分の価値観を毀すことは自分を毀していくということです。古くなり鈍ってしまっている自分の感覚を磨き上げて新鮮に鋭敏にしていくという感覚のことです。

人間は環境の中で無意識に影響を受けて、次第にそれが癖づいていきます。習慣になれば価値観は固定され、その価値観によって常識や限界が生まれていきます。本来はできることも、その大前提になっている価値観が邪魔して動くこともできません。先に諦めてしまうのは、その価値観がガチガチに固定されてしまっているからでもあります。

自分を毀し続ける挑戦というものは、価値観に囚われず本質を磨き続けていく挑戦です。環境がどうであれ、自分が目指しているもののために敢えて常識を毀していくという挑戦のことです。

周囲からは馬鹿だと呼ばれたり、狂っていると中傷されたりしても、本人が目指す理想に向かって真摯に挑戦し価値観を毀し続けることでそれまでの人々の価値観があるときある瞬間に音を立てて毀れて新しくなります。時代の価値観の移り変わりというものは、そういう維新の志士たちによって行われてきたのです。

生きているだけでその国や常識や社会の価値観の圧力を受け続けて自分が抑えこまれていきますからそれを日々に壊すために自分の鈍る感性を鋭敏に磨き上げていく必要があります。

価値観を揺さぶられるような体験は、主体的に自らが挑戦することで得られますから自分の中で考えられないようなことへも面白がって楽しく勇んで挑んでいくことが新しい自分と出会うきっかけになります。いろいろな人に出会うのも、いろいろな分野を深めるのも、いろいろなところに行くのも、いろいろな本や智慧に導かれるのも価値観を毀し自分を磨くためです。

引き続き、子どもたちに固定概念を押し付けず子どもたちがあるがままに活きられる世の中を見守るために自分の価値観を揺さぶり続けたいと思います。

 

 

自他一体 自他共栄

相手と自分とを分けない、これを自他一体ともいいます。これは単に二者関係のことをいうだけではなく、全体最適ともいい、また八百万の神々のようにすべて一体善になっている境地のことです。

今の社会は、個人主義が優先されまずは自分がというように自分のことから考えてしまうようになっています。そうなることで、自他が分かれより一層バラバラになっていき一体善というよりは善悪をはっきりと分けるような風潮になっています。

さらにこの自他一体を発展している言葉に「自他共栄」というものがあります。これは講道館柔道の創設者、嘉納治五郎氏の理念です。これは自分だけでなく他人と共に栄えある世の中にしようとするために作り出した理念であり、まず相手を敬い、感謝することで信頼し合い、助け合う心が育まれるとし、人間の歩むべき道であるとしています。

融和協調の大原則であるとも言っていますが、お互いが一緒に発展していくには自分か相手かと区別するのではなくお互いにどう折り合いをつけて協調していくか、そしてその時、自分が相手のことを思いやり、相手も自分を思いやるという共に生きていく中でどう発展させていくかと一緒に考えていく必要があります。

これは私たちが実践する聴福人の理念でもあり、お互いの意見をよく聴きそのうえでどのように皆で折り合いをつけていくかを対話していくことと同じです。誰かがよければ誰かが悪いとならないように、どうやってみんなで折り合いをつけていくかを話し合うのです。

個人主義というのは利己主義になりやすく、それぞれが正論をいい自分を貫けば人類は戦争に発展していきます。お互いに相手を思いやり一緒になって考えてお互いを尊重して折り合いをつけていくことが平和の維持です。

畢竟、平和というものは自他一体のことであり、そのうえで自他共栄を実践していくという社會を維持していこうという生き方を一人ひとりが意識して創造することをいいます。

この価値観の転換ができるとき、はじめて人生が本質的になり真実の姿が観えるように思います。最初は自分があればあるほど手放すことは苦しいですが、相手は自分だったかもしれないと信じることや、相手がもしも自分だったらと思いやることや、相手が生まれ変わった自分かもしれないと感じることで自他が折り重なりはじめ、一緒一体になっていきます。

自分だけがいいではなくどうやったらみんなが善くなるか、そしてみんなの仕合せは自分の仕合せになっているという共同体意識、そういう日々の暮らしを意識レベルで積み重ねていくことで自他共栄に近づいていくように思います。

折り合いをつけられる人は、一円観を持てる人です。禍福円満の和の精神を持つ日本人にだからこそこれからの世界でできることがあります。引き続き、子どもたちのためにもそのお手本となれるように自らを磨き精進していきたいと思います。

 

自分を大切に

人間が仕事をするとき、応援される人と応援されない人がいるように思います。応援されない人は、誰の助けも入りませんから物事が上手く進むこともありません。人は助けてもらうことではじめて仕事ができるようになりますからどのようにして多くの人たちの助けを得る力を持つかは人生においてとても大きな影響があるように思います。

斎藤一人さんはこういう言い方をします。

『仕事で成功するには「人から、応援される」「人から、愛される」という要素がなければ難しいのです。』

他人から応援される人は、いつも他人を応援している人であるとも言えます。この応援の字を分解すると、この「応」という字は、呼びかけや問に答えること、引き受ける、承知すること、求めに応じる、返事をするという意味になります。そして「援」という字は、救いたすける、引き上げる、手を差し入れて助けるという意味になります。

応援する人は、常にこれらのことを欠かさない人でありそういう人だからこそ同様に周囲の人に応援されるのです。応援される人とはつまり誰よりも、周りのために自分を使っていく人であり、いつもみんなの仕合せや歓びのためにと自分を活かしていく利他の人であるともいえます。応援されない人はその逆で、自分のことばかりを考えては周りと比較し、自分が助けてもらうことばかりを求めている利己の人なのでしょう。

本来人間は生まれながらの利他の心、良心があるといいますがそれが曇り隠れるからこそ利己の人になって固執してしまいます。その理由こそ刷り込みであり、比較競争やバラバラにされた歪んだ個人主義、間違った平等や公平などの仕組みが人間をそうさせるように私は思います。自分がいい人間かどうかや応援される資質があるかどうかの前に、その固定概念を取り払うことが先決だと私は思います。

もう一つ、斎藤一人さんがいう「人から愛される人」ということもつながっていると私は思います。自分のことが嫌いで、自分を否定し、こんなはずではないと言い訳や文句ばかり不平不満を自分にぶつけている人は他人からも愛されることはありません。それは自分を自分自身が愛していないからです。自分を愛することができてはじめて、他人はその人も愛することができるようになります。愛は通じ合うものですから、自分が嫌いな人は周りも嫌いになっていきます。

そのためには自分を責める癖をやめること、自分を嫌いになるような嘘はつかないこと、こころを見守り自分を褒めてあげること、つまりは自分を信頼してあげることが第一のように私は思います。

自分との信頼関係が築けない人は、周囲との信頼関係も築くことができません。築けない理由は、他人から助けてもらうことができず手を差し入れてもらうことも拒否しているからです。自分から先に壁をつくり、どうせ自分には無理だと決めつけていたら誰も助けてはくれません。できるできないなどよりも前に、できない自分を愛せているかどうか、丸ごとの自分を受け止めて弱い自分のことも愛せるかどうか、そしてそのうえで誰かの協力を借りられるかどうか、それは相手にも伝わるものです。また周囲にそんな人がいるときの自分の態度が、それは自己責任だろと突き放すのか、他人事にして自分とは関係のないものとするのか、そこに「愛」への姿勢が現れています。

愛するというのは、無条件であることが前提ですから条件付きの刷り込みの愛を払拭していくのが先決です。

応援される人=愛される人ですから、自分を大切にするお手本を子どもたちに遺していきたいものです。引き続き、社業を邁進して子どもたちを応援していきたいと思います。

一緒に考える人

一緒に考える人というのは、当事者意識が強くあります。自分が相手ならと考え、相手が自分ならと考えているうちに自分がまるで相手のことになり相手が自分のことになってしまいます。これを当事者意識といいます。

どこか自分事ではなく、相手の問題だとみている人は当事者になることができません。当事者ではないのだから思いやりも発揮されず、まるで他人事のように自分には関係ないものだと処理したりするものです。他人事になれば巻き込まれたくないや、責任を取りたくない、関係したくないと思い余計に関わらなくなっていきます。自分の問題だと物事を常に受け止める人は、それを自分事にして取り組みますから体験も2倍、経験も2倍、いやそれ以上に他人の人生まで介入して悩んで協力して手助けするのだから偉大な成長があります。さらには、自分を守るのではなく誰かを守ろうとするのだから自分に囚われず大きな目線で大胆に行動することもできます。つまりは自分の想像を超えた成長があるのです。

仕事ができる人や、みんなに必要とされる人はこういう人が多くいつも自分を誰かのために活かしています。その逆は、いつも自分のために誰かを使おうとします。前者はいつも周りには協力者が現れ、後者はいつも独りぼっちです。

信頼関係を築くというのは、言い換えればいつも協力しやすい関係になれるように努力しているということです。それは自己防衛ではなく利他防衛、お互いを思いやり一緒に考え続けてお互いにどうしたらいいかとお互いに誰かのために自分を活かし続けていくということです。また自分の心配をしなくていいようにみんなの安心のために働き、できうる協力を惜しまず自分に起きたことは周りにも一緒に考えてもらえるようにいつもオープンな情報共有を怠らないようにすることです。それは周りに申し訳ないという遠慮をするのではなく、みんなもきっと自分と同様に役に立ちたいと思っているという配慮です。

それに自分の心配や保身から身構えて壁をつくって相談にいくのは相談ではありません。「一緒に考えよう」と自ら心を開き、仲間に意見を委ね、取り組みに手伝ってもらえるように信頼し合っていく、こういう日々の積み重ねの連続が自他一体の境地で生きていくことのように思います。

人間は不思議ですが、自分が助けたように見えて自分が助けられているものですし、相手を助けたいと思って真心で行動したことによって自分が助けられていたということばかりです。

お互いに助け合うことで人間社会が成り立っているとするのなら、私たちの本来の仕事は自分のためにすることではなくすべては周りの人たちのためにあるのです。

同じ目的のために力を合わせるということが、人間の元来もっている協働や協力の徳です。それが発揮されないような環境や、邪魔するような刷り込みを如何に取り払い仕組みにしていくかは社會を創造していく上で大事なことです。

引き続き社業の実体験に基づいた経験を深堀し、そこから得られた智慧によって子どもたちが安心できる社會に一燈をささげていきたいと思います。

一緒に取り組む仕掛け

人間は指示命令を遂行することばかりを繰り返していると次第に指示待ち人間のようになっていくものです。この指示待ちは、指示が来ないと動けないというように初動について自らが考えることができなくなるようなものです。軍隊では命令に逆らわないようにするために、命令そのものは考えず指示された方を考えるように何度も繰り返します。そのうち命令には疑問を感じなくなり、指示された方を考えることが自分の役割になっていきます。命令が本来、何のためにあるのか、その命令はどういう意味なのかを考えれば指示を待つのではなく指示を取りにいくことができます。

その命令は自分の考えることではなく上司の役目なのだと決めつけたり、具体的な指示がないから自分は失敗したなど相手のせいにしたりするのはかなり指示命令の刷り込みが深い証拠かもしれません。

それを打破するのには、考える力をブラッシュアップしていく必要があります。例えば、誰かからの指示を待たなくていいように最初からみんなと一緒に考えるというものもその一つです。もしくは、何のためにやるのかと全体の目的を考え抜きそれを関係者と一緒に考えながら行動を決めることも大切です。それをチームワークという言い方をします。

学校では理由も説明もなく、そういうものだからと動かされてその行動を評価され優劣をつけられていくと次第に従順に物事を遂行する人たちが認められるというようにインプットされてしまいます。周りを意識し、周りの中で如何に失敗しない人でいるか、スマートに結果が出ればできる人や能力の高い人だと思われ評価されます。逆を言えば、「なんで?やどうして?」など聞くことは恥ずかしいとインプットされ、逆らえば罰し、いちいち聞かなくてもすぐにパッと相手の命令を理解し迅速に指示通りかそれ以上に仕上げてきた人を評価します。こうやって考えない人を作り上げていくのが教育でもあります。

かつてのエジソンの話ではないですが、なんでやどうしてなど質問する生徒は馬鹿もの扱いされ教師が教えることに対して疑問を持つものを否定し批判し排除すれば見せしめになり、そうなりたくないという気持ちから人は考えるのをやめてしまうのかもしれません。絶対服従というものもまた、指示を待ち考えるをやめる人間にしていくことで実現しているようにも思います。

そうならないためには、まず指示を待つのをやめることです。指示を待つのをやめるというのは、やらせたりやらされる立場にならないということです。つまりは「一緒に考えていく」ということです。

人間は全てのことを指示だと思って受け取っていたら相手に合わせていくことが最良なのだと思い込みます。しかし相手に合わせることはただ従うだけで本質的に合わせることではありません。本質的に合わせるには、はじめから一緒に取り組んで同じ目的に向かって協力していくことでできるようになります。会社や組織やチームが必要なのもまた、大きな目的に向かって力を合わせなければ実現していかないからです。

力を合わせるにはやらせるやらされる関係ではなく対等に共に考えていくというお互いの主体性が必要です。相手がやるのをただ手伝えばいいという発想は、本質的には従い合わせたのであって手伝ったとはいえません。手伝うためには、自分も相手と同じ土俵で物事を考えて一緒に力を合わせて助け合う必要があります。

助け合う関係を維持していくことが信頼関係ですが、信頼関係を維持するためにはいつも助け合う風土や環境を醸成していく必要があります。それは困っていることを常にさらけ出し合いそれを一緒に考えていたり、必要な支援をお互いにいつもできるようにオープンに問題を語り合ったりできる環境があるということです。

助け合わないで仕事をするという仕組みは、そこには潜在的に評価を気にしている場合があります。自分一人でできるようになりなさいと教え込まれ、他人に迷惑をかけないことがいい人間と刷り込まれれば自分だけできるようになることを目的にしたり、自分のことだけを守ろうと閉鎖的になり一人でなんでも抱え込むようになるものです。

刷り込みというものは、自分が知らないうちに無意識にやられるものですからそれに気づきそれを打破するためには環境を変えて自分自身が洗脳から解き放たれるように何度も場数を踏んで意識を目覚めさせなければなりません。

常識や価値観という執着を見極め、取り払うことこそが智慧です。引き続き、時代の変遷において本来の人間の仕合せが回復できるように様々な仕掛けを見破っていきたいと思います。