重要な力(重力という智慧)

昨日は妙見高菜を漬物にするために、収穫したものを朝から天日干しにして水洗いをしヘタを取り除き、自然塩を用いて仮漬けするところまで行いました。今朝がた確認したら無事に水が上がり、一夜漬けの状態になっていました。このまま数日寝かしていよいよ木樽に本漬けに入ります。

漬物の神秘は、この「漬ける」という行為に由ります。もう7年目に入りますが、年々その神秘的な力に驚くばかりです。この漬物は地球でしか創ることがができず、宇宙空間では決して創ることができません。もっとも理由は地球の重力が必要だからです。この重力は目には観えませんが、ほとんどのことを私の替わりに行っています。その力は太陽や水や空気に匹敵するほど私たちの生命に深くかかわっています。

この重力は、「地球上の物体を地球に引きつけようとする力。厳密には、地球との間に働く万有引力と、地球の自転による遠心力との合力。」であるとコトバンクで定義されています。つまり「重力=引力+遠心力」のことであり、地球が持つ「重さ」そのものであるとも言えます。この重さによって私たちは筋肉をつけたりバランスを保ったりします。もしも重力がなければ動くことさえ次第にできなくなり、さらにはバランスを保てず立つことすらできません。

それだけ重要な力だからこそ「重力」というと私は定義しています。この重力の存在を人々が日ごろからどれだけ真剣に考えているかは、まるで空気と同じように当たり前すぎて見向きもされることがないのですが実際は大切な地球に生きる智慧の一つです。

先祖たちはこの智慧に感動しその力を活かし、その力を借りて様々なものづくりに活かしていきました。この世にあるすべての力を発見し、発明して如何に活かすか、その観点で暮らしを創造してきたからこそ今の子孫である私たちはこの世に存在できているとも言えます。

先人の智慧を学ぶことは、地球の智慧を学ぶことであり、その活かし方を通して生き方を学ぶことです。私は単に高菜漬けをつくっているのではなく、高菜から妙見の智慧を学んでいるのです。

人が何かをするとき、その目的が何かを知らなければ本当の意味でそれが何をしているのかは誰にもわかりません。智慧を学ぶ人は、知識で知りえるような教科書の文字を学ぶのではなく実地実行によって本物の自然の叡智を学ぶことが大切です。

引き続き、智慧を学び直し子どもたちに智慧の伝承と伝道を続けていきたいと思います。

無ではない

昨日は、福岡にある自然農の畑で無事に今年の分の妙見高菜が収穫することができました。大きく葉をつけて成長して、イキイキとした高菜の姿を観ていたら感謝の心で満たされました。

種を蒔いてからいつものように新芽が食べられもうダメかと思うほどに枯らされそうでしたがそこから追加で種を蒔き、さらには枯草を丁寧にかけ、何度も足を運び応援の声をかけ、青虫を手で一つ一つ取り除いてきたことを思い出します。また生き残った高菜を別の場所に移植するのは仲間たちにも支援してもらいました。みんなで育つといいねと最善を盡して祈ったことに応えてくれたようにも思います。

こうやって妙見高菜とのめぐりをじっくりと振り返っていると様々な苦労が報われる瞬間が訪れます。苦労こそ仕合せの種であり、苦労こそが感謝の源泉であることを感じます。手で触り無事に成長している姿を観ては育ってくれたこと、よくぞ自然の中でしっかりと逞しく成長したことを誇りに思うのです。この気持ち、ミマモルということは信じることを優先するということです。信じるというのは、自然を丸ごと信じ、どんな結果になっても最善を盡しては受け容れてそこから学び仕合せに転じ続けていくということです。

活きた学問は常に人の仕合せの道なのです。

また年々歳月繰り替えして実践してきた畑が、しっかりとその育つ環境を醸成してくれているのを感じます。他の野菜や生き物たちもみんな活き活きと育ち、無肥料無農薬で数十年経った今も、他の野菜に見劣りなくとても元気に大きく成長してくれます。見た目の大きさだけではなく、内容もびっしりと詰まったものは一朝一夕にはできません。このように人間もまた、会社もまた同様に、自然を信じ続けていくことでその人も育ち、環境も醸成されていきます。

私が会社経営をはじめて17年目に入りますが、それぞれが自分の居場所を見つけて育ってくれているのを観ると安心します。そして会社という畑を耕し続けて環境が整ってきているのを実感し、その畑で豊かに楽しく農や暮らしを実践できる歓びを味わっています。

「何のためにこれをやるのか」というのがはっきりしている人は、ブレることがありません。世間の常識や、世間の風潮、流行などはあまり影響もなく、初心を貫くことだけに真摯に誠実に生き切っていきます。その中で、様々なご縁があり一期一会の今があり、来たものを選ばずにすべて天の声であると受け取って無為自然に感応する好奇心を頼りに生きていきます。

しかしその自分は無ではない。

今までの長い歴史の中で活かされている自分、自然の中にあって活かされる自分、様々なご縁によって導かれている自分と同居しているのです。

禅語で私が好きな言葉に「無一物中無尽蔵」という言葉があります。私の解釈ですが同様の意味に「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉もありますが、自分に執着をせず初心に生きていくことが自分の魂の声に従うということでしょう。

初心に生きることができにくいこの時代、しかし生き方は自分で決めることができる。子どもたちにもそのお手本を一つでも譲っていけるように引き続き、信念に従い実地実行にニコニコ顔で命懸けで取り組んでいきたいと思います。

 

物語を磨く

人生には物語があります。どのような物語を創って生きるのかはその人その人の「思い」が決めるとも言えます。私たちは物語に生き、物語を共にすることでその「大切な思いが出て」きます。これを「思い出」といいます。

過去に誰かと一緒に生きた記憶は、それぞれの「思い」が折り重なり一つの「思い出」になってお互いの心に宿ります。一つの思いが多くの人たちの思いと繋がってますます「思い」は温められ育っていきます。

物語とはその思いの集大成です。

この物語は終わりはなく、いつまでも生き続けていきます。自分の生きている間は、その物語を創り続けることができますがもし死んでしまったとしてもその物語は終わりません。それはその物語と共に生きた人たちがその物語の続きを創り続けてくれるからです。

今の私もかつての人たちの物語の縁線上にいてその物語の続きを結び続けている存在でもあります。たとえ人は死んで肉体が失われても魂は生き続けるといいます。この魂という字を「物語」に書き換えるとわかるように、今を生きる私たちは死んでいった人たちの物語の続きを記し続ける使命があるということです。

宇宙も同様に、目には観えませんがその物語を記し続けている存在です。

二度とない人生の中で、どのような物語を描くのかはそのあなたの「思い」です。

「思い」が具現化されてカタチになっていくとき、人々はその物語を目にすることができます。同時に、その物語の背景にある人々の遺志を受け取ることができます。伝統を継承することも、伝承を守り続けることもまた、故人のいのちと一緒に生き続けるということかもしれません。

終わることがない永遠の物語と、永久の今。

子どもたちのためにも、常識に囚われず世界共通の人類のテーマに向き合いこの今の一期一会の物語を磨き続けていきたいと思います。

めぐり

昨年から盆栽に取り組みはじめましたが一年間を通しで見守っていると、四季におけるその樹木の生態が少しずつ深まってきます。庭の剪定も同じく、年間を通して実践しているとその翌年にはまた少し生態が深まりこちらがどのような手を入れればいいかが身に着いてくるものです。

この「通しでやる」という智慧は、学びを丁寧に取り組んでいく方法でありこれはどの仕事であっても暮らしであってもこれを繰り返すことで改善し学びを深めていくものです。特に自然をお手本に自然を先生にして学んでいたら、先生の教えに従って自分自身の方を改善していくしかありません。

自然農などもそうですが、年々少しずつ自然の方が変わっていきますからよく観察してみてはじめて「めぐり」を実感することができるからです。

この「めぐり」とは、循環のことでよく使われる言葉は「めぐり会い」や「堂々めぐり」などでも用いられます。廻り巡って私に会いに来たというように、循環していくかでそのご縁が私のところにやってきたという使い方をします。

この「めぐり」は、自然の法理であり宇宙の道理でもあります。何かをすれば何かが発生し、その原因によって結果が出てくる。そのご縁のつながりがどのように結ばれて今に至るか、それはありとあらゆるものが有機的、また無機的に循環していることを意味します。

私たちが「通しで学ぶ」のは、あれは一体何だったのかと自覚することであり、これがこの先どうなっていくのかを察知していくためでもあります。偉大な視点で物事を観れば、ご縁の尊さに感謝が湧いてくるものです。

「めぐり」を体験できる仕合せは、自分が蒔いた種を温め育つ歓びでもあります。

めぐりを通して学び続けられ、学び直せる場があることが私たちを真に成長させてくれるように思います。人生の四季のめぐりも、時代のめぐりも、いのちのめぐりも、かけがえのないものとしてこの今を噛み締めながら歩んでいきたいと思います。

今を踏みしめる

人間の一生はとても儚いものです。

また人間には運命があり、時が過ぎていくからこそ定めにも出会います。過ぎていくことが変化であり、変化をするからこそ同じ日はありませんが失ってみてはじめてその尊さに気づくものです。

時が前に進むということは、私たちは寿命を使い切っているともいえます。

時間は有限ではなく、いつかこの世を去るときが来ますから今をどのように生きて悔いのない日々を過ごすかは今を生きるものたちの命題です。

ある人は自然災害で亡くなり、またある人は病気で亡くなり、またある人は事故で亡くなる人もいる。遺された人たちは、何が供養であるかを思うときその人の遺志を継いだり、その人の分まで今を真摯に生きていくしかできないのかもしれません。

自然界では、当たり前に生き死にがあることは頭では理解できても親しい人や長年一緒に苦楽を共にした人がいなくなるのは辛く苦しく、そして寂しいものです。

私の座右は、「一期一会」ですがこれは若いころ「メメント・モリ」(死を思へ)というという言葉に出会い二度とないからこそ今を大事に生き切っていこうと覚悟して決めたのを覚えています。

どんな時ももう二度と戻ってこない時間なのだと、この「いのち」をもったいなく全身全霊で使い切り、生き切っていこうとしたのです。

孔子に「逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎かず」とあります。

またとない道、二度とない道、戻ることがない道だと道を慈しみ、道を尊び、今をを踏みしめて歩みを進めていきたいと思います。

自分から

人が仕事をするのに「やらされ感」というものがあります。やりたくないことを誰から言われて仕方なくやらないといけない時や、義務感からしなければならない状態の時、また自分の仕事があるのに他の誰かの仕事を手伝わないといけない時などやらされ感というものを感じるものです。

やらされ感がなぜ出てくるのかを深めてみると、その根底には自分にとっての損得や担当制のように自分がやりたいこととは別のものに取り組まないといけないことへの不平や不満から出てくるものです。これは被害者意識もそうですが、比較や評価、自分を認めてもらえていないことへの不満から余計に担当意識というものが強くなるように思います。

担当意識といっても、例えば会社であれば雇われている意識と自分が会社を創業している意識とでは言葉が同じでもその意味が異なります。前者は、雇われている中での自分の義務感からの担当という意識であるのに対し、後者は自分も会社を創っている担当なのだという使命感を帯びた担当意識になります。

つまり担当がいいか悪いかではなく、どの意識で取り組むかで担当の意味が異なってくるのです。

やらされ感というものは、そもそも何のために自分が仕事をして自分にしかできないことが何かを自覚していないことから出てくるものです。本来の会社の目的を知り、自分の初心を忘れず、全身全霊で粘り強く取り組んでいけば自分にしかできない仕事が増えていきます。

そういう人は周囲から信頼されていきます。信頼されるから遣り甲斐を感じより周りから仕事が集まり人気が出てきます。忙しくなりますが、その分、多くの人たちへお役立ちできる実感と信頼関係が増えていくことによる支援が多くの人たちから入ってきます。その逆にやらされ感でやっている人は信頼できないから人気がなくなり仕事が減り暇になります。暇になっている人は、与えられた担当の仕事をやることだけに集中していますから仕事の質が下がっていきます。本来は与えられた仕事をすることが仕事ではなく、自分から仕事をすることで信頼は積み重なっていきます。

与えられたことを言われた通りにやるだけでは信頼は増さず、言われたこと以上のことに取り組んだ時に人はその人を信頼します。つまりは「自分から」取り組んだ分だけ信頼は増えていくということです。

当たり前のことですが、人は仕方なくやっている人や嫌々ながらやっている人に頼もうとはしなくなります。人が頼み信じるためには、頼む人が「自分から」取り組んでくれる人かどうかを見定めているのです。それに言われたことしかしないことよりも、「自分から」取り組んでいく方が仕事は楽しくなっていきます。自分も楽しくなるだけでなく信頼されるのだから本来「自分から」取り組むことは一石二鳥なのです。

どんな大きな目的もそして会社経営も、皆で力を合わせて「協働」してはじめて成り立ちます。だからこそこの「自分から」という主体性は何よりもその協働の信頼関係を築き自ら心地よく楽しく仕事をするためのなくてはならない初心者の基本なのです。

つまり人生の中でどれだけの人に信頼される人になっていくかがその生き方の明暗を決めるということかもしれません。皆から信頼される人は、自分に正直で誠実、そして素直で真剣な人です。

環境によって歪められた主体性は、初心や理念、その他の風土の醸成によって改善できます。子どもの憧れる大人になるために、生き方の癖や習慣を直す仕組みに取り組んでいきたいと思います。

 

近未来の準備

暮らしの甦生に取り組むことで、次第に先人の智慧に触れる機会が増えています。先人たちの生み出した道具やその仕組みはどれもまさに「智慧」と呼べるものばかりで、教えなくても学べ、語られなくても語るかのように触れているだけで自動的に習得していくものばかりです。

言い換えるのなら、暮らしの古道具たちはすべて私たち子どもの「先生」であるといっても過言ではありません。古道具には知恵があり、暮らしには仕組みがある。これが日本民族の永続する鍵であることは伝統を学べば誰でも知りえるところではないかと私は思います。

私たちは言葉を用いて様々なことを学びますが、まだ言葉をあまり知らない幼児期は感覚によってそれを習得していくものです。感覚とは、五感のことで触る、聴く、見る、嗅ぐ、味わうなどの人間の持っている感性によって得て学ぶものです。

この時の学びは理屈で学ぶのではなく、そのもののあるがままの全体を直観的に掴んでいきます。厚い、重い、渋い、温いなど、その感覚によってそのものの「いのち」や、そのものの本来の姿の雰囲気、自然のカタチなどを受観していきます。

子どもたちは今の私たちが自然から学ぶように、「暮らしの知恵」から生き方や考え方、大切なメッセージを受け取っていくのです。先祖たちはそういう直観的に学ぶ智慧の重要性を自覚していたからこそ先人からの暮らしを途絶えさせずに維持していたのではないかと私は思います。

もしも子どもの頃にその智慧や仕組みに触れたなら、先人の初心が伝承されるはずです。そうやって連綿と続いてきた精神や文化を繋ぎつづけることが今を生きる大人たちの大切な使命です。

引き続き、風土を深めつつカグヤがこれから取り組むであろう近未来の新しい道徳経済一致のビジネスに向けての準備を着々と進めていきたいと思います。

自然か不自然か

物事の道理を判断していく上で、自然か不自然かという判断基準があります。何が自然で何が不自然かと見極めていけば、不自然なことをやめていくのなら自浄作用や治癒が働き自然に回帰していきます。

しかしこの自然が分からなければ、いつまでも不自然なことを続けてはより自然から遠ざかっていき元の状態すら忘れるほどにおかしな判断ばかりをしてしまうものです。

私たちは本来自然物の一つですから、自然から離れすぎれば自然ではない状態に次第に疲れてしまいます。私たちが現代の社会や都市の中で疲れるのもまた、不自然な環境で不自然を続けているからに他なりません。不自然な中でも自然を保てる人と、そうではない人の間では心身に大きな影響が出るだけではなく道理から外れる分、真実の生活からも遠ざかっていくかもしれません。

自然を知るということや自然を学ぶということは、道理を学ぶことであり天理や法理を知るということでもあります。自然を観察して自然と一体になって暮らしていくことで、道理に沿った生き方を学び、真理に近づき離れない判断基準を醸成していくことができます。

自然は決して知識で学ぶものではなく、自然から学ぶものです。それは物質的には火や水、光や闇からはじまり、文化や風土に至ります。そして心や精神を学び、恩や徳などに至ります。そうやって自然とは一体何かということを、深めていく中で人は自然から乖離しながらも自然を内包し続ける矛盾を受け容れることができるように思います。

自然を学ぶということは、真理や本質を学ぶということです。自然から学び直すのは自分自身から学び直すことであり、学問の基本姿勢を身に着けるということです。自分の心の声が素直に聴ける人は自然を学んでいるとも言えます。そのうえでエゴを従えつつ心を優先できる真心の人は自然体の人だとも言えます。

自然体になるということが人間本来の大目標の一つであることは、改めて歴史や世界を見渡すと自明の理です。

引き続き、子どもたちに自然あるがままの生き方を伝承できるように自然から心の本来を学びつつ深め続けていきたいと思います。

ゆるし

今年は「ゆるし」をテーマに、様々なことを深めていますがとても奥深く発見することばかりです。よく考えてみればみるほど、私たちはゆるされている存在として今があることに気づきます。周囲に助けてもらわなければ生きてはいけない存在だからこそ自分がゆるされていることを感じるからです。

例えば、私たちは重力という恩恵を受けています。重力がなければ立ったり座ったり、運動することができません。そして空気という恩恵もあります。空気がなければ呼吸できませんから生きていくこともできません。そして太陽に水の恩恵、あらゆる恩恵を受けて私たちはゆるされてこの世に存在することができているのです。

このゆるされて存在するというのは、一人では生きていけないということでもあります。ここでのゆるすは、相対的に許す許さないで使われるときのゆるすではありません。本来のゆるすは、「恕す」ですから思いやりによって活かされているという意味です。

思いやりの中で存在しているのだから、少し損をして生きるのは当たり前のことだとも言えます。それを実践していくことを古語には陰徳とも言います。陰徳は、活かされていることを実感し活かされていることへの感謝に生きることを言うのかもしれません。

私たちはどうしても自分勝手にするあまり、自分がゆるされてもいいと周囲に押し付けようとするものです。しかし謙虚に自分がゆるされていることを感じていれば、自ずから与えてもらっている偉大な恩恵を実感し感謝の気持ちでゆるされていることに気づけるようにも思います。

当たり前に与えていただいている恩恵こそが「ゆるし」そのものの存在であり、謙虚にその恩恵に感謝するとき自分がいつも見守られ非常に多くのものに活かされ助けられていることを思うとき「ゆるされている」と感じるのです。

私の好きな言葉に「信じて聴く、ゆるされて聴く」という言葉があります。これは親鸞上人がノートのメモに書き残したものを偶然見つけたところの文章です。私はこの文章がとても好きで、聴福人の根底の理念にはいつもこの言葉が座右として存在しています。

引き続きゆるしを深めながら、子どもたちの今と向き合っていきたいと思います。

ご機嫌の価値

自分の持っている力を引き出すために笑顔を維持していくことはとても大切なことであろうと思います。楽しくご機嫌にニコニコと明るく日々を過ごしていれば、運命も好転していくように思います。それは考え方が前向きになり、周囲も楽観的に接してくれるようになるからです。

よくスポーツ選手が、自分のパフォーマンスをいつでも発揮するために意識して笑顔をつくっているのを観る機会があります。笑顔は力を引き出すためのもっとも効果的な方法です。アンチエイジング医学でも、心の健康を維持する方法としてご機嫌に生きることがとても効果があると言われています。

他にも機嫌よく過ごしていればストレスの軽減だけでなく、免疫力が向上し病気になりにくくなり、美容にも効果があり、自分の魅力が磨かれ、脳の血液量も向上し、自律神経のバランスも整え、人間関係がよくなり、職場の雰囲気も上がり、仕合せが増えていくといいます。

古来から古語に「笑う門には福来る」というものもあります。この「笑い」には、偉大な効果があり、いつも自分の機嫌を好くしていく人の実践に「笑い」があることは自明の理です。

この笑う門の「門」は家や家族を顕します。故事ことわざ辞典には「いつも笑い声が溢れる家には、自然に幸運が訪れる。明るく朗らかにいれば幸せがやってくるという意味。また、悲しいこと・苦しいことがあっても、希望を失わずにいれば幸せがやって来るということ。」と書かれています。

家の中に明るい人や機嫌がいい人がいたら、幸福な家庭が築けるということでしょう。家が明るいというのは、それだけで福であるという意味なのでしょう。

もともとこの機嫌という語源の由来は「譏嫌」と書き、譏(そし)り・嫌(きら)うという意味で、他人の「譏嫌」を受けないようにする戒律からきているといいます。『大般涅槃経』聖行品第七之一に「息世譏嫌戒(世の譏嫌を息める戒)」という戒律があり、「罪にならない事はもちろん、世間の人たちから譏り嫌われない行動をとる」ために決められた戒律の一つで、「人が不愉快と思うような言動は慎みなさい」という意味だといいます。ご機嫌いかがですかなど普段から使っていましたがこれも仏教からの言葉だということをはじめて知りました。知らず知らずに文化を取り入れて日常の言葉になっているのは先祖がその価値を知って実践してきたからもしれません。

心機一転などという言葉もありますから、常に機嫌次第、機嫌の転じ方次第でいくらでも福に転じていくことができるというのもまた面白いものです。

自分の機嫌をご機嫌にして愉快痛快に笑いながら人生を歩んでいくことは幸福の種蒔きであり未来への希望になります。子どもたちのために楽しく豊かな仕事にしていきたいと思います。