伝統美の面白さ

昨日は新潟県十日町で古民家再生に取り組んでいるカールベンクス氏とお会いするご縁がありました。25年前にこの土地に移住してから現在までに50棟ほどの古民家を再生しており、カールベンクス氏が住む村には今ではたくさんの若い方々が同様に移住してきて奇跡の村と呼ばれています。

「日本の木造建築は世界一である」と語られこのような文化が失われていくのは何よりも残念であるといい、職人さんにとっても子どもたちにとっても絶やしてはいけないと仰られておられました。

本来は日本人の子孫である私たちが語るはずであろう言葉を、ドイツ人の方から直に聴くと目が覚める気持ちになります。

例えば、「日本人がドイツにいけばその土地に古い町並みや懐かしい風景を感じにいくのになぜ日本人は自分の国のそういうところに興味がないのか」という言葉であったり、「ドイツには昔から古い建物は壊してはいけないという法律がある、その法律によって子どもの頃から古民家は貴重なものであるという認識をみんな持っている」ということなどまさに何が本当の価値なのかを気づかせてもらう言葉ばかりです。

現代建築の日本の住宅はプレカット方式といって機械によって加工しやすいため外材を用い木材を人間の手を使わずにカットしていきます。大工さんは昔ながらの手仕事はほとんど必要なく、まるでプラモデルを組み立てるようにトタンや合板で効率よく作業していきます。このような仕事をしているうちに日本の大工さんの技術も心も伝統も失われていくことを嘆いておられました。世界一の木造建築を建てる心と技術と伝統を自分たちから捨てていき、古いものを壊して便利な新しいものばかりを建てようとするのは設計士たちの欲がやることであるとし「本来、家は財宝なのだからいつまでも大切にしなければならない」という言葉に徳の人柄と思いやりを感じました。

カールベンクス氏の設計された建物を具体的に見学すると、ドイツ人の感性で自由に古い日本の材料を用いて古民家を再生しておられました。現代人が住みやすいように断熱を工夫し、断熱に必要な窓や暖炉などはドイツから輸入しておられました。新築を建てるよりも古いものを用いた方が本来は費用がかからないといい、創意工夫をして扉を本棚にしたり、そこにもともとあった古材料や道具を別のものに見立てて家の改修やデザインに活用されていました。

家全体が昔からある日本の古い懐かしいものを活かしながらデザイン全体を楽しんでいるようにも観え、まるで「ドイツの伝統が日本に馴染んでいるような感覚」に新鮮さを感じました。一言でいえばそこは「ドイツ人の美意識が創造する日本の風土を取り入れた古民家」でした。

お互いの善いところを引き出し、持ち味を活かし新しい美意識を創造するというのは芸術そのものです。今まで設計やデザインというものを知りませんでしたが、カールベンクス氏の生き方を拝見することによって「伝統美の面白さ」を学び直した気がします。

未来の子どもたちの心に、大切な日本の心が遺せるように自由に伝統美の表現を楽しみ遺っている文化を上手に活かし和合させ復古起新していきたいと思います。

ありがとうございました。

 

価値と仕合せ

今の時代は物質的なもので幸福を手に入れることがすべてのようにテレビや新聞では報道されることがあります。現に人間には欲望も野心もありますから誰にしろ成功を求めて幸福を手に入れたいと願うものです。当人の野心が欲望が強いければ強いほどそれを欲しがり仕合せとはかけ離れた生活をしてしまうものです。自分に能力さえあればと能力を求めすぎるのも、他にも地位も名誉も権力もまた原点は幸福になりたいと思う野心や欲望から発しているものです。

そもそも何かの価値というものはその時代の「価値観」が決めます。その時代の価値観が何をもっとも幸福だと定義するか、その価値基準によって大多数の人はその時代の幸福を手に入れようとします。現代では成功者になることやお金持ちになること、有名になることや権力を持つことが価値があることだと信じ込まされているのです。

しかしきっと価値があると信じてそれを一度掴んでみないとわからないからと、本当の自分の価値観を捨ててでもそれを手に入れろうとすれば、その野心や欲望に呑まれ不平不満ばかりを募らせ世間の定義する価値の幸福を所有しているかどうかが仕合せだと勘違いしてしまうのです。

しかしふと、本当の仕合せとは何かと静かに思うときそれは決して能力や成果や成功などといった結果さえ手には入れればいいというものではないことに気づきます。その経過の中でどのような体験をするか、どのような仲間ができたか、どのような思い出があったかで人間は仕合せを感じます。つまりは経過、その物語をどのように創造したか、物語の中でどのように自分を磨けたかが仕合せの元になっていることに気づくのです。

昨年から暮らしの甦生に取り組む中で、人間の仕合せの意味が深まってきていますが本当の仕合せはどこか遠くにあるものではない身近な足元にあることに気づくのです。

禅語に「明珠掌に在り」という言葉があります。この「明珠」とは宝石のことを言います。「掌に在り」は「自分の手のひらの中にある」という意味です。つまり人間は仕合せを見失いがちだが、一番仕合せなものはもっとも身近なところにあると教えているのです。

例えば、仕事を道楽化することであったり誰かのために真心を盡すことであったり魂を磨いて人徳や人格を高めることだったり、つまりは努力できる仕合せというものがあります。努力が楽しいということほど仕合せなことはなく、自分のやっていることを天職だと受け容れ、その天命に従い使命を全うする仕合せはかけがえないのない価値です。

価値というものは、値する対価とも言いますがいのちを懸けるだけの対価に生きることができる歓びでもあります。人は遠くを見るばかりで本来の足元の幸福を感じなくなるのは、いのちから遠ざかるからかもしれません。もっと自分のいのちに向き合い、自分のいのちを何に使うか、自分のいのちをどう活かすか、いのちと出会う仕合せに目覚める方が本当の自分の価値に目覚めるように私は思います。

今の自分のやっていることはいのちを懸ける価値がある。

そう信じて生きている人は、世間の価値観はなんのそので自分の価値に生き切っていくものです。宝は常に自分の中にこそあると信じて、自分の天命に従い子ども心を見守りながら歩んでいきたいと思います。

 

心を磨く人

先日、久しぶりに那覇にある沖縄教育出版社を訪問するご縁がありました。社内はとても落ち着いていて居心地の善い空気が流れていました。「一人ひとりが輝く経営」を理念に掲げ、それぞれが心を寄せながら個性を発揮して働く姿に平和を感じます。

沖縄に行くと特に「平和」への祈りを感じますが、会社を経営しながら自分たちの生き方を磨き平和に貢献するために様々な実践に取り組む社風には学ばせていただくことばかりです。

特に印象に残ったのは、社内で最も高齢(75歳)で今も最前線でご活躍の方の御話しをお聴きしたことでした。その方は、以前会社で発刊されている新聞で紹介されており知っていたのですがお話を聴いて徳の高さを実感しました。

人は学ぶ意欲があることは素直さの顕れでもあります。素直であるからこそ学びたいと思うのであり、一生涯学びたいという心をもっている人は働く仕合せを感じている人だと感じます。

人間は周りからどう思われるかや評価されるかを基準にして選択肢ばかりを求めていたら今に生きることができません。今に生きることこそ素直な姿であり、今与えられていることに一所懸命に学んでいれば自ずから自分に与えられた使命を感じて仕合せを得られるからです。

心の健康というものは、生き方を直すことであり生き方を正すことです。正直ともいいますが、自他に正直に心を開いて素直に学んでいる人は謙虚であり成長を已めません。それは年齢の問題ではなく、生き方の問題だということの証明なのです。

私たちの沖縄に来た理由とそのお仕事の内容の話をすると、「沖縄を創りに来てくださったのですね、ありがとうございます」と御礼を仰られました。その視点や観点にも徳を感じますが、それよりも真摯に日々の実践に取り組んでおられる姿勢そのものを拝見し私自身まだまだ精進しなければと恥ずかしい思いになりました。

何かをやったからや何かをやるからいいのではなく、誰が見ていようが見ていまいが自分の本分に正直取り組んでいく、心を磨いていくその生き方そのものが美しいと思うからです。

沖縄教育出版社には心を磨く風土文化が育っており、存在自体に有難さを感じました。私たちの会社は魂を磨く風土文化ですが、心と魂を切磋琢磨させていただけるご縁に感謝し、私たちも迷わずに子ども第一義の理念を省みて子どもたちの未来のために仲間と一緒に一期一会の作品を育てていきたいと思います。

ありがとうございました。

縄の智慧

むかしから歴史を紐解けば社會というものはみんなで創るものであるという感覚がありました。自分だけで生きることはできないのだから、自分の居場所はみんなで創っていくという具合に社會をみんなで育てていきました。

現代は、社會だけではなく小さな組織でさえ自分さえよければいいと自分のことを主張してはかえって社會を崩して希薄している風潮もあります。自分が所属するこの社會を善くしていきたい、もっとみんなが居心地が善い環境になるように自分を活かしていきたいと思う、人間として当たり前の仕合せが忙しさと共に消失してきています。

人類は太古のむかしより社會を形成してみんなでお互いを見守り合いながらお互いの一生を充実させていきました。そして人類は助け合い思いやることで自然環境の中で今まで生き延びてきて、一緒に協働することで考えられないような大きな力を発揮してきました。それができたのは、みんなの居場所を用意し居心地が善い場をみんなで育ててそれが永続するように見守る「結び」の智慧を使ってきたからです。

現代はその結びつきが次第に解かれて、それぞれがバラバラになってきているように思います。歪んだ個人主義は人々を孤立させ、孤独にします。その穴を埋めるのをお金で行うことでより断裂は進んでいきます。

例えば「縄」を観てすぐにわかると思いますが、小さな糸も多くの糸と結びつき絡まり合いそして強く大きくしなやかな切れることのない縄になっていきます。出雲大社にあるしめ縄のように私たちは古来からその縄を結び続けて大切にしてきた民族です。

この「縄」は、「社會」のことを示すように私は思います。

縄をどのように結んでいくか、その結びつきや結び方にこそ民族の生き方がありお互いに見守り合い、心を寄せ合い、愛を与え合い、一緒に協働作業をしていくことによってその「縄=社會」を創造していくのです。

お米を育てるように子どもを育てること、しめ縄を結び神様に奉げ奉るように暮らしていくこと、古来から続いていく縄が切れてしまわないようにその時代時代の人々が子どもを見守っていく社會を育ててきたのです。

そういう意味では今の時代はかつてないほどに、人々の結びつきが失われてきている厳しい時代です。だからこそ私たちが取り組む「見守る」ということは、その結び直しをする大切な実践になるのです。

「縄」こそ、人類の智慧であるとし引き続き子どもの社會を見守る大人が増やしていけるように実践を積み重ねていきたいと思います。

農的生き方

昨日、自然農の畑にたくさんの野菜の苗を植えました。最初の土の手入れとその後の草の手入れ、あとはじっと育つのを見守るだけです。そのものが育つかどうかは野菜ですが育ててくれるのは自然ですから環境を整えるくらいしかできませんがそれが自然の力を活かす智慧になります。

農業は最初は技術から入り、知識などでどのように育つかは勉強できますが実際に育ててみるとその季節季節の日照りや雨の状況、気温によって発生する虫や病気もあることから同じことをしていても同じように育つことはありません。自分自身の観察力を磨き、どのような環境に適したものかを見極めていく努力が必要です。

思い返してみると、今では当たり前に続けている畑仕事もむかしは何もわからないままに育ててみるだけの繰り返しでした。一年のめぐりを通して、そのものがどのように育つのか、そして畑がどのような変化をしていくのか、またタイミングがどうなっているのかなどそれぞれに自分の接し方を学びます。

育てやすい野菜もあれば、育ちにくい野菜もある、素直になってこちらが自然から謙虚に学び直していかなければそれぞれの個性を活かすことができません。人間のもともと持っている調和力や和合のチカラはこの農にこそ原点があるように私は思います。

農を原点にすることを帰農とも言いますが、自分が食べるものを自分で育てる。育てる中で自分もその循環の一部になっていく。人間はその中で調和を創造することができる能力を持っているとも言えます。経営も社會も創造するのは人間ですが、その人間がどのように循環を司る力を持っているかが未来の環境を変えるとも言えます。

かつて、自然世を説いた安藤昌益という思想家がいます。この人の言葉にこういうものがあります。

「春夏秋冬、季節の移り変わりに応じて、人々は田畑を耕し、草を刈り、収穫し、次の春に備え、何の矛盾も破綻も不足もなく、始めも終わりもなく、無限に循環しながら、平和に、道徳的に生き存える社会。」

それを万人直耕ともいい、人々がみんな帰農していけば自ずから循環する自然の社會を創造できるといいます。しかしこれは単にみんな農民になれという意味ではありません。これは農的な生き方を大切にしながら、内省し文明の善いところも活かしながらむかしからある伝統的な暮らしを大切に生きていくことを言っているように私は思います。

今、私が実践しているのはこの自然真営道の一つでもあるように思います。

むかしから今に続く暮らしを伝承しながらも、新しい時代の経済を創造するのは私の思う農的生き方なのです。引き続き、農的生き方を磨きながら子ども第一義の理念を深くし弘めて厚く社會に影響を与えられるように精進していきたいと思います。

 

種と土の邂逅~つなぐチカラ~

私たちが今感じたり味わったりする文化や伝統は古来からずっと存在しているものです。その存在しているものを引き出し繋ぐことができれば、現代にもその初心を多くの人々と分かち合いみんなで引き継いでいくことができるように思います。

時と自然淘汰のめぐりによってその本体は次第に風化しその姿カタチは必ず失われてまた甦生を繰り返すのは循環のめぐりであり宇宙普遍の摂理です。目には観えなくなっていても確かに存在したものは人々の心に魂の記憶として伝承されており、その魂を思い出す人たちによって常に失われずに甦生していくのが人類の叡智と伝統文化の本質でもあります。

伝統には「古くて新しい」という言葉があります。

これは文化と文明の間の甦生を意味し、本来あった本質を今の時代につなぎ顕現されるといってもいいかもしれません。古代と現代をつなぐ、人と人の心をつなぐ、目に見えるものと目に観えないものをつなぐ、それはこの「言葉」(言霊)のチカラのように和合したものをはっきりと一つに融和し伝えることもまたつなぐチカラの役割です。

そのつなぐ方法や智慧は、代々その土地の風土や文化によって異なってきます。太古のむかしから私たちの国は「言葉の霊力が幸福をもたらす国」であると語られ、いのりの言葉によって永遠の今に言霊を奉げ祀ってきた民族であるともいえます。

それが発展し音楽や芸能とむすびつき、時には神楽になり、時には歌になり絵になり、それが心を顕し神を奉る工夫が発展してきたのです。

しかし時は無常ですから、その本質も広くなればなるほどに薄まっていき、増えれば増えるほどに擦れていき、その本質がたくさんの言葉によって隠れていくのです。

今の時代は情報化社会ですからより一層、スピードが増し、情報が氾濫する中で、私たちは大切な本質を敢えて選ばなければならなくなっているとも言えます。本来の姿、古代からある方向を見失わずに確かな足取りで前進していく必要があるのです。

そのために「つなぐ」ことは、とても大切な使命を帯びた志事です。

一人でも多くの人が、初心に目覚めそれぞれの方法で温故知新し、伝承をしていくことが未来の子どもたちのために確かな種を蒔いて遺していくことのように思います。自然は種があればまた根を張り成長していきます。一粒万倍とあるように、種さえ遺してそれを蒔いてまた育ててくれる人がいるのならその種は未来を自然に明るくしていくのです。

そのためにも「土」をつなぐことが大切です。土の上であれば種は根を張り太古の養分を受け取り成長していきます。しかし人間が身勝手な道路を舗装し、アスファルトで土の上を塗り固めていくことで土が隠れてしまっていますがそのアスファルトが取り払われれば元の土が出てきて地球は甦生します。種がちゃんと根を張れるようにしていく必要があるのです。自然のチカラを使って自然に回帰する、それが私が教育や保育の志事に私がいのちを懸けるのもその一点に集中しているかであり、子どもたちの未来のためにもその初心をつなぎたいのです。

今回の一期一会の沖縄での出会いに深く感謝しています、このご縁によって魂が揺さぶられ多くのインスピレーションをいただきました。引き続き種と土をつないでいきたいと思います。

能力の本質2~役に立てること~

「人はどういうときに喜び、幸せを感じるのか、人から愛されること、人にほめられること、ひとの役に立つこと、そして、人から必要とされること、これは、人間の究極の4つの幸せです。」

これは、日本理化学工業を見学した際に大山会長から「働く幸せ」について教わった内容です。

そして「働く場である企業だからこそ、君がいて助かったよ、ありがとう、また頼むね、という言葉が自然とでるのだと思います。人間誰しも持っているという、人の役に立つことが幸せだと感じる脳、「共感脳」が、人に役に立ったときに満たされる、幸せだと感じられる、まさに、自分の存在を確認できるからなのでしょう。世のため、人のためというと大げさになりますが、人間だからこそ、このように素晴らしい能力を持てるわけで、本当にありがたいと思います。」と続きます。

この「役に立つ幸せ」は、人間だからこそある素晴らしい「能力」だと言います。能力があるからその人は役に立つのではなく、その前の段階でその人は役に立ちたいことが能力であると定義されているのです。これは何よりも大切なことだと思います。

自分の能力を技能や知識だと思い込んでいる人は、自分が失敗しそうなことやできそうにないことには手を出しません。自分が向いている組織に属せば役に立つところがたくさんあるのかもしれませんがそうではない組織に属せば無力感を感じて腐ったりもします。しかし実際は、向き不向きではなく役に立とうという気持ちさえあればどんな小さなことでもできることで役に立っていけば相手や周囲から「ありがとう」という感謝をもらえ幸せを感じるのです。

本来、働くことは幸せであり、幸せは働くことで得られます。それを勘違いして評価されるために、自分が認められたいために、もしくは周りにいい人だと思われたいためになど、自分自身の価値を証明させたいために働けば不幸を感じるようになるのです。自分の能力が活かせないといくら愚痴をいったり、自分は何もできないなどと諦めてじっとしていたりして働くことが次第に面白くなくなってきます。

働くことが楽しい人は、どんなことでも役に立ったと思えば仕合せを感じるものです。自分が相手のためにできることを自分ができることでなんでもやっているうちに相手から感謝されるのが嬉しくなるからです。

みんなが楽しく仕合せに働く組織は「ありがとう」という言葉がたくさん飛び交います。なんでも役に立つことをしていこうという気持ちが溢れるからです。本来、仕事とは何かとシンプルに言えば誰かの「役に立つ」ことでしょう。自分が役に立っているかどうかを考えて悩むよりも、「ありがとう」と言われるような働き方を工夫した方がいいということでしょう。

ありがとうと言われる働き方は、相手を思いやり自分が手伝いたい力になりたいと何でも取り組んでいくことです。できることはなんでもやるということでもあり、できないことでも何か力になれないかと努力することです。

そうやって何かで役に立ちたいという思いがあれば、きっと人はその人のことを嫌いになることはありません。最初は下手で迷惑をかけるかもしれませんが、それでも何か力になりたいと思えばそのうちに上手になってきます。本来の人間の能力とは、役に立ちたいと思うことで磨かれていくものです。つまりは能力とは、役に立つ能力を得るということです。そしていくら能力があってもそれが役に立たないのは本当は能力ではないということです。

能力=役に立つことであり、役に立つ能力こそが本来の能力の意味なのです。そうなるとその人が役に立てるように周りも気にかけて配慮したり、その人がさらに役に立てるように協働したり、お互いに役に立てるように働くことが幸せを創造していくように思います。

何かの能力さえつければ誰かの役に立つという刷り込みを取り払い、本来の取り組みの順番を間違えないようにすることです、できないことばかりを追い求めず、できるところからみんなの役に立てるようにすることが能力、つまりは自分も「人の役に立ちたい」という能力を持っていることを信じることです。能力を無理に活かそうとする苦しい生き方ではなく、役に立てるのなら何でもやるという生き方の方がしなやかで楽しい生き方です。

最後に大山会長の言葉です。

「働くことが幸せということを前提にしたら、世の中はもっと良くなる」

役に立てることが幸せということを前提にして、能力を持てば幸せという刷り込みを捨てれば世の中は本当に豊かになると私も思います。みんなが安心して役に立てる歓びを感じられる組織を広げていきたいと思います。

能力の本質

能力主義の刷り込みの一つには「優秀」であるという評価があります。その優秀さとは学校でいえば全教科で高得点を取り、成績優秀、学校の思う人物像に近い人たちが選ばれました。

周りからどのように思われるかを優先し、周りがもっとも評価できる人物になることは優秀な人になることです。もしくはそこまでいかなくても、マジメにやっていればその評価から外れることはなく安心して平均内に収まっていることで「できる方」にいることができます。しかしあまり平均内にいると平凡という意識を持ち、能力が低いと自分に自信を失います。また平均よりも下になるとダメな人や知能が低い人などと評価されます。学歴も同じく、いい大学かどうかで優秀が決まるように能力は成績と結果によって評価されるのです。

優秀の対義語に劣等があります。これは他の人よりも自分が劣っているという見方のことです。劣等感がある人は、周囲の評価を気にしているからより優劣を意識します。周りから優秀と言われるために自分の評価を気にしてはマジメにやって優秀であろうとします。そのうちに自分の能力は、周囲の評価によって優劣を決める人になっていくのです。

本来の能力とは、他と比較するものではなくその人の個性です。しかし刷り込みを持つ人能力か個性かに分かれており、能力がある人は個性とか言いませんし、逆に能力が低い人たちが個性を言っているという具合です。つまり周りから能力が優秀であると評価されきた人たちはなかなか自分の個性を認めようとはしないのです。そして劣等感に苛まれている人たちは個性をいくら認めても本人がそれを個性だと認めようとしません。

この優劣をつけられて評価され、自分の能力ばかりを信じてきた人は常に周りのことも優劣で評価しますし、自分のことも優劣で評価しようとします。比較競走の刷り込みはこの優劣刷り込みのことでそのままでいいや、自分らしくあっていいは通用しないのです。

しかし、子どもたちを観ているとどの子もその子にしかない天の才能を持って生まれてきたのが分かります。木の葉に同じ葉が一枚もないように、指紋が同じ指紋が一つもないようにみんな最初から異なる個性を持っています。しかしその個性を天才とは呼ばず、そこに評価を入れて優劣を決めさらには障害などと呼んだりする。

動物で例えれば、うさぎと亀がいてみんな早く走らせて優劣を競うとすればうさぎが早いことはすぐにわかります。亀が自分が遅いといつまでもその競走で頑張ってもうさぎを超えることはありません。今度は水に潜ることを優劣で競ってもうさぎはどんなに頑張っても亀ほど水に潜れません。お互いがもって生まれた差異があるのに同じにしようということが無理があるのはすぐにわかります。

しかし人間はもともとみんな同じであると錯覚するあまり、本来の個性の意味が分からなくなっているのです。みんなが官僚にして政治家になったり今の社会システムのエリートになるために生まれてきたのならその能力評価一つで合う人間を育てていけば今の社会構造が保てると考えるのでしょうがそんな歪なものは長続きするわけはありません。

それぞれの個性、天才をどうみんなが発揮してお互いに競走するのではなく協働するか。そのためにはまずその能力主義や能力評価の刷り込みを捨て去ること、優劣で自他を裁く癖を改めることが先決です。

本当の優秀の意味は、「優」の語源は悲しむ人の側でその人の悲しみに心を痛めわが事のように悲しんであげる字を顕します。つまりその人物は「やさしさ、気遣い、思いやりの深さ」に対してとても「すばらしい、優れている」という意味です。そこが人よりも秀でているということ。

つまりは能力とは本来、誰かのためにと必死に自分を真摯に使い切る人たちが秀でていくもので劣等感や競争で得るものではないのです。自分から周りの人たちや助けたい誰かのためにや、困っている人たちのために、社会の役に立つために全身全霊で本気で身を投じていく人が能力が高まり秀でて「優秀」になるのです。

能力から入るのではなく、誰かを思いやり力になることから入ることが本来の個性を磨いていくことです。能力が個性ではないのです。だからこそ無能と呼ばれることを恐れず、役に立たないと周りから言われることを気にせず、ただ相手のために真心で遣り切っていく生き方を選んで本物の個性を発揮してほしいと願います。

本当のことを自覚し、改心していき子どもたちの勇気になる生き方をしていきたいと思います。

「できるできない」という刷り込み

能力主義、能力評価というものがあります。幼い頃から自分の存在価値や自分らしさではなく、自分の能力を拠所にしてきた人は周囲に対して自分は何の能力があるかという評価を意識しながら生きていくものです。またそういう能力に対する刷り込みがある人は、何かしらの結果はすべて能力によって可能だと信じ込んでしまいます。

本来は能力だけでその結果が得たわけではなく、その人の真心や身を削るような真摯で誠実な努力や行動によって出来たものでさえその人の能力の力だろうと思い込んでしまいます。運も実力の内という諺もありますが、本当は能力は付属的要素であってもっとも大切なのは思いやり行動したり、初心を忘れずに遣り切るときにのみ他力が働いて物事は成就することがほとんどです。

この能力刷り込みというものは、「できるできない」という判断基準を持ちます。そのできるかできないかというのは、自分の能力でできるかできないかという判断基準です。

例えば、仕事でいえば自分にできることをやることを責任感があるとし、自分にできないことをやるのは無責任という考え方があります。これは能力で仕事を判断する場合は、能力を超えることをやって失敗したら迷惑をかけるのだからできそうなことしかしない方がいいという考え方のことです。自分のできそうな仕事を探し、自分のできることだけをやっていく仕事というものは能力があればできるものです。しかしもしも自分の能力を超えたことが発生したとしたら、そこでやめてしまったりそれ以上は踏み込まなかったりします。

ここでの踏み込むというのは、どこまで相手の問題や課題に責任を持つかということです。本来は、能力でできるかできないかで仕事をするのではなく相手のためにできるかできないかで仕事は行うものです。

言い換えれば、「自分にできないことであったら誰かできる人を探してでもその人の助けになってそのために自分にできることはなんでもやる」というのが本当の責任感ということになります。

実際に能力を拠所にその評価を気にしている人は、能力で解決しようとするあまりできないことをやろうとしてできることをやりません。できないことをやろうとするというのは心を籠めないで理屈ばかりで乗り切ろうとしたり、思いやり勇気を出して行動をすることを避けては、その場限りの技能やテクニック、ノウハウなどに頼ってしまいその能力でできそうなことにばかり頭を悩ませることをいいます。

人間は自分の存在価値を認めていけば能力が存在価値ではないことに気づきます。自分の持ち味もまた能力のことを言っているのではなく、その人の個性のことを言っているのです。個性を尊重するか、能力を尊重するか。本来は個性の中に能力があるのですが、個性を潰されて能力ばかり評価された人は能力がなくなれば即ち自分は無価値だと信じ込んでいますからどうしても能力を手放せないのかもしれません。そういう生き方は苦しい生き方だけでなく、周囲も人のことも苦しくしていきます。

相手のためにできることはなんでもやろうと生き方を定め仕事をする時、人は自分の能力を超えて働く必要が出てきます。その時こそ、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」にあるように能力に頼らず、信じることに頼ります。信頼関係というものや絆は、能力によって結ぶのではなく相手のためにと保身を捨てるときに得られるのです。

「できるできない」ばかりに囚われている人は、必ず其処には能力評価の刷り込みがあります。個性をもっと大切にして、自分にしかできないことに取り組む必要があります。一度きりの人生、たった一人の自分、その自分の魅力を自分が引き出すのも自分、誇りをもって取り組むのも自分、もっと自分自身を信頼して大切な初心を守るために心のままに生きてみてもいいのではないかと私は思います。

できないとかできるとかで心を蔑ろにして本当の自分自身を誤魔化せば、個性はその他大勢に埋没していきます。もっと自分らしく、自分のままでいい、できないことはできる人に助けてもらい、自分にしかできないことでみんなの役に立てばいい。

自立と共生は、保育の要です。

引き続き、刷り込みを取り払いもっと個性が発揮できる社會になれるように私自身も真心の実践を磨き続けていきたいと思います。

改心と恩返し

「改心」という言葉があります、これは今までの行いを反省し心を改めることを言います。人生の中で、人は自分がご縁の中で時に誰かに対して何かに対して申し訳ないという気持ちを持つものです。同義語には、覚醒するや、生まれ変わる、立ち直る、仕切り直す、善人になるなどとあります。

人生には因果の法則が働きますから、あらゆるご縁は過去から未来、そして今に結ばれ自分に訪れます。そのご縁をどのように活かしていくかが人生の命題だとして、大切なのはその出来事から学んだことを反省しその心を入れ替える修行をすることではないかとも思います。

私たちが「すみません」と使う言葉にも、謝罪と同時に感謝が入っている複雑な日本語を用います。このすみませんの語源は澄む・清む・済むから来ているといい、それでは私の心が澄(清)まなく気持ちが済みませんという意味だといいます。

先日、30年ぶりにお会いした方に子どもの頃に私がいたずらでご迷惑をおかけした方にお会いして長年心に引っかかっていたことを謝り恩返しをしていることなどをお伝えしたら気持ちが少し楽になりました。その方からも「子どものことだから、それにもう済んだことだから」と言われたとき「すむ」や「すみません」の本当の意味を学び直した気がします。

人間は自分の心に誠実に生きていけば、そのご縁によって或いは因果律によって必ずまたその人に巡り会います。ご迷惑をおかけした人も、親切をいただいた人にもどこかで必ず巡り会います。その恩というものを、お返ししたりお送りしたししながら私たちは助け合ってこの社會を形成していくのです。

自分がその因果律により善くないと反省したのならすぐに心を入れかえて改心していうことは、ご縁を活かしているということになります。

そして私たちは心を澄まして、素直なままに自分らしく自然体に近づいていくのです。「すみません」というのは、このままではすみませんという意味でもあり、このままではすましませんという自反覚醒の覚悟とも言えます。

すいませんが軽々しく使われている現代は色々と言われますが、本来は軽々しいものではなくこのすみませんは「覚悟」が問われているものです。人は心を入れ変えるとき、素直にすみませんが言えるようになります。

そしてそのすみませんに対して誠実であるとき、人は反省をしそのご縁をさらに善いものへと発展させて社會に恩を還元していくのでしょう。よく反省し変わっていくことは、ご縁を活かし心を磨き素直に成長していくことです。

素直に成長した自分を見てもらい許されることもまた、思いやりの恩送りでしょう。徳を積み、さらに御恩返しの人生に舵をきっていきたいと思います。