恩送りの生き方~いのちを愛おしむ~

先日、福岡に桧山タミさんという92歳になる料理家がいることを知りました。昭和25年、タミさんは26歳で結婚。しかし、そのわずか6年後に夫を病気で亡くし2人の子どもを育てるため、料理教室で生計を立ててきたそうです。桧山さんは食べる人のことを考える「思いやり」の心をとても大切にしていて電子レンジなどは使用したこともなく、お米は炊飯器などは使用せず、最も善いのは「炭による火力」だということを仰っています。

また料理を作る際に何より大切なことは食べる相手のことを思いやることで、季節の野菜などを食材を使うことも推奨しておられます。そして著書にある「いのち愛おしむ 人生キッチン」(文春e-book)にはこうあります。

「竈で煮炊きした大正の生家でも、子育てと仕事に奮闘した昭和の町屋でも、ひとり暮らしの平成のこのマンションでも、台所がいつも生活の中心にあります」

暮らしの中心は時代が変わっても台所であるという信念で昨年行われた私塾の公開講演のテーマでも「がんばらない台所」とし、その目次を観ると(①自然とのつながりについて②学校では教えない旬の野菜③自然に反しない調味料④道具のちから⑤料理の基本、おいしいご飯を炊けること⑥便利が不便をうむ⑦子どもの頃、何を食べたかで決まる⑧みなさんに伝えておきたいこと)となっておられました。

また料理することは「毎日の一食一食が家族と自分の命をつなぐ営みだから」といい、台所をいのちの拠所にしてご自身の生き方を今でも磨いておられるように思いました。生き方から出てくるその言葉は優しく、心に響いてくるものがあります。

「時代が変わっていってる。それには反対できない。自分で(実践して)いけるものを見つけないといけない。手は抜いてもいいけど、心っていうのは思いやり。その人に対する思いやりを抜いたらだめ。いまごろのお母さんは忙しいから、なかなかできないけど。忙しいってことは、“心を亡ぼす”という字。言葉じゃないけど、思いやり。」

「この人は疲れているか、疲れていないか。疲れているなら、お茶でもコーヒーでも、例えば紅茶を甘めにしてあげる。その程度。“疲れとう”と言ったら、“背中さすってあげよう”と言うと、それだけで、ほっとする。だからお金とか、物じゃない。気持ち。」

ここからもわかるのは料理は形式などではなく真心や思いやりを優先、まさに生き方を語られます。

私も日々の暮らしの実践や聴福庵での炭を使った料理を磨いていますが、まさにこの生き方と実践こそ私の目指す竈主としての生き方ではないかと感動したのです。今後の聴福庵の「澄料理」の根本理念の参考にさせていただきたいと思っています。

最後に桧山タミさんの著書の「あとがきにかえて」より、

「女性はもともと強く、男性はもともとやさしいのです。だから、強さを学ぶために男性は生まれたのです。女性は強いからこそ、やさしさを学ぶために生まれてきたのです。やさしくなるというのは、ただ他人任せに甘えることではありません。人にやさしくするためには自分の心身の強さを持って、そばにいる大事な人たちを温かく応援できるということ。目に見えない思いを日々「料理」にこめることは、命を愛おしむこと。あなたのキッチンが、楽しく豊かで、いつもおいしい匂いのする、家中で一番幸せな場所になりますように。」

やさしさと恩はずっと子々孫々まで巡っていきます。真心を籠める生き方を私も貫いていきたいと思います。

夢を磨き志を貫徹する

人間の夢には、自然体で理想を追い求めていく本来の夢と世間から理想だと評価され認められるという迎合する夢があるように思います。自分の夢を追いかけていたはずが気がつけば周りからの評価が気になるばかり諦めて周りに合わせてしまえば本来の夢がすげ換ってしまうことも多いように思います。

人間は誰しも世間の評価を気にするものです。特に自信が持てないでいるといつまでも周りがどうかを基準に自分を創り上げてしまいます。しかし本来の自分らしさとは周りの評価ではなく自分がどう生きたいかという自分の目指す生き方への純粋な動機を実践し続けていくということです。

自分らしく自分のままでいいと思うためには、自信と誇りが必要です。世間や周りがどのようにあなたのことを評価したとしても気にしない、自分の目的は自分がもっともよく知っているのだと自分の真心を盡していけば自分を信頼できるようになり誇りと自信を持つのです。

自分らしく生きるというのは、自分への信頼と自信と誇りを必要とします。何のためにやるのかと自問自答を続けて、自分の我と折り合いをつけながらも己に打ち克ち純粋な理想の方に舵を切る勇気と身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれとあるように成長を続けていけば必ずその志は為るのです。

志をもっとも揺さぶるのは成功です。世間の成功を求めるあまり、本来自分が何をやりたかったかを忘れてしまうのです。「初心を忘れるべからず」という世阿弥の格言もありますが、初心こそが夢を間違えさせない大切なお守りなのです。

初心を挿げ替えることなどはできず、挿げ替えるのは自分の願望のために自分が先に諦めてしまうことです。初心さえ失わなければ人は希望を失うことがありません。しかし先に成功を手に入れてしまえば人は希望を失うことがあるのかもしれません。そう考えると成功するかどうかというときこそもっとも志にとっては試練かもしれません。

高杉晋作に「人は艱難はともにできるが、富貴はともにできぬ。」があります。これは人間は理想や志への挑戦に対し大勢が一緒になって苦労することはできるが富や名誉を求めるために大勢が一緒に行動することはできないと詠まれます。成長は共にできても成功は共にはできないとも言えます。

諺に「艱難汝を玉にす」、「逆境は人を賢くする」という言葉もありますが、困難な状況こそ純粋さは保たれ苦労があるからこそその魂は磨かれ純粋に澄み切っていくのです。

成功こそ幸福だと思い込むことは、自分らしさを手放すことかもしれません。本当の仕合せは自分自身になることであり、独立不羈、独立自尊、唯我独尊のたった一人の自分になることだともしも定義するのなら魂の成長こそが幸福だと気づきます。そして魂の成長は常に艱難や苦労によってのみ行われます。

生まれてきた意味やその目的を知ることは、心魂の歓びです。それを貫くためには、研ぎ澄ませていくほどに磨き続けていく必要があるのです。

引き続き、初心を忘れずに日々の実践を高めていきたいと思います。

風土の醸成

私たちが生きていく上で目には観えませんが確かに存在しているものに「仕組み」というものがあります。この仕組みとは、根本的な原理原則のことでもありこの世の中や自然界でも様々な仕組みによって風土が仕上がっているのが分かります。

例えば、自然界では様々な生き物たちが共生し、多様性を尊重する仕組みがあれば生命は豊かになります。この時の仕組みは「共生」というものを用います。他にも社會であればその中で協働したり助け合えば「貢献」という仕組みもできます。このように自然界においても様々な仕組みが折り重なって私たちはその風土の中で仕合せを享受されます。

かつてピーター・ドラッガーが『「体質」「組織風土」とは、「仕組み」「判断の傾向」「ナレッジ」と言い換えることができる。』ということを言いました。つまりは、仕組みとは、組織風土でありそのものの体質を決めるということです。

この仕組みといった原理原則を学び、それを環境に活かすことができる人物こそ風土を司るリーダーになっていくのです。会社の変革や、自分自身の体質を変えるためにもまず実行すべきはこの原理原則を学びその文化を風土に醸成することが先決なのです。

ソフトバンクの孫正義氏が「精神論は大切ですが、百万回精神論を唱えてもなかなか変わっていきません。リーダーとしてそれ以上に大事なことは仕組みを変えることです。 仕組みが変わればおのずと精神は変わっていきます。」という言葉を遺しています。

まさに、自己の体質を変えるのは判断の傾向を変えることでそれは世間一般から刷り込まれた常識を捨てることや、過去の自分の思考の癖をかき直すことや、目指している理想に対してそれに合わない働き方を見直すことです。必死に何度も勉強することも大事ですが、精神論だけでは風土は変わりません。

具体的に風土を変えるには、風土が変わる仕組みを優先することです。仕組み創りをするとき、私たちは文化に出会います。自分たちの風土に適っている働き方を仕組み化することが日本精神の伝承であったり、伝統文化の継承であったりもするのです。

メリハリやミマモル、モッタイナイやムスビなど、このような言葉もまた精神論ではなく具体的な仕組みになったときはじめてその文化が顕現してくるのでしょう。

引き続き子どもたちのためにも、環境を変えて仕組みを創造しこの今の風土を醸成していく挑戦を続けていきたいと思います。

自分らしさということ

人は「自分らしく」や「自分の持ち味」を発掘し発見し、発展していくためにはどこかで「熱狂」しなければなりません。この熱狂とは熱中するや、没頭するという事に似ていて一度、自分を忘れるほどに何かに打ち込んでみてはじめて到達する状態のように思います。

私たちの会社でも、よく遣り切るや踏み込むなどという言葉が飛び交いますがこれは熱狂のことを定義します。つまりは、自分を捨てて我を忘れるほどの努力をするということです。自分を持てば持つほど苦しみが増えて、そこを避けようとすればするほどに辛くなりますがそこを乗り越えてみると自分らしさが見えてくるということです。

幻冬舎の見城徹社長さんがその著書「たった一人の熱狂〜仕事と人生に効く51の言葉〜」にその「熱狂」することの価値が紹介されています。

「自分にしかできないことに取り組んで、結果を出す。一度、結果が出ると仕事は面白くなる。他の人でもできることをやってもしょうがない。他人ができないことをやる。辛いが、これが仕事の王道だ。」(第一章 仕事に熱狂する)

この「自分にしかできないことをやる」というのは、他の人ができないことをやるということです。言い換えれば、その組織において自分の持ち味を活かすということです。同じ目的や理念を持つ仲間の中で、自分が天から与えられた使命や能力を誰しも持っています。それを自分が出し切り、遣り切り、みんなのために全身全霊を盡すとき自分にしかできないことが実現します。

もしもだれでもできそうなことや、他の人でもやれそうなことを努力していてもそれは自分にしかできないことになるわけではありません。他人ができないことをやるのは自分を発掘していく努力です。これは評価もされず認められず、時として孤高に歩むことになりますがそれでも自分らしさに出会う歓びはとても大きいものです。

見城さんは「朝から晩まで仕事について考え抜き、骨の髄まで仕事にのめり込む。そして上司や同僚ができない仕事を進んで引き受け、結果を出す。」このようにすれば、自然と仕事は面白くてたまらなくなるとも言います。そこまで熱狂するほどにやって結果がでれば自分らしくいることが誇らしくなっていくのです。

何でも自分を遣り切る体験があったり、自分を出し切る経験が増えればその人は自分らしく生きることが楽しくなっていくように思います。そのためには努力が必要です。見城さんは「結果が出ない努力は意味がない」とも言います。

「この世には二種の人間しかいない。圧倒的努力を続ける人と、途中で努力を放棄する人だ。苦しくても努力を続ければ、必ずチャンスは巡ってくる。死ぬ気で努力するから、大きなチャンスをこの手でつかめるし、圧倒的努力が10重になった時、始めて結果が出るんだ。」

つまりは結果は努力が足りないと思うことで周りのせいにしたり誰かに評価を求めたり言い訳をしたりすべきではないということです。あらゆる努力が積み重なり、それが多重になったときはじめて結果が出るといいます。ちょっとやっただけですぐに結果がでずとも、常に自分にしかできない仕事を根気強く熱狂してやり続けてはじめて結果が出るといいます。努力は誰でもできる努力ではなく、自分にしかできない努力をする方がいいということでしょう。

そしてこの自分にしかできない仕事は、素顔のままで本心のままに自分がこういうものがあったらいいと思うことに没頭していくことです。自分を信じて自分に誇りを持ち他の人がやっていないことに取り組み、それを積極的に引き受けた以上は途中で諦めず結果が出るまで貫徹することです。努力をするのなら本物の努力をする、それだけ捨て身になるということでもあります。

自分が裸になれないのも、自分の素顔が出せないのも、自分が本音でいられないのも、それはまだまだ本気本腰が入っていないからかもしれません。自分を忘れるほどに必死に努力を続けて自分らしく自分にしかできないことに巡り会える仕合せは幸福そのものです。自分らしさは周りの常識に縛られてふつうである自分、大多数の人たちと同じ自分に執着するのを捨てたときはじめて大切にされはじめるのでしょう。

世界や社會、組織の中で自分の存在価値や存在意義を感じられることは自分のままでいいという居場所が見つかることです。自分にしかできないことを見出すことは居場所を見出すことです。そしてその居場所を楽しくするのは自分にしかできないことをやる努力しかありません。

子どもたちの居場所を創造するためにも、自分に導かれた伝統や自分に流れている天才を活かし、自分にしかない持ち味を活かし、豊かな社會を創造していきたいと思います。

自分を知る

人間はその人らしい時、もっとも自分が何のお役に立てるのかを自覚することができます。自分にしかできないことに出会ったとき、人は幸福感を感じるものです。それは全体の中に自分が活かされ、自分が活きたことが周囲を活かすことを実感することができるからです。

しかしこの自分というものを知るためには、素直でなければなりません。あまりにも周りを塗り固めて本当の自分を隠し続けてきた生き方をしてきた人は、裸になることができない分、自分らしさにも気づきにくいようにも思います。

さらけ出す勇気というものは、自分自身でありたいという心の声でもあります。そういうものを隠し続けて偽物の自分を演じ続けていたら、自分らしさが分からないだけではなくお役に立つところが見えずに幸福感を感じることができなくなってきます。

周りを見てはこれでいいのだろうと言い聞かせることは、自分を生きることではなく周りの空気や評価を気にして生きていく方を選んだことにもなります。自分という物がどのようなものか、そして自分のままでいいと自分が認められるということがどういうことか、それが自分を知るということでしょう。

自分を知るためには、先ほどの裸になってさらけ出してみてありのままの自分を見つめてみる必要があります。みんな馬鹿になるのを嫌がり、普通でいたいと思うばかりに他の人と違うことを避けようとします。馬鹿になるのは馬鹿にならないくらい重要なことで、一度自分という物を素直に見つめてみてはじめてその両方が分かるようになるのではないかとも思います。理屈ばかりで学んでいると、馬鹿になることや恥をかくことを嫌がりますが人生において失敗や辛酸をなめることは自分らしく生きるためにとても重要な経験ではないかとも思います。

馬鹿になるという言葉でいろいろと格言を探してみると

「修行中は馬鹿になっていなければ上達しない。馬鹿という言葉を言い換えれば、ものに拘(こだわ)らない素直なことである。理屈っぽいのが一番修行の妨げになる。」(宮崎道雄)

「馬鹿になれ とことん馬鹿になれ 恥をかけ とことん恥をかけ かいてかいて恥かいて 裸になったら見えてくる 本当の自分が見えてくる 本当の自分も笑ってた それくらい 馬鹿になれ」(アントニオ猪木)

「利口なんだったら、バカにもなりなさい。バカは利口にはなれないんだから。」(永六輔)

これもまた馬鹿であることの価値を語った言葉です。馬鹿になることは決して悪いことではなく、自分を知るためのもっとも最善でもっとも価値のある方法なのです。そして恥だからという言葉は、恥を知っている人が使っていいということがここからもわかります。恥を知りなさいと言われるのは、自分をさらけ出しなさいということで、もっと自分自身を認める勇気を持ちなさいといわれたのです。

最後にとても心に響く永六輔さんの応援メッセージです。

「コラ!あんまり勉強すると、バカになっちゃうぞォ!」

いつまでも本当の自分を知らないで死んでしまうようなバカにならないように、恥を知りさらけ出す勇気を大切に生きていきたいと思います。

子どもが憧れる生き方

先日、地上でもっとも偉大なショーマンと呼ばれた実在の興行師を演じたミュージカル映画「グレーテストヒューマン」を観る機会がありました。この映画は、差別や偏見のトラウマに打ち克ち、人間の本当の仕合せとは何かを見出していく映画だったように思います。

私が特に映画の中で感動したのは、それぞれが仲間を得て誇りを持ち自分らしくいることを大切に生きるようになった人たちの姿でした。その証拠に映画の後半に一緒に働いてきたパートナーが「あなたのせいで全てを失ったが、愛と友情と誇りを持てる仕事を手に入れた」という言葉が出てきます。

この全て失ったというのは、権力や地位や名誉や富のことです。それらを手放して新たに手に入ったものが愛と友情と誇りをもてる仕事であったのです。それは決して金銭で買えるものではなく、生き方を換えることによって得られることです。

世の中には、大多数の人たちが持っている価値観があります。これを常識とも言えます。皆と同じようなものを手に入れて自分もそれを持つことを保守ともいい、少数派になることを革新だとも言えます。

私はかつてこの映画のように、みんなと同じようなものを手に入れたいと世間の評価に従い自分をその場所へと運んでいきました。しかしある時、自分の人生に素直になりたいと決意し、世間の評価からは程遠く、オリジナルで絶対的少数の方へと生き方の舵をきりました。

その御蔭で私も、愛と友情と誇りをもてる仕事に巡り会うことができ今があります。

人生は一度しかなく、自分というものは一人しかありません。自分らしく生きることは、自分自身の今を最善であると肯定し、自分のあるがままであることに誇りをもって生きていくことです。

周りから何と言われようが、他人からどう評価されようが、本人が仕合せを噛み締めながら自分らしく生きられればそれで世界も幸福になっていくのです。それが自然であり、自然界のようにすべての生命は有機的に繋がっているからこそ自分がもっとも自分の天命に従いその天命を遣り切っていけば周囲のお役に立てるのです。

そして金子みすゞさんの蜂と神様の詩にあるように、どんなに小さな存在であっても神様の内にあるのだから、幸福を見せびらかす必要もなく、むしろ自分らしくいることの仕合せを味わって生きていけばいいだけなのです。

私は子ども第一義の仕事に誇りを持っていますが、これは自分の中にある子ども心に正直に誠実に生きていくことで子どもが憧れる存在になりたいと思っています。それはひょっとすると世間ではおかしな人と笑われたり、変人や狂人だと罵られたり、気持ち悪がられたり差別されたりするかもしれません。

しかしせっかく生まれてきたこのたった一つのいのちの花を、自分なりに咲かせたいと願うのは子どもの夢ではないかとも思うのです。子どもたちに寄り添う見守る仕事をするからこそ、私自身は自分の子どもに嘘がない生き方をしていきたいと思います。

引き続き、愛と友情と誇りをもって初心伝承に邁進していきたいと思います。

意味がある仕事

仕事と作業というものがあります。仕事は価値やプロセスを重要視するのに対し、作業は結果や効率など重要視するものです。仕事も作業も何のためにやっているのかを忘れただやることが目的に変われば価値は失われ楽しくなくなっていくものです。

そもそも生き方なども同様な話で、何のために生きるのかを忘れない人はどんな時もプロセスや意味に価値を置き初心を忘れずに心を籠めて取り組みます。ブログ一つ書くのにも書くことが目的ではないのだから何のためにやっているのかという本質から外れることがありません。そうなるとやっている価値がそのまま文章になりますからその積み重ねでまたプロセスが豊かになって意味が充実し楽しくなります。

しかし心を使わずに頭でっかちに価値を忘れてしまえば、意味もない早く終わらせることだけが目的になり単なる無機質な作業になってしまいます。やらされる仕事というのはこの無意味な効率だけを重視する作業のことで、目的やその価値を見失って働いている状態のことです。本来は価値のある仕事だったものを、自分から進んで無価値の作業にしていくのでは楽しくなることは絶対にありません。実際作業した方が効率よく終わるし、目に見える結果は出ましたから仕事をした気になってしまっているだけで、本来の仕事をしたわけではありません。やらされる仕事と、遣り甲斐のある仕事はまったく別のものなのです。

会社であれば理念があり、方向性があります。そして自分が何かしらで貢献できる方々のために自分の全身全霊、誠心誠意を傾け創意工夫して問題を一緒に解決していこうとする。これは決して作業をしているのではなく、働くことです。

意味を見出し価値を高め、本質から外れずに常に内省しながら働く人は、これは一体何か、何のためにやるのか、何が求めていることなのかと目的に照らしつつ仕事をしていきます。その人の仕事はとても創意工夫に満ちており豊かで楽しいもので、何をやっていても自分から面白くして充実し遣り甲斐をもって取り組んでいます。嫌々ながらやらされているのなどなく、自分から進んで喜んで取り組んでいきます。

そういう働き方や生き方をする人は、その人生も活き活きしており、その人に仕事が集まりますし次第に周りから信頼され遣り甲斐が増えていきます。どんなことも無意味な作業にすることを嫌がり、常に意味のある作業にしようと自分から求めては変換して価値を見出していきます。

本来価値があったものが次第に価値がなくなってしまうのは、自分が価値をそこに見出せないことに由ります。主体性というものは、自分から何の意味があるのかを日々に発見し続けることでもあり、これが目的に対してどのように発展していくのだろうかと好奇心をもって創意工夫を楽しんでいくことで心がついてくるように実践していくことです。マンネリとはその逆の状態になったことを言うのです。

もうすぐ人工知能やロボットが身近で一緒に働くことになり、作業の方はほとんど人間に取って代わられるのは明白です。その時、今もやらされていることを嫌々しながら不平不満を漏らし、楽しくない仕事をしている人はすぐにやる仕事がなくなるように思います。本来の目的や理念、真心を籠めて楽しく豊かに生き甲斐や働き甲斐を創造していく人は、価値を生み出し価値を発展させていくのだから仕事が誰かに取って代わられるということはないでしょう。

全体最適というのは人間社会全体のためにどう生きるのか、自分のやっていることの価値が何かを正しく理解し、ただ正解のためにやらされるのではなくプロセスを常に大切に意味を創造していくことで得られるように思います。言い換えれば、どんな仕事も価値を創造し「意味がある仕事」にしていくということです。それが本質的な生産性を高めることになるからです。

働く仕合せは、意味を感じながら働くことで得られます。無意味で無駄、無機質な生き方をしないよう意味を見出しプロセスを大切にし、繋がりや豊かさを感じる生き方を子どもたちに譲っていきたいと思います。

 

むかしの保育

昨日、かつて廻船問屋だった家を修繕し保育園にしている施設を見学させていただくご縁がありました。江戸末期に建てられた家が、今も息づき子どもたちを見守り育てている様子にただただ感動をしました。

昔、大きな蔵があったところは今ではたくさんの乳児たちがお昼寝中でしたが、上品な階段箪笥で二階にあがれば嫁入り道具が入っていた長持がいくつもそのままにありました。確かに家が今でも生きて、子どもたちを見守っている存在を感じ懐かしく有難い気持ちになりました。

こういう古民家を遺そうというのは今の時代では大変難しいことで、新築を建て直した方が安くできるし簡単で維持をしていくことや修繕していく方が何倍も何十倍も苦労をします。それでも大切に敢えて修繕を続ける理由を前園長先生にお聴きすると、「ご先祖様が遺してくださったものだからそれを大切にしたいだけです。」と仰っている姿に日本人の文化と精神、生き方を改めて感じることができました。

このように昔からあるものをいのち永く使われた中で保育されることが、子どもたちの未来にどのような影響があるだろうと思うとこの保育園の存在自体が大変貴重であることが分かります。「もったいない」ということを口先で教えるのではなく、まさに今の大人たちの生き方や家の体現する姿で教えずにして教えていると実感するからです。

見守る保育を提案する新宿せいが保育園の藤森平司園長が主催する臥竜塾ブログに、「家こそがルーツ」という記事があります。この記事にある通りまさに日本のルーツを持っている物語に溢れた保育園に直に出会った気がして、魂が揺さぶられ心和やかで豊かな気持ちになりました。

その保育理念も「遊べる子ども」を目指し、世界一楽しい保育園にしたいと語っておられ、見守る保育の実践に取り組んでおられました。

私たちが定義している保育は道であり、道は生き方のことです。

日々にどのような生き方をするかは、かつてからどのような生き方をしてきたかを伝承していくことでもあります。道は永遠に繋がってこの今を創造し続けるむかしから貫かれた生き方がこの今に伝道し人々がその道に感化され歩いていく人が一人またひとりと増えていくことでその大道が踏み固められていきます。日本人とはそうやって出来上がってきたのです。

古街道沿いにあるこの保育園が風土の中で子どもと道を見守り続けているのを感じ、家の持つた日本の佇まいを観ました。私はこの出会いに大いに背中を押され、偉大な勇気をたくさんいただいた気がします。

私が取り組んでいる古民家甦生もまた、日本人の道の甦生を志すものです。子どもたちのいのちの根を日本文化という地下水脈から吸い上げていけるように、「むかし」からある大切なものをいつまでも守り続けそれを譲り渡していくことに使命を感じます。

今では新しいものばかりが価値があり便利なものや流行の情報ばかりに目を向けている環境に溢れています。しかしこうかって「むかし」のものに思いを向けて観ると如何に自分たちの今がどの方向からやってきてこれからどの方向に向かっていけばいいかを省みる機会になります。

過去はまさに未来から訪れるものであり、この今はそのつながりの中で次に譲り渡していく今であるのは明白です。それを伝統の日本の家が見守っている中で行える保育はまさに私の理想のするところです。

子ども第一義の理念を通して古民家甦生の本質を学び直しつつ、子どもたちが安心して暮らしていける社會にしていけるよう社業や使命に専念していきたいと思います。

 

童心~面白いまま~

昨日、聴福庵離れの思想に大きな影響をいただいた方に来庵いただきお風呂に入っていただきました。6年前にお会いしてから空気や水、地球の原理原則について指導をいただいている方です。いつもお話をしていて感動するのが、原理原則が明確に簡潔に説明されその原理をどう活かせばいいかという具体的な方法まで熟知されていることです。

また子どものような瑞々しい感性で、様々なものを好奇心で察知されそれを言語化されます。不思議な世界をも不思議に思わず、当たり前に目には観えないものを論理的に先祖の生き方や考え方、先人たちの偉大な功績を語りつつ言葉にしてくださいます。ちょっとやんちゃなところもあり、一緒にいると懐かしく、まるで童心に帰ったような気持になります。

私の幼いころも不思議なことにいつも感動し、不思議だなぁということになんでも興味を持ち、すぐに体験しようとした子どもでした。冒険することが大好きで、未知なものに惹かれると抑えられない衝動が来て怪我をしてでもそこに挑戦していた記憶があります。

今でも、未知のものに触れると魂が揺さぶられそれを体験したい衝動に駆られます。特に今は、自然の叡智やご縁の神妙さ、そして歴史や伝統技術、風土や環境の仕組み、心と体のこと、水や火や炭などという精霊の存在、動物や昆虫のこと、人類や文化のことなどに強烈に惹かれます。

何歳になっても、どうしても衝動が抑えられず好奇心のままに行動してしまいます。私は苦労があってもワクワクドキドキする方を選ぶタイプらしく、大変であればあるほどに体験も面白くなるとどこかで思っている節があります。それはきっとこの幼い頃からの童心がいつまでも私を支えてくれているからではないかと思うのです。

何もないことでも、お金にならなくても、人生に影響がなくても、ただ面白いというものが大好きなのかもしれません。だからこそなんでも面白くなるまで遣り切ることを信条にし、どんな時でも徹底して実践することを優先しているように思います。

よく他人からはストイックだとか、こだわりが強いだとか言われますが本当は面白いままでいたいからやっているように思います。その証拠に面白くなくなったものはすっぱりとやめてしまうからです。だからこそ面白くしようと決心したものは諦めが悪く、しつこく粘り強くやっていきます。

高杉晋作の辞世に「面白きことなきこの世を面白く」があります。

私はこの句もとても好きで、どんな人生であっても面白くするのは自分次第であるのだという主体性を感じるのです。主体性とは、自分から面白くすることでありどんなことへも好奇心を失わない童心のままでいることをいうのです。

童心は、子どものように純粋無垢ですからその存在だけで無邪気に遊び自然に仕合せを創造します。

引き続き、子ども第一義の理念を実践し子どもの憧れる大人であり続けていくために挑戦していこうと思います。

自然の導き

昨日は私の誕生日でしたが、家族をはじめ親戚も集まり花見をしながら一緒にお祝いをしてくれました。家の前にある鳥羽公園は、その池の周りに数十本の桜が植えられ満開で風が吹くとひらひらと花びらが舞っています。満月の下、水面に映りこむ夜桜の美しさは幻想的で時を忘れるほどでした。

振り返ってみると、私の人生は何かに導かれるように次はこれ、次はこれと一つ一つのご縁を真っ直ぐに深めたらまた新たなテーマをいただき結ばれ今になっているように思います。

先のことをそんなに思い煩わなくても、過去のことにいつまでもしがみ付かなくても今だけを観て、今だけに生きることで自然に道が開けていきました。時折、今から離れては後悔したり臆病になったりして導かれている安心感よりも思い通りにいかない不安に負けてしまうこともありました。しかしそんな時、いつも私の背中を押してくれたのは「導き」であったと確信することができます。

この導きは一体どこから来るのか、それはご縁から訪れます。誰といつ出会い、どんなことを感じるのか、その豊かさの中に自分の種から芽が出てその芽が育ち実をつけます。そして円熟したら次の種になるという具合です。

こうやって一つ一つのご縁を育てていたら次の導きが入ってくるのです。

そう考えてみると、私たちは自然の存在として周りの生き物たちと同様に自然と一体になってめぐりの中で生き死にを繰り返しながら自然の導きによって暮らしをしながら生を謳歌していきます。

この世に生きている以上、道理として自然に逆らうことはできず私たちは自然と共に生きて活かされています。導きに生きることは自然なことであり、利己的に生きることは不自然であるのはわかります。自然の生命はみんな自然の導きという絶対安心の境地の中で楽しく仕合せに豊かに生きることがゆるされているのです。

誕生してから今まで私はどのような「導き」があったか、そしてこれからどのような「導き」があるのか、選ばない人生を選択しただけで心はいつも平安無事です。自然の流れや導きに身を任せることが、自分の身を浮かばせて悠久のめぐりに入る方法です。私が研ぎ澄まされた清浄な「直観」を信じるのもまた、その導きを私の利己心で穢したくないからに他なりません。日々に己に克つ理由は、天から与えられた使命、その本物の人生を送りたいからです。

引き続き、この先どのような導きをいただき、また四季のめぐりを残りあと何回体験させていただけるのかわかりませんが常に謙虚に素直に学びを深く味わいながら一期一会の暮らしを感謝と共に歩んでいきたいと思います。

ありがとうございました。