昨日は私の誕生日でしたが、家族をはじめ親戚も集まり花見をしながら一緒にお祝いをしてくれました。家の前にある鳥羽公園は、その池の周りに数十本の桜が植えられ満開で風が吹くとひらひらと花びらが舞っています。満月の下、水面に映りこむ夜桜の美しさは幻想的で時を忘れるほどでした。
振り返ってみると、私の人生は何かに導かれるように次はこれ、次はこれと一つ一つのご縁を真っ直ぐに深めたらまた新たなテーマをいただき結ばれ今になっているように思います。
先のことをそんなに思い煩わなくても、過去のことにいつまでもしがみ付かなくても今だけを観て、今だけに生きることで自然に道が開けていきました。時折、今から離れては後悔したり臆病になったりして導かれている安心感よりも思い通りにいかない不安に負けてしまうこともありました。しかしそんな時、いつも私の背中を押してくれたのは「導き」であったと確信することができます。
この導きは一体どこから来るのか、それはご縁から訪れます。誰といつ出会い、どんなことを感じるのか、その豊かさの中に自分の種から芽が出てその芽が育ち実をつけます。そして円熟したら次の種になるという具合です。
こうやって一つ一つのご縁を育てていたら次の導きが入ってくるのです。
そう考えてみると、私たちは自然の存在として周りの生き物たちと同様に自然と一体になってめぐりの中で生き死にを繰り返しながら自然の導きによって暮らしをしながら生を謳歌していきます。
この世に生きている以上、道理として自然に逆らうことはできず私たちは自然と共に生きて活かされています。導きに生きることは自然なことであり、利己的に生きることは不自然であるのはわかります。自然の生命はみんな自然の導きという絶対安心の境地の中で楽しく仕合せに豊かに生きることがゆるされているのです。
誕生してから今まで私はどのような「導き」があったか、そしてこれからどのような「導き」があるのか、選ばない人生を選択しただけで心はいつも平安無事です。自然の流れや導きに身を任せることが、自分の身を浮かばせて悠久のめぐりに入る方法です。私が研ぎ澄まされた清浄な「直観」を信じるのもまた、その導きを私の利己心で穢したくないからに他なりません。日々に己に克つ理由は、天から与えられた使命、その本物の人生を送りたいからです。
引き続き、この先どのような導きをいただき、また四季のめぐりを残りあと何回体験させていただけるのかわかりませんが常に謙虚に素直に学びを深く味わいながら一期一会の暮らしを感謝と共に歩んでいきたいと思います。
ありがとうございました。