能力主義の刷り込みの一つには「優秀」であるという評価があります。その優秀さとは学校でいえば全教科で高得点を取り、成績優秀、学校の思う人物像に近い人たちが選ばれました。
周りからどのように思われるかを優先し、周りがもっとも評価できる人物になることは優秀な人になることです。もしくはそこまでいかなくても、マジメにやっていればその評価から外れることはなく安心して平均内に収まっていることで「できる方」にいることができます。しかしあまり平均内にいると平凡という意識を持ち、能力が低いと自分に自信を失います。また平均よりも下になるとダメな人や知能が低い人などと評価されます。学歴も同じく、いい大学かどうかで優秀が決まるように能力は成績と結果によって評価されるのです。
優秀の対義語に劣等があります。これは他の人よりも自分が劣っているという見方のことです。劣等感がある人は、周囲の評価を気にしているからより優劣を意識します。周りから優秀と言われるために自分の評価を気にしてはマジメにやって優秀であろうとします。そのうちに自分の能力は、周囲の評価によって優劣を決める人になっていくのです。
本来の能力とは、他と比較するものではなくその人の個性です。しかし刷り込みを持つ人能力か個性かに分かれており、能力がある人は個性とか言いませんし、逆に能力が低い人たちが個性を言っているという具合です。つまり周りから能力が優秀であると評価されきた人たちはなかなか自分の個性を認めようとはしないのです。そして劣等感に苛まれている人たちは個性をいくら認めても本人がそれを個性だと認めようとしません。
この優劣をつけられて評価され、自分の能力ばかりを信じてきた人は常に周りのことも優劣で評価しますし、自分のことも優劣で評価しようとします。比較競走の刷り込みはこの優劣刷り込みのことでそのままでいいや、自分らしくあっていいは通用しないのです。
しかし、子どもたちを観ているとどの子もその子にしかない天の才能を持って生まれてきたのが分かります。木の葉に同じ葉が一枚もないように、指紋が同じ指紋が一つもないようにみんな最初から異なる個性を持っています。しかしその個性を天才とは呼ばず、そこに評価を入れて優劣を決めさらには障害などと呼んだりする。
動物で例えれば、うさぎと亀がいてみんな早く走らせて優劣を競うとすればうさぎが早いことはすぐにわかります。亀が自分が遅いといつまでもその競走で頑張ってもうさぎを超えることはありません。今度は水に潜ることを優劣で競ってもうさぎはどんなに頑張っても亀ほど水に潜れません。お互いがもって生まれた差異があるのに同じにしようということが無理があるのはすぐにわかります。
しかし人間はもともとみんな同じであると錯覚するあまり、本来の個性の意味が分からなくなっているのです。みんなが官僚にして政治家になったり今の社会システムのエリートになるために生まれてきたのならその能力評価一つで合う人間を育てていけば今の社会構造が保てると考えるのでしょうがそんな歪なものは長続きするわけはありません。
それぞれの個性、天才をどうみんなが発揮してお互いに競走するのではなく協働するか。そのためにはまずその能力主義や能力評価の刷り込みを捨て去ること、優劣で自他を裁く癖を改めることが先決です。
本当の優秀の意味は、「優」の語源は悲しむ人の側でその人の悲しみに心を痛めわが事のように悲しんであげる字を顕します。つまりその人物は「やさしさ、気遣い、思いやりの深さ」に対してとても「すばらしい、優れている」という意味です。そこが人よりも秀でているということ。
つまりは能力とは本来、誰かのためにと必死に自分を真摯に使い切る人たちが秀でていくもので劣等感や競争で得るものではないのです。自分から周りの人たちや助けたい誰かのためにや、困っている人たちのために、社会の役に立つために全身全霊で本気で身を投じていく人が能力が高まり秀でて「優秀」になるのです。
能力から入るのではなく、誰かを思いやり力になることから入ることが本来の個性を磨いていくことです。能力が個性ではないのです。だからこそ無能と呼ばれることを恐れず、役に立たないと周りから言われることを気にせず、ただ相手のために真心で遣り切っていく生き方を選んで本物の個性を発揮してほしいと願います。
本当のことを自覚し、改心していき子どもたちの勇気になる生き方をしていきたいと思います。