今の時代は物質的なもので幸福を手に入れることがすべてのようにテレビや新聞では報道されることがあります。現に人間には欲望も野心もありますから誰にしろ成功を求めて幸福を手に入れたいと願うものです。当人の野心が欲望が強いければ強いほどそれを欲しがり仕合せとはかけ離れた生活をしてしまうものです。自分に能力さえあればと能力を求めすぎるのも、他にも地位も名誉も権力もまた原点は幸福になりたいと思う野心や欲望から発しているものです。
そもそも何かの価値というものはその時代の「価値観」が決めます。その時代の価値観が何をもっとも幸福だと定義するか、その価値基準によって大多数の人はその時代の幸福を手に入れようとします。現代では成功者になることやお金持ちになること、有名になることや権力を持つことが価値があることだと信じ込まされているのです。
しかしきっと価値があると信じてそれを一度掴んでみないとわからないからと、本当の自分の価値観を捨ててでもそれを手に入れろうとすれば、その野心や欲望に呑まれ不平不満ばかりを募らせ世間の定義する価値の幸福を所有しているかどうかが仕合せだと勘違いしてしまうのです。
しかしふと、本当の仕合せとは何かと静かに思うときそれは決して能力や成果や成功などといった結果さえ手には入れればいいというものではないことに気づきます。その経過の中でどのような体験をするか、どのような仲間ができたか、どのような思い出があったかで人間は仕合せを感じます。つまりは経過、その物語をどのように創造したか、物語の中でどのように自分を磨けたかが仕合せの元になっていることに気づくのです。
昨年から暮らしの甦生に取り組む中で、人間の仕合せの意味が深まってきていますが本当の仕合せはどこか遠くにあるものではない身近な足元にあることに気づくのです。
禅語に「明珠掌に在り」という言葉があります。この「明珠」とは宝石のことを言います。「掌に在り」は「自分の手のひらの中にある」という意味です。つまり人間は仕合せを見失いがちだが、一番仕合せなものはもっとも身近なところにあると教えているのです。
例えば、仕事を道楽化することであったり誰かのために真心を盡すことであったり魂を磨いて人徳や人格を高めることだったり、つまりは努力できる仕合せというものがあります。努力が楽しいということほど仕合せなことはなく、自分のやっていることを天職だと受け容れ、その天命に従い使命を全うする仕合せはかけがえないのない価値です。
価値というものは、値する対価とも言いますがいのちを懸けるだけの対価に生きることができる歓びでもあります。人は遠くを見るばかりで本来の足元の幸福を感じなくなるのは、いのちから遠ざかるからかもしれません。もっと自分のいのちに向き合い、自分のいのちを何に使うか、自分のいのちをどう活かすか、いのちと出会う仕合せに目覚める方が本当の自分の価値に目覚めるように私は思います。
今の自分のやっていることはいのちを懸ける価値がある。
そう信じて生きている人は、世間の価値観はなんのそので自分の価値に生き切っていくものです。宝は常に自分の中にこそあると信じて、自分の天命に従い子ども心を見守りながら歩んでいきたいと思います。