子ども第一義実践の意味

人はそれぞれに魅力を持っています。その魅力とは、その人らしさのことでその人が唯一無二の個性をもって生まれてきたことの証でもあります。個性とは魅力そのものであり、その人らしくやりたいことをやっているときそれは最大に輝きます。その輝きがそのままで誰かの役に立つと知ったとき人間は本物の仕合せに出会うのです。

しかしそのためには、その自分の魅力や個性を引き出してくれる環境やそれが役に立つといった環境がなければ自分を活かすことができません。そのためよく自分に合ったところに移動して自分に合うものを探していくことも大切ですが、同時に周りの人の個性や魅力をどうしたらもっと活かせるかとみんなの仕合せも考える必要が出てきます。

最初は私は、できないことを必死にやろうとして自分を見失い個性よりも能力が高い人になろうと努力した時期がありました。能力さえ高ければ誰かに貢献できると信じ込み能力を高めましたが実際は能力が高くなっても使ってくれる周囲がないことを嘆き、自分の能力を使わない周りが悪いと矢印を向けていたこともあります。あの頃は自信がなく、誰かの自信を奪うような能力の使い方をしていたように思います。

人の自信や能力を奪うからこそ誰かから自身も能力も奪われてしまうのです。いい仕事がまわってこないと不平不満を漏らしたり、自分ばかり嫌な仕事がまわってくるなどと愚痴もまたこの奪うときに発生します。

しかし「人は与えられるとき与えられ、奪おうとすれば奪われる」ものです。この逆に人に自信を与えようと励まそう、みんなの個性を生かしはじめた時期になると個性があることが喜びになり、いろいろな持ち味の人たちがいることに感謝する気持ちになりました。

この持ち味とは魅力のことで、周りの魅力に感心しもっと自分も魅力を磨こうと思いはじめたのです。魅力とはその人の個性であり、例えば優しい人や明るい人、天然の人、よく気が付く人、一生懸命な人、などキリがないほど発見することができるようになりました。

そうするとどうすればその人の魅力や持ち味が生きるだろうかと考えるようになるのです。安心できる環境や、なんでもいい合える環境、みんなが異なる価値観や意見があることが有難く感じるようになっていきます。

思い返せば、奪う人生から与える人生への転換こそが魅力や持ち味の世界への入り口だったようにも思います。なぜ奪うのかといえば、ないものねだりをしては自分ができないことを自分が責めたり、自分にないものを無理に求めようとして自他を裁いたり、もしくはできないことは悪だと自分に罪や罰を与えて頑張り過ぎてきたことで奪う人生になっていったように思います。

与える人生はこの逆をやることです。つまりは、ないものは求めないであるものを活かす、できないことは悪ではなく全でありもっとできることが他にあると信じてできることを探すことや、頑張りすぎるのではなく肩の力を抜いて周囲を信頼して一緒に与え合う機会を増やすこと、誰も責めずにゆるすこと、つまりは自他はこれでいい、自分もあなたのこのままでいいと認めることです。

そうすれば人生は与える人生に変わり、その与えた自信の御蔭でまわりもあなたに自信を与えてくれるようになると私は思います。

煩悶とストレスを抱え、我慢して無理をして頑張っている状態こそ「奪う」状態であることに自覚しなければなりません。そんな時にはもっと「ゆるす」こと、つまり無理をせず我慢せず頑張らないことです。

刷り込みを取り払うのは諦めることからです。

いま、頑なに握っているものを手放しもっと楽になることです。私の時も、このまま頑張ってもたかが知れているなと感じて思い切って逆に舵を切ってみたことで新しい世界に出会いました。前例や常識やルールに縛られずもっと自由に自分のやりたいことや自分の魅力を信じてあげるといいと思います。

子どもたちが最初からそうであったように、大人になってしまった自分を手放し子ども心を取り戻してほしいと祈るばかりです。カグヤは子ども第一義の理念を掲げていますから、生き方と働き方を間違えないように実践の意味を深めていきたいと思います。