子ども心を見守る

人間には性格と個性というものがあります。性格はそれまで育ってきた育ち方が影響を与えますが個性は生まれつきのものです。個性を発揮していくためには、性格が歪んでしまって邪魔しないようにしなければなりません。

ではどのようにして性格が歪むのか、それは幼少期のトラウマや無理に感情を押し殺して本心と乖離して自分を誤魔化してきた期間の長さなどに影響を受けているようにも思います。

例えば、自分を家だと仮定すると建物でいえば本来は天に向かって柱など真っ直ぐに立っているものが何らかの力で歪んでくれば建物は次第に歪な形になっていきます。しっかりと土台を立てていれば揺るぎませんが、傾いてしまうと倒壊する可能性があります。このように自分の性格が歪んでいないかを確認して、歪んでいるところは直していくことで快適な家で暮らしていくことができます。

性格というのは直らないと信じ込んでいる人がいますが、歪んだ性格は修正していくことができるのです。本来の性格は、人格と同じく天性の個性のようなものです。しかし何らかのトラウマによってその天性の個性のまま(子ども心のまま)でいられなかった人がそのトラウマを解消することができるのなら歪んだ性格は素直に改善できるからです。

私はいつも「そのままでいい、変わらなくてもいい」とその人の個性や人格はあるがままであることを認めますが、しかし修正しないといけないものがあるという言い方をしてその人に改善を勧めます。

それは何を修正するか、それは歪んだところは直す必要があるという意味で伝えます。生き方の癖というのは、長い時間の歪んだ性格によって確立されてしまいます。それを修正するには、同様に新たな習慣の力を借りて改善するしかありません。

例えば、トラウマ体験の影響ですぐに自分はダメだと否定し、なんでも無理をして頑張って自分を責めるという癖がある人には、そのトラウマを意味づけしないものではなくあるものを観て自分で善かったと認め頑張らずに流れに任せてみるという具合です。

このように何度も繰り返し繰り返し、状況判断をするときに今までと逆のことをする。逆のことに舵を切ってみるという繰り返しによって、いままで歪んできた性格を修正していくのです。

性格の歪みが取れたならその人の人格や性格は素直になります。素直になれば、認められ、尊重し合え、信じられ、与えられ、喜ばれ、仕合せになります。素直さというのは、他人の話を聴けるようになりますし、自分が何をすればみんなが喜んでくれるかという励ましと豊かで美しい生き方に転換できます。

歪んでいるのを直せずにいるとますます性格は悪くなり、誰かのせいにしたり、言い訳ばかりしたり、文句ばっかりいったり、不平不満ばかりの楽しくないし自分らしくない人生になってしまいます。

一度きりの人生ですから、憧れる人や憧れる人生があるのなら自分の性格を運命だと諦めず素直になろうと覚悟を決めて歪みに気づいて歪みを正していこうと努力していけば必ず立ち直ることができると思います。

もともと人間は赤ちゃんの時は素直で子どものままで生まれてきています。大人なる過程で傷つくのは純粋無垢で優しい心を持っているからです。トラウマの体験は他の他人ではなく自分で善かったのだと一度丸ごと肯定し、それを修正し世の中で同じような体験をした人たちの応援をしようと決めれば修正に意味がついて立ち直るのも緩やかで和やかになると思います。

本来の天性の個性が発揮され一人ひとりがみんな輝けるように、子ども心を見守り続けたいと思います。

バランス

人は自分自身を認めるということは何よりも大切なことです。その理由に、自分を認めることができなければ何が自然で何が不自然かが分からなくなっていくからです。自分自身のことを自分が認めなければ、その分、その中心軸はズレていきます。中心がズレれば何がズレたのかわからなくなりますから傍で観ているとおかしなことをしているなと客観的に思えることでも本人はおかしいと思わずに変なことをしてしまうのです。

例えれば、ピンボケしたカメラのようにいつまでも焦点が合わずに何を撮りたいのかもわからないという状況です。体も同様に、歩き方をはじめ生活習慣病まで何かがおかしいのにそれに気づかなければ対処していることが間違ってしまうこともあります。本来の中心軸を取り戻さなければ結局は、無理をして体を壊してしまうのです。

野球をはじめスポーツにはコーチという存在がいます。自分がやっている癖を修正してくれる存在だとも言えます。何が自然で何が不自然かは他人が客観的に観た方が正確に読み解くものです。自分では気づかない自分の癖や、自分では何が元なのかわからなくなってしまっていることも周りの人の方が感じる感じるものです。自分が一番自分のことをわかっているという人は、自分を認められている関係がある人です。自分を否定し自分を認めない人であれば、素直に他人のいうことを聴いた方が修正がスムーズにいくのです。自分を認められない人は自分の声も聴きませんが、他人の声も聴きません。その状態を頑固というのです。

頑固な人は、自分が一番自分をよくわかっているし自分が間違っていないと思っている軸に合わせていますからその自我に負けて認められない自分ばかりが強くなりズレが大きくなっていきます。その証拠に我が強くなり、感情に呑まれるか認めないからより一層頑張ったり無理をしたりの悪循環を繰り返します。

まずは自分がズレているのではないかと慎重になって他人の話を耳を傾け素直に聴くことでしょう。百歩譲っても、聴かないよりは聴いた方が間違いなくおかしなズレは直せますし、教えてくれた方もその後も気にしてくれてアドバイスをくれるからです。他人様はみんな素直な人には親切なのです。

そして頑固に自分は間違っていないというのが、その人の限界になります。そうなるとズレは直せず成長が歪んでいきます。しかしこのズレは生きていく上でバランスを保つために必要でどんな人でも必ず発生してきますから素直さを磨き、ズレをすぐに修正する修練を積み重ねていくことがよりよく生きることに大切だと思います。

引き続き、ズレを見つめて自然と不自然を学び素直さと謙虚さを磨き自然体であることを大切に成長を続けていきたいと思います。

歴史の本質

歴史を深めれば深めるほど、それは人間と自然との関わり方の変化を学び直すことを感じます。自然と共に生きるか、自然から離れて自然を反故にして生きるか、自然と人間との関係こそが歴史の本質かもしれません。

私たちは現代においても、人間としての生き方としてどうあるべきかを歴史から考え直す必要があります。今の時代は特に自然を蔑ろにして人間がもっとも価値があるような考え方で自然を征服しています。

例えば、農産物においても工業製品のように製造され、その製品を大量に生産するためならその製品以外のものは過激な殺虫剤や農薬で排除していいというような考え方です。

司馬遼太郎さんの言葉にこういうものがあります。

「人間は--くり返すようだが--自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。」

歴史の中で人類が失敗し滅亡の危機に陥るのはこの自然との関係を間違えたときです。その時こそ、人災や災害が訪れ人類滅亡の危機が訪れるのです。それを忘れ自然を蔑ろにしてはいけないと歴史は語り掛けてきます。

また日本の哲学者の柳田謙十郎にこのような言葉もあります。

「人間の歴史は自然と深い結びつきにおける対立と、たたかいの歴史であるということができる」

自然と対立するのか、共生するのか、人間だけが自然から離れたことでいつまでも争いがなくなりません。本当の平和とはなにか、歴史は静かにいつも人類を見守り続けている存在なのです。

そして司馬遼太郎さんは子どもたちにこう語り掛けます。

「--人間こそ、いちばんえらい存在だ。という、思いあがった考えが頭をもたげた。二十世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。同時に、人間は決しておろかではない。思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考えである。このことは、古代の賢者も考えたし、また十九世紀の医学もそのように考えた。ある意味では平凡な事実にすぎないこのことを、二十世紀の科学は、科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。二十世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、二十一世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。「人間は、自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている」と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように思われる。この自然へのすなおな態度こそ、二十一世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。」

本来の自分がどのようにして出来上がってきたかを知るというのは、自分が自然の一部であって自然に由って生かされていることに覚めるということです。

例えば、稲作など自分の先祖から今まで自分が食べてきたものを作ってみるという行為や、自分の生まれ育った風土の中で風土の一部になってみることでそれに気づけるものです。

自然と人間が調和し本物の平和が訪れるよう、それぞれで歴史を学び直し、先祖との対話を続け、一人ひとりの目覚めを待つしかないのかもしれません。ただそこに歴史があることに感謝し、子孫の繁栄や地球との共生に感謝してこの場を見守っていきたいと思います。

歴史を学ぶとは何か

御先祖様のルーツを辿ることの意味はいくつかあります。その一つに、日本とはどのようにして為ったのか、そして今の自分がどのようにして為ったのかという歴史を学意味です。

学校で試験のために歴史を学んだ人は歴史を知るというのを単に年代や名前を暗記して記録を知ればいいと思っている人がいます。そうなってしまうと歴史の話をしてもピンとくることもなく、何も感じることがなくなります。知っていることといえば、年号を語呂合わせていうことはでてきますがその年代にどのような物語がありどのような過去からその出来事が発生するに至ったか、その至ったことを誰がどのように関わって今になっているか、壮大なドラマには決して思いを馳せないのです。福沢諭吉が「日本国の歴史はなくして日本政府の歴史あるのみ、学者の不注意にして国の一大欠典と言ふべし。」と言っています、この日本国を自分の御先祖様に換えればわかると思いますが周囲の人たちの歴史への違和感のなさにその刷り込みの深さを感じるばかりです。

昔から一流の人たちはみんな歴史を学んだといわれます。その理由は、この先を観通し過去の失敗を改善し自分たちが真摯に子孫のために自分をどう活かせばいいかを真剣に向き合ってきたからです。歴史を学ぶ意味は本当に掛け替えのないものなのです。そして今は、すぐに歴史になりますから歴史とは過去から今につながってそれが未来に向かっていく大切な学問なのです。

ドイツの政治家ビスマルクの有名な言葉に「愚者は経験学び賢者は歴史に学ぶ愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。」とあります。

これは逆説ですが、経験も大切なことですが歴史を学べば先人の体験からどうなるのかということを学ぶことができるということ。歴史を反省して未来を築くことができる、今と未来は歴史に学べということです。

歴史を学ばない人は、一向に未来が改善されていきません。何度も同じことを繰り返しては何でだろうと思うだけで進歩があまりありません。しかし歴史を学べば、これではいけないと悟り未来を変えていくことができるのです。

昔から60年に一度、戦争が起きるといわれる理由や、人間はそのままにしておくと必ず人災が起きることなど、歴史を教科書にすれば近未来は観通せるものです。そのためにどうあるべきか、何を悟り行動すればいいかを賢者は考えるのです。

先祖の歴史を知ることは、自分の過ちを正すことになり、先祖の人生を懸けた体験からどう生きればいいかを学ぶ本当の教科書です。学校で教え込まれた歴史ではなく、まさに自分の人生のために活かし学ぶ歴史であるべきなのです。

岡倉天心が言う「われわれは、われわれの歴史のなかにわれわれの未来の秘密が横たはつてゐるといふことを本能的に知る。」こともできるのです。

先祖を深める家系図を辿り歴史を学ぶことは、自分の人生を学ぶことなのです。

私は先祖のことを調べて、それを書き記しましたがその書き記したものでは周囲はただの暗記物を越えません。このことを私がこの先の人生にどう活かしたかを見せることで、子孫たちに歴史を学び伝承することの大切さを感じてもらえればと思います。

 

先祖の心

今回、数日間御先祖様の歴史を調べながら歴史と対話をする歓びと仕合せを感じました。歴史は今につながっていて、本当に大勢の人たちの物語がつながって今の私を存在させていることが分かります。

天祖の頃から、様々な出来事の中でこのいのちや血脈、そして志を繋いできてくださった方々がいるから私も志を持って生きていくことができます。志は歴史を学ぶことで改めて確固たる信念になるように思います。

私も歴史を学ぶことで根とつながり、その養分が自分の心身に流れ始めたような感覚を覚えました。根無し草とは何か、それは歴史を学ばずに自分の代のことしか考えないで生きていることかもしれません。

司馬遼太郎さんが歴史をこう語ります。

『「歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という人生がとこにつめこまれている世界なのです。」と、答えることにしている。 』

自分のいる世界以外に、偉大な世界が別にあると思えることは壮大な浪漫です。そういう何億という人生が入っている世界の中の一つに今の私があるというのは奇跡です。そして、

「私は、歴史小説を書いてきた。もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している」

歴史はまさに御先祖様の存在、両親と同じようにいまでもあたたく見守ってくださっているのです。

その司馬遼太郎さんが21世紀の子どもたちに遺した遺言があります。その一つに、鎌倉武士たちの生き方が書かれています。今回、私も御先祖様のルーツを調べていく中で鎌倉武士の生き様に感動したところが多くありました。素朴で素直ながらも、しっかりと自己を確立していく、その歴史の醍醐味を学びました。最後に紹介します。

『鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、たいせつにしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。人間というのは、男女とも、たのもしくない人格に魅力を感じないのである。

もう一度くり返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分にきびしく、相手にはやさしく、とも言った。いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、”たのもしい君たち”になっていくのである。

以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていく上で、欠かすことができない心がまえというものである。

君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。

同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。』

たのもしい子どもたちになっていくよう願うのは、人間が歴史によって磨かれていくのを知っているからかもしれません。まさに先祖の心、先祖の願いそのものを書いてくれているようで有難い気持ちになりました。

私も子どもたちのために、頼もしい生き方ができるよう自分に厳しく他人には優しく、思いやりと真心、ゆるしの精神を高めて歩みを強めていきたいと思います。

 

 

志の根

先祖のルーツを辿っていると、壮大な浪漫を感じるものです。かつて司馬遼太郎の本を読んだとき、その浪漫の面白さに心惹かれ歴史の醍醐味を知ったことがあります。その司馬遼太郎の言葉には、学問の本質について記されている言葉がたくさんあります。

「心を常に曇らさずに保っておくと、物事がよく見える。学問とは何か。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である。」

ブログを通して体験を深め、その意味を記していくこともまた学問を磨くためでもあります。物事の実相がよく観えることができれば、真心を活かしていくことができるからです。

またこういう言葉もあります。

「人間には志というものがある、その志が人生の味だ」

人間は同じ人間であっても志が異なります、その志の質量こそがその人の人生の醍醐味になるのです。

「人々にとって、志さえあれば、暗い箱の中でも世界を知ることができる。

どんなに窮屈で暗い中にあっても、志にはなんの影響もないといいます。

「志を守り抜く工夫は、日常茶飯の自己規律にある」

志を立てることができても、それをすぐに引っ込めたり出したりしているうちに人間は自ら立てた志を自ら壊してしまうものです。そうならないためにも、日々に自らに約束したことを自らが貫徹して守ることで志は守られていきます。

「人の一生というのは、たかが五十年そこそこである。いったん志を抱けば、この志にむかって事が進捗するような手段のみをとり、 いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、 その目的の道中で死ぬべきだ」

「何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから。

「業なかばで倒れてもよい。そのときは、目標の方角にむかい、その姿勢で倒れよ。

志を優先して生きることが、人生を面白くするということを述べています。まさに志のままに歩むことは、自分の天命を知り天命に任せて生きるということかもしれません。

最後に、歴史についてこう語ります。

「私は歴史小説を書いてきた。もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。歴史とはなんでしょう、と聞かれる時、「それは、大きな世界です。かって存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです」と、答えることにしている。私には、幸い、この世にすばらしい友人がいる。歴史の中にもいる。そこには、この世で求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。だから、私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。」

ここで司馬遼太郎さんの志に触れられたことに感謝しています。根っことのつながりが一体どういうことを意味するのか、私も子どもたちのために書き遺していきたいと思います。

 

 

 

ご縁を活かす力

ここ数日、郷里の先祖の足跡を辿っていますが不思議な由縁に驚くばかりです。今までなぜここにこの神社があったのか、なぜこの地名だったのか、そしてこの遺跡があったのか、それが一つずつがつながって全容が顕れてきます。

バラバラだった情報が一つにまとまっていく面白さと感動は一入で、一つ辿れば一つのヒントが顕れそれを辿ればまた一つの出会いがある。こうやってご縁を辿っていくと、如何に今まで自分と関係が深かったものを知らなかったのかと自分の無知に驚くばかりです。

最近では、神様と同じようにご先祖様というものの存在も失われきつつあるように思います。祖父母の代までは常に家には仏壇があり、毎朝毎夕、事あるごとにお線香をあげては拝んでいた背中を見てきました。

今ではあまり大人たちがそのような姿をしなくなってきたからかご先祖様に疑問をもつ人たちも少なくなってきたように思います。ご先祖様がどのようなルーツを辿って今に至るのかを知ることは、これからの自分がこの先どのようなルーツを辿ればいいのかの大きなヒントになります。

そして自分の名乗っている姓には、どれだけの思いや願いや祈りが籠っているかを知れば自分の姓名に誇りと偉大な自信を持つこともできるように思います。何気なく書いていた苗字が、2000年以上前からのものであり、何気なく自分に備わっている能力が長い年月を経て磨かれて受け継がれてきたことを知ると、頭が下がります。

御先祖様が観える人は、御先祖様の存在を常に確認しながら生きている人たちです。毎朝毎夕拝んでいる人は、知ら知らずに見守ってくださっている御先祖様の徳恵を身近な暮らしのなかで常に感じています。

縁故の助けであったり、土地の助けであったりと、拝めば拝むほどにそのつながりが観えますからさらに拝みたい気持ちが湧いてくるのです。

拝みながら生きていく人たちはご縁を活かす人たちです。

柳生家の家訓に、「小才は、縁に会って縁に気づかず。中才は、縁に気づいて縁を生かさず。大才は、袖振り合う縁をも生かす。」があります。

まさに報恩感謝の心をもって生きている素直で謙虚な人たちは、拝む実践によってご縁が観えているのでしょう。ご縁を活かす力は、目に観えないものを信じる力が必要です。同時に自分が見守られていることを信じる力も必要です。それはご縁を大切に一期一会に生きる実践によって支えられているのです。

引き続き、ご縁を大切にしながら子どもたちのためにも御先祖様に恥ずかしくない真心の生き方をしていきたいと思います。

語り継ぐもの

先日、ふとしたことから先祖の家系図を創ることになり色々と調べていますが壮大な物語に身震いする思いがします。約2000年前から現在にいたるまでの系譜を辿っていますが、よくぞここまで文献が遺っているものだと深く感動します。

各地域には所縁の土地があったり、遺跡があったり古墳があったり神社があったりと、足を運びその場所を調べていきます。不思議ですが、文献ではわからなかったことが、口伝で教えられたり、その土地の遺跡の周辺の伝記に書かれたり、歴史の一つ一つから辿っていけば見えてきます。

特に足を運ぶことで、懐かしく感じたり、そういえばとむかし自分がよく行った場所や、心休まる場所、過去に助けてもらった人たちや、今でよく仕事をしている人たちの姓が繋がっていることに気づくのです。

先祖は今でも子孫を見守ってくださっていると、調べれば調べるほどにに伝わってきます。その温もりややさしさは、拝まずにはおられず今まで気づかなくて本当に申し訳ない気持ちになります。

御先祖様を大切にとはよく言われましたが、ここまで見守ってくださっていると感じたのは今回系譜を辿っている中で実感しました。こんなにも幼い頃から私のことを見守ってくださっていたのかと、知れば知るほどに真心が感応していきます。同時に、自分が日ごろから先祖を感じていたことを思い出し、心安まるときはいつも身近に先祖の存在や御導きを感じていたことを実感したのです。

見えないチカラというのは、御蔭様のチカラのことで、御助けのチカラとも言えます。私たちが何かをしようとするとき、御先祖様が導いてくださっているのです。また御先祖様が、子孫にしてほしいことを伝えてくるのです。語り継ぐこともまた同様に、先祖がいつまでも御役目を忘れないようにと子孫に語り掛けてくるのです。見守られているのを忘れてはならないと訴えかけてくるのです。

御役目に出会うのは先祖との邂逅に出会うことです。

私の人生は一度、ここで終わり、先祖との邂逅で二度目が始まった気がします。愛は巡り、真心は伝わり続けます。子どもたちのために、譲り遺せるものを伝承し、語り継ぐものとしての御役目を果たしていきたいと思います。

 

かたちなきものへの思いやり

先日、島根の美保神社に参拝する途中で境港市を通る機会がありました。ここは「ゲゲゲの鬼太郎」の作者の水木しげるさんが生まれた故郷です。私も幼い頃からこのゲゲゲの鬼太郎が大好きで、いろいろな妖怪たちの存在を身近に感じたり、人間と妖怪がどのように仲良くできるかとそのつなぎ役として鬼太郎が悩む姿に共感したことを覚えています。

目に観えない世界を描き続けていると、目に観えない世界があるかのように思えるものです。かたちあるものとかたちなきもの、かたちなきものへの畏れが失われた現代において妖怪の存在はどこか懐かしく感じるものです。

今の時代は、目に観える形があるものしか信じなくなりかたちなきものの存在はあまり大切にされることはありません。それは単に幽霊や妖怪の存在だけでなく、ご先祖様や神様など目には観えないけれど確かにいて自分を見守ってくださっている存在のことを感じなくなっているようにも思います。

かたちがないものは、自分の信じる気持ちがなければ存在を感じ難くなるように思います。かたちなきものへの思いやりを持っている人は、路傍の御地蔵さんや、過去に大切な出来事があった場所の前を素通りすることはありません。存在を確かめ一礼をし、お導きへの感謝を述べて通っていきます。

かたちなきものは確かにこの世に存在すると信じる人は、いつも目には観えないけれど確かにあるご縁を辿っていくことができます。ご縁を活かす人というのは、目に観える世界だけを信じません。目に観える世界と目に観えない世界がつながっているその中間に存在しご縁をその両面から捉えていく力があるのです。

私は幼い頃から子ども心に、かたちがないものを信じてきました。妖怪の存在や幽霊の存在、そして先祖の存在や神様の存在など常に自分と一緒にこの世にある存在として共に歩んできました。その心は今でも失っておらず、物へも接し方一つでさえまるで生きている人のように接します。特に懐かしい古いものや、出会えた仕合せを感じるもの、そしてご縁が深いものは特に家族や親友のように思えるからです。

人間はかたちなきものへの畏れを失うとき、傲慢になります。

もう一度、伝え聞くむかしの日本のように目に観えないかたちなきものをみんなが畏れるような世の中にならないかと願うばかりです。そしてその心を持った人たちが信じることで、かたちなきものへの思いやりもまた広がっていくでしょう。

たとえ、奇人変人や宗教だと罵られても子どもたちのためにも、私自身が常に堂々と「かたちなきものへの思いやり」をもって一緒に生き切り、これからの未来の純粋な子ども心のためにも見守っていきたいと思います。

人類の希望のため

人間はどれくらいのスパンで物事を観るかでその行動の本質が変わっていくものです。その人が100年単位で物事を観るのか、1000年単位で物事を観るのかで観え方が変わるからです。短期的にしか物事を見なくなってきた現代の風潮の中で、長い目で物事を考えて行動する人のことが分からなくなるのは仕方がないのかもしれません。

かつての日本は七世代先のことを考えて今を行動するという指針があったそうです。七世代といえば約300年くらいですがせめてその頃の子孫のことを慮り自分がどのような暮らしをしていけばいいかを考えたのでしょう。

私の場合も、なぜ暮らしの復古起新をとか、なぜ自然を味方にとか、やっていることには民家の甦生からお米作り、そして見守る保育という生き方の伝道、さらには初心を磨き伝承することなどをしていますがなかなかやっていることの本質が他人には理解し難いものかもしれません。よく不思議で変なことばかりしてと指摘されますが、長い目で観たらどれも今、必要なことしかしていません。

それに「子ども第一義」という理念を掲げる以上、子どもの今から発想を組み立てますから短期的なことは後回しになることが多いのです。もちろん短期的なことは、現代の課題を解決するために具体的な保育環境を変えていきますが、本来は子どもの仕事だからこそ1000年先のことを考えて今をどう生き切るかを考えなければならないのです。そして人の世には道理として因果律がありますから自分がどのようなことを今するかで未来の姿が変わっていくことを自覚しなければならないのです。

特に子どもたちの保育環境においては重要で、私たちが用意した保育環境によってそれを舞台に次世代の子どもたちが新たな時代を切り拓いてくれます。その時に、連綿と受け継がれた根のチカラを使い活かせるのか、それとも養分が断裂された根無し草のようになるのか、それではいよいよこれから世界が一つになり和合していくぞという変化の中で日本人の特性が活かせません。

希望というのは、子どもの未来のため自分のエゴを少し置いてでも徳を積み環境を整えていくときに出てきます。それは一つは仕組みといった智慧の伝承もあるでしょうし、他にも真善美といった日本人としての生き様もあるでしょう。

そういうものを少しでも遺し大切に譲っていけば、いつか子どもたちは舞台で大躍進を遂げ、活躍していきます。その舞台の未来には、主役も脇役もなく、一人ひとりが全員主役として共生して仲睦まじく助け合い思いやる社會を創造してくれるでしょう。

・・・本当の平和とは何か。

もう一度、今の世代の人たちは愛されてきた子どもたちとして、そして愛する子どもたちのために少し立ち止まって長い目で物事を観て自分と向き合ってほしいと願います。

引き続き、人類の希望のため、自分のできること、自分にしかできないことで人類の平和に貢献していきたいと思います。