荘子に「無用の用」という言葉があります。これは一見、何の役に立たないように見えるものでも、かえって役に立つこともあるという意味でこの世に無用なものは存在しないという言葉です。
もともと荘子は、老子に学び老子を語るのですが老子が「埴をうちて以て器を為る。その無に当たりて器の用有り」といってこれは粘土をこねてつくる器も一見無用だがこの空間があるから器が作れるとも言いました。それに荘子は、続けて「人は皆有用の用を知るも、無用の用を知る莫きなり」と語るときにこの「無用の用」が出てきます。
古民家甦生のなかで、柳宗悦の「用の美」について少し深めたことがありますがあの実用的な日常的な暮らしの機能美のことだけではなく、荘子の無用の用はすべての自然には何かしらの意味(美味)があり存在価値があるということを言っているように思います。
空間というものを深めていけば自ずから感じるものですが、私たちは常に空間の中に存在しているのはすぐにわかります。その空間の中に置いてあるもの、もしくは空間の中に存在しているものが引き合ってその場は生まれます。
何かを飾ってみたり、配置を移動してみるとさらにわかるのですがそれがあるだけで安心したり、不安になったり、調和したり、不自然だったりと感覚で察知していくことができるものです。
日本家屋は特に空間を大切にしていて、床の間にはじまり和の空間はどれも整然として凛とした佇まいを醸し出しているものです。これらは空間の中に一見、意味のないようなものがあったとしてもそれが全体と確実に繋がっていることを感じます。
そもそも役に立つ立たないとは、それを用いる人の主観と能力、判断があって用いているだけで他の人であれば別の用に用いる人もいます。誰かの一方的な主観(自分を含めた)もので、用を差別することが不自然であるということです。
路傍の石ころでさえ、その石がそこにあるだけで意味があると思えている人にはこの荘子の無用の用の自然の理が観えているように思います。
自分らしく生きていくことは、自分の天命を自ら全うするために自分を遣り尽していくことのように思います。言い換えるのなら、そこにそれが存在する理由は天のみぞ知るという具合でしょうか。
無理に用立てようとすればするほどに、無用なことをして周囲をかえって惑わすこともあるのです。自分はこのままでいいと焦らず、自分の志や初心、そして心が感じるままに自然に委ねて生きていけば自ずから無用であることの中に、偉大な用があることに気づきます。
「どんな風に用いられても、そこには確かな使命がある。」
子どもたちがそう信じて一人ひとりが自立して安心して生きられる世の中になるように、自立のモデルを示していきたいと思います。