以前、知覧にある知覧特攻平和会館を訪問する機会がありました。そこでは、特攻隊の方々の生活や遺書、そして遺品など様々なものが展示されておりました。私たちは今、何気なく生活をしていますが終戦間際、日本や子孫のために命を懸けて死んでいった方々の祈りや願いの上にこの平和な暮らしが存在していることを忘れてはならないと思います。そしてこの特攻隊の教訓から一体何を学ぶのか、それをきちんと子孫へと伝承していく必要を感じます。
私がこの特攻で憤り悲しいのは、戦略なき戦術、戦術なき戦略、何もできないからいのちを捨てろと幼い子どもたちに特攻をさせたことです。神風は、奇跡を起こすために一か八かの戦略ではなく元寇のときなどもあらゆる戦略を駆使し、その時代の侍たちが夜襲をかけたり、土地の理を活かしたり、相手の武器に対応したり、また国民のみんなが祈り願うことで危機を乗り越えていた最中に起きたことです。まさにこれも戦略であり、戦術に適ったものであったのは明らかです。つまり人事を盡していたからこそ真心が天に通じて奇跡を呼び込んだのです。いのちを粗末にしない、いのちを尊ぶからこその神風なのです。
しかしこの終戦間際の特攻は、そういった戦略も戦術もなく、ただいのちがけでいのちを捨てて突っ込めば何らかの奇跡は起きるだろうという安易な精神論を走らせ、人事を盡したわけでもなく真心があったのではなく、幼い子どもたちを死地に向かわせていきました。こんな無知無策の状態でいのちを投げ出させるようなことは決して指導者や指導部にあってはならないことです。負けるとわかっていて、無謀にいのちを捨てさせるということがあっていいのか、それは敵と戦うよりも卑劣で卑怯な行いで絶対にあってはならないことです。
そして軍神などと褒めたたえ、無理に死なせておいて終戦後に今度は無駄死にだったと蔑む、こんなことが果たしてゆるされていいのかと憤りを感じます。道徳として、こんな犠牲になった先祖たちを忘れたり蔑ろにしたりそういうものは人間としてあってはなりません。
今の時代はすぐに戦争のことを書いたり、靖国神社のことを書けば、勝手に偏見でこの人はこういう人だとレッテルをはられます。しかし、よく考えてみてください。もしも自分の親や自分の祖父、もしくは子どもや孫が、誰かの卑怯な作戦で死んでそれをなかったことにされたり、そうやって騙されながらも素直に犠牲になったものを弔わずに蔑むなどはありますか?あるはずはないはずです。
非道さや不道徳さというのは、むかしから私たち日本人のもっとも忌み嫌い恥ずべきところです。仇討ちに見られるように、私たちは人間として道に照らして外道であることは恥だと生まれる前から持っている道徳なのです。
道徳というものは、当たり前すぎて議論にもなりませんがそういう当たり前のことを自分の頭でよく考えて、自分なりに歴史の真実と向き合い、生き方を見つめ直す必要があると私は思います。
今の時代は、周辺国との関係が次第に悪くなり戦争の機運も高まってきています。もう一度、歴史に学び、どう生きていけばいいか、何を教訓にするか振り返る必要があると思います。子どもたちが悲しい歴史をまた体験しなくてもいいように、今の私たちができることを真摯に取り組んでいきたいと思います。