日本人の教育の原点

日本の民話や昔話には、深い智慧がありそれを読み聞かせることで子どもたちはそこから様々なものを直観するものです。特に終わりがはっきりしていない物語ほど、考えさせられることが多くなぜという意味を感じさせるものばかりです。

特に、日本の昔話や民話は動物たちや妖怪、幽霊や鬼、また植物などをはじめすべてのものが擬人化されて語られます。八百万の神々といって日本では、どんなものにもいのちが宿っているとして当たり前にそれが民話や昔話で語られます。

つまりは日本人の価値観として、無生物といわれる「物」に至るまでいのちがあると信じているということです。

もともと「物体」とは、「物」の「本性」という意味です。この「体」とは、そのものの本体のことを示します。物体とはいわば、そのものの本性のことを示しそのものの本性は何かということを現わしている言葉です。そして「勿体ない」という言葉は、そのものの本性が消失すること、つまりは本体のハタラキが消えてしまったことを指します。

物の本性は「いのち」ですから、そのいのちが失われてしまうことを勿体ないとむかしの日本人は言いました。すべての物にはいのちが宿っていくからこそ、そのいのちを失わないように大切に使い切っていこうとするのです。

供養があるのは、そのいのちのハタラキが消えたものたちに対しての思いやりと感謝でありむかしは当たり前にそのいのちを観ながらその物を活かしていたとも言えます。

現代は、物にいのちがあるとか言うとすぐに気味が悪いと煙たがられたりまだ使える懐かしいものでもゴミのように簡単にポイ捨てしまう世の中です。むかしの日本人の価値観が失われていくことで、八百万の神々といった価値観や日本人の文化もまた塗り替えられていくように思います。

昔話や民話を大人が子どもに読み聞かせることは、大人も子どもも日本人の価値観を学び直して文化を習熟していく伝承の仕組みです。改めて子どもの頃に読んだ話や聴いた話を思い出しながら子どもに言い聞かせていると自然に子どもの頃に感じていたことや直観したいのちを思い出すことができます。

大人になって知識が増えて、子ども心に当たり前に観えていたものを忘れてしまった頃にもう一度思い出すことは大切なことです。そして子どもから学び直し、子どもと共に先人たちが出会った出来事から学んだ大切な道理をまるで絵本を読むかのように自然に習得していくという教育方法は道理に適います。

これは学校で試験やテストや受験で学ぶ教育とは異なり、好奇心のままに愛情深い真心が水が真綿に沁み込むように自然に智慧が入っていきます。

この智慧の伝承の仕組みこと教育の本質であり、日本人の学び方だったのかもしれません。

色々と現代はテクニックでエリート教育が過熱していきますが、本来の教育とは何のためにあったのか、そしてどのようにしていたのか原点回帰する必要性を感じています。

引き続き、子ども第一義の理念に取り組んでいきたいと思います。