変わらぬ思い

昨日、聴福庵にタマリュウ(玉竜)を植えました。このタマリュウ(玉竜)は「ジャノヒゲ属」に分類され「ジャノヒゲ(蛇の髭)」は別名「リュウノヒゲ(竜の髭)」と呼ばれます。よく間違えられますがタマリュウはリュウノヒゲの中の1品種です。

このタマリュウ(玉竜)は、葉も綺麗ですが花を咲かせ美しい青い実をつけることで知られます。そして古くから縁起のよい植物として重宝されてきたといいます。薬としても知られており、鬚のような根のところどころにある小さなイモのような部分は、麦門冬という生薬となり、強壮、咳止めに効果があるとされています。

また本州以南に自生するユリ科の常緑多年草であり、以前近くの山の中で採取したことがあります。本来は、葉が長いものが多いのですがこのタマリュウは園芸用に葉が短くなるように改良されてきたものです。

松と同様に冬にも枯れずに青々と光る葉が美しいと感じたのかもしれません。また夏の日照りにも強く、繁殖も強いこともあるのでしょう。むかしから日本の先祖たちは、身近に縁起が良いものを置き、その福に肖ることで様々な福を取り入れてきました。

福はもともとはすべて自然の中にあるものでその自然の福が豊かであるようにと願い祈り続けて子孫を繁栄させてきたのかもしれません。禍転じて福にするという諺にあるように、私たちは常に福を意識して心の持ち方や生き方を学び続けていくのかもしれません。

このタマリュウの花言葉は「変わらぬ思い」「深い心」「不変の心」。いつまでも初心を忘れずに子どもたちのために復古起新するぞという決意と共に聴福庵を見守っていきたいと思います。

努力を楽しむ

昨日、自然農の田んぼにいくとお米がイノシシに荒らされて見るも無残な状態になっていました。今年は順調に雑草の除草もタイミングが良く行え、収穫を安心して見守っていた矢先の出来事に唖然としました。

普段は入ってくる場所でないため池の水が、この猛暑で干からびていたのかそこから侵入してきたように思います。田の神様の石像も倒され、無残な田んぼの状態に落ち込みましたがこれも自然の姿だと心を転換しています。

考えてみればこの場所は、他には田んぼはなく山の麓に一カ所だけです。野性的なところで雑草も強力で少しでも草刈りを怠ればあっという間に野草や雑草で覆いつくされます。鹿やイノシシだけでなく、狸など野生動物しょっちゅう侵入してきます。そこで農薬も肥料も機械も用いないで自然農を行うのだから、様々な野性の力の抵抗を受けてしまいます。

もう10年以上稲作を実践していますが、ちゃんと収穫できたのは2回ほどで心が折れたことなどはキリがないほどです。その御蔭か、今回もこれだけの被害を受けても立ち直りまた別の対策を考えてみようと前向きに捉えています。自分でもこの自然農の失敗の御蔭で困難に対する免疫がついているのを実感します。

そう考えてみると、収穫というのは決して単なる結果だけではなくその過程において忍耐力や転換力、楽観力など失敗することで備わる力もあるように思います。天が強くしてくださっている、天が育ててくださっていると素直な心もまた育つようにも思います。

自分では大丈夫、安心だと思っていても今回のように油断が隙をつかれることもあります。一晩よく振り返ってみると「兆し」はありましたし手入れもまたしておけばと後悔もありますが自分で決めた初心や求める気持ちは一層強くなり、もっと自分自身が野性の方へと感性を研ぎ澄ませていきたいと感じました。

野性の中で行う自然農法だからこそ、野生側の環境から学び直すこともある。鈍ってしまった自分の感覚や感性をさらに野性に近づけて本来の自然の力を取り戻していきたいと感じます。さらに植物に近づき、より動物に近づき、人間の手の入れ方や関わり方、共存共栄の智慧を学び直していきたいと思います。

この自然の厳しさの中に身を置き、智慧を絞り出したいと思います。

失敗は感情を含めて、自分の中で変化を与える切っ掛けになりますからこの気持ちのままに変化を味わい努力をたのしみたいと思います。

頑張る意味

人間は時として長所が短所になり、メリットがデメリットになったりします。例えば、志や理想が高すぎる人、責任感が強すぎる人など、過ぎれば過ぎた分だけ魅力もありますが同時に、そのことから自意識過剰になって苦しみ、反って自他共に苦しめる原因になっていたりするものです。

自分を等身大の自分ではなく、身の丈を超えた自分になることを設定すれば自分というありのままの姿を認めることができなくなります。過度に理想の自分に期待したとしても、そんなに一足飛びに理想の自分になれるはずがありません。そのために頑張りすぎるほどに頑張り過ぎますが、その無理が自分というものの本当の実力の認識を歪めたり、自己否定ばかりが増え自分の自信をも奪っていくものです。

あるがままの自分の認識を持てるというのは自意識過剰ではないということです。ここでの自意識過剰とは理想の自分と現実とのギャップが気になり他人の評価や他人から見られる自意識ばかりが強くなりよく見せようと頑張ることを言います。そのままの自分、あるがままの自分を愛してもらえる安心感を捨ててまで自分が思っている理想の自分像を周囲に押し付けようとします。次第に完璧な自分を演じることが疲れを増大させ、そのことからさらに人間関係を円満に築くことが難しくなっていくのです。

高い志や理想がある人は常にギリギリのところを目指して頑張ろうとします。真面目であればあるほどに責任感に押しつぶされそうになりながら無理をして頑張ります。頑張るとは無理し苦しみの努力することだと幼少時から刷り込まれていますから、頑張ることが楽しくありません。

本来の頑張るとは、ありのままの自分で努力し今を楽しむことであり、その経過やプロセスを味わうことです。頑張りますというのは、私の言葉に言い換えるのなら苦しみの中にある喜びに挑戦しますということでしょう。そうやって努力を楽しむためにも無理をせず自分一人で抱え込まず、自分にできないことはみんなの協力を借りて一緒に目的に向かって挑戦していこうとするのが頑張ることの意義だからです。つまり頑張ることは一人で抱え込んで無理をすることではなく、自分にできないことを周囲に力を借りてでも達成していくという意味です。

そのために、応援するときに使うガンバレや仲間への励ましに一緒に頑張ろうという言葉もあります。本来、自分自身においても自我だけで無理をすることで自分のできないことをやるのではなく、ありのままの自分で肩の力を抜いて真我と協力してやってこうとすることであり、お互いに「もっと自然体でいこうね」というのが本来のガンバレの意味なのです。

どこでどう意味が変わってしまったのか、、きっと画一的な教育や比較競争、閉塞感のある社會の中で刷り込まれたのかもしれません。今の時代はガンバレというと、無理をするとになりますから、「あなたのままでいい、あなたのままがいい」や「ダメな分だけ魅力がある、できない分だけ仲間ができる、短所こそが長所である」などと意味を置き換えて認識する必要があります。安心して自分らしくいられる社會の時のガンバレの意味と、不安で自分のままでいられないときの頑張れの意味がこうも変わってしまうというのは残念なことです。

自意識過剰や自己中心的でで苦しんでいる人たちが増えているのもまた、多様性を認めない今の時代背景が影響しているのでしょう。

子どもたちがあるがままで今を楽しみ今を生き切れるように、自他を認め見守る社會を創造していきたいと思います。

 

本律的組織~自他律一体~

組織には自律型の組織と他律型の組織があるように思います。簡単に言えば、自立型は主体的に自らで律することを優先する組織、他律型は受動的に他に律されることを優先される組織であるとも言われます。自律型は自らで責任をもって自らの意志で実行しますから元来から持っている自分の力を発揮しなければなりません。しかし他律型の方は、自分の元来の力を使わなくても周りに合わせていくことで調整していきます。

これは体に置き換えればすぐにわかりますが、体温調節をするのに空調に頼って自分の体を使わずに空調によって行うのか、それとも自らの体に備わっている温度調節機能に頼って行うのか。これを組織でいえば会社に依存して行うのか、それとも自分事として自ら主体的に自立して行うのかということです。体でも自分の元来の力で生きている人はとても元氣で楽しむ気持ちも高いものです。逆に自分に都合のよい便利な環境の中でぬるま湯につかっていたら体も弱るし楽ばかりを求めて怠けてしまいます。あまり自分を怠けさせないことも充実した人生を送るうえで大切なことです。

今の時代は、異常気象でもありますから便利な道具も必要な時には使いますがほどほどにしないとその便利な道具によって身を亡ぼすこともあります。だからこそ自己自律が必要なわけで、常に自らがバランスを保ち続ける必要があるのです。そして自と他というものは、本来は簡単に分かれているものではなく一体であったものです。

この自他一体になるというのは、律することにおいては自他律一体ということです。これを本律と定義してもよいと思います。本律とは、道理とも言い換えれます。道徳道理に従い行動する基準をみんなが持つということです。

自分か相手かという考え方はそもそも道理にズレるものです。全体調和や全体快適といった、すべての生き物は循環し全体とつながり活かされるものですから当然常に全体のことを思いやり自らを律して他を思いやりながら生きていく必要があります。人間には集団をつくるその根幹には「何のために組織をつくるのか」「何のために協力して共に生きるのか」という目的や本質があるのです。

その本質を守り続けるために本律がある。その本律の維持と研鑽が、真に道徳的で自他律一体の組織を醸成するのです。自律とか他律とかどちらがいいとかわるいかとか議論する前に本律がどうなっているのか、よく正対してみる必要があります。

人はまず何のために生きるのか、そして何のために働くのか、それを一人ひとりが自覚していることで律は働き始めます。そのために組織のリーダーは、自ら本質を学び、初心を定め理念を掲げ、本質がブレないように学び続けて精進していく必要があるのです。

謙虚さも素直さもまた、その本律的生き方が顕れたものです。

マニュアルをつくり他律で管理しようとしたり、しつけばかりをして自律で管理しようとしたり、そういうことをする前に自分自身が本質を保っているかを管理する方を優先することで組織もまた本質的になって自他律一体になるのでしょう。

目的を忘れない、初心を忘れないための工夫をみんなで一緒一体になって取り組むことで本律的組織は実現します。引き続き、風土改善の提案を深めていきたいと思います。

人生の仲間

人間は物事に取り組むときに、「自分事」になっているか、「他人事」になっているかという観点があります。どこか相手の問題で自分にはかかわりがないと線引きしていたら、結局は本質的にその人の問題を一緒に解決することができません。

何かに取り組むとき、それを単に仕事の一つとして捉え、どこか相手がやることになっていて自分はあくまでそのサポートでとうことであれば全体の解決のプロセスをチームで進めることはできないのです。

先日、あるリノベーションの会社の記事を読んでいたらその経営者が「自分が其処に一緒に住む」という覚悟で仕事に取り組んでいるという話でした。その方は、それまではクライアントの依頼に応えるだけで、如何にクライアントにメリットがあるかと考えて仕事をしていたといいます。もちろん、仕事のクオリティも高くお客様も満足してくださっていたそうですが数年後にその建物にいくと結局はその人抱えていた問題は解決もせず、自分が手掛けたものが活用できていないという事実に直面したといいます。

その時、最初はそれは相手に問題があると考えたそうですがそれでも何件も同様の建物を見るにかぎって自分に矢印が向いたそうです。果たして自分は「自分事」であったかという自分への矢印です。どこかビジネスだと割り切って他人事にしていたのではないか、本当の一緒にやっていたかと思うと大きな反省があったそうです。

これは今の世の中の世相を現わしている気がします。結局は何かに取り組むときに自他を分けて一緒にやっていないで相手の問題になっているから自分が提案しているものはあくまでもビジネスとして自分の立場を守るものになってしまい覚悟が決まらないのです。一緒にチームで取り組む覚悟もなく、ただ単に仕事をするだけであれば本質的な問題を一緒に解決に向かって協働したことにはなりません。

こういう仕事は、仕事のための仕事であって人生を一緒により善くしていこうという本質的な関わりはできません。

「自分事」だと思っているかというのは、前提が人生で一期一会に一緒に生きていきたいという「何のために働くのか」という生き方が定まったものであり、それは自他一体の境地で一緒一体に生きていく同志ということになります。自分の人生を懸けて取り組んでいく仕事を一緒にやることはそれ自体が美しく、その結果は単に成功以外の大きな喜びや仕合せがあります。

分けないという生き方、自他事一体として生きていく力には人生の主人公としての力が必要なのです。

今のような自他が完全に分けて考えられているような時代、コンサルティングをする上で決して間違ってはならないのは決して他人事にしないことです。もしもこれが自分の会社だったら、目の前の人が自分だったらと、自分に置き換えることができるからこそ本質的な本物の協業が実現するのです。

人は協力者があるからこそはじめて偉大なことができます。

いい人との出会いが、人生を唯一無二のものにします。一緒に生きていく人生の仲間を大切に人生として関わっていきたいと思います。

居場所

人は自分の居場所を感じることで心が安らかになるものです。しかし自分の居場所がなくて辛い思いをしている人もたくさんいます。過剰に周りを反応を気にしたり、どうせ自分のことは嫌われると決まっていると思い込んだり、もしくは本当の自分をつも我慢して無理をしていたりすると余計に居場所がなくなるものです。

そもそも居場所というものは、自分が居てもいいとゆるせる場所のことでもあります。ここに居てもいいとゆるされているというのは、自分のあるがままでいいと自分が感じられるということです。

自分のダメなところばかりを自分で指摘し、自分がダメだから居場所がないと思い込んでしまうループは余計に居場所をその人から奪うものです。こんな自分でも仲間は許してもらえる、こんな自分でも愛してもらえるといった自分への受容は、そのまま周囲の人たちへも居場所を提供することになります。

実際に自分の居場所がないと思い込んでいる人は、同時に周りの人の居場所もなくしてしまうような対応をしてしまうことがあります。例えば、自分から本音を隠して我慢すれば同時に相手の本音も遮断し相手に無理をさせていくという具合です。

だからこそ、自分のような存在を認めてくださっているという周囲の思いやりや温もりを感じたり、同時に自分からどんな欠点や弱点、短所がある人のことを愛する訓練が必要です。それは言い換えれば、丸ごとの自分を愛することやあるがままの自分も許してあげるという受容がいるのです。

一円対話の中で、傾聴、共感のあと受容があります。この受容とは、すべてを丸ごと認めてあげることでそのままでいいとゆるしてあげることです。言い換えれば、その人の長所も短所も転じてあげて認め褒めたたえるということです。

理想が高い人はすぐに自分を責めていきます。自分の身の丈を超えて努力してきた人ほど、理想との自分と現実の乖離がゆるせないものです。そのために自分を責めては、「これではダメだ」と自分自身に鞭を打っていきます。そうやって自虐を続けているうちに自分の中にも居場所がなくなり一人になってしまいます。

内面の自分との関係を良好に保つことができなくなれば受容することはできません。受容するためには、常に自分との対話を通して「ゆるす」ことで認めそこからお互いにカバーし合って助け合っていこうねという風土を醸成していく必要があります。

仲間と助け合う風土は、ダメ出しするのではなく認めて肯定しゆるすことで生まれます。自他を責めず、そういう時こそ「課題が見つかってよかった」と認めたり、「長所が分かってよかった」とほめたり、「学び直していこう」と改善したりすることで居場所はできます。

比較競争社会の中で、居場所がなくしている真面目ないい人たちが苦しまなくていいように家族のようなぬくもりのある社會に近づけていきたいと思います。

何をするかよりも何のためにやるのか

人間には大きく二通りのタイプがあるように思います。それは何かをするときに、何をするのかを考えるタイプ、そして何のためにやるのかを考えるタイプです。前者は、やることが目的であり結果を出すことが大事です。後者は、なぜやるのかが目的であり何のためにやっているのかというプロセスが大事です。もちろん本来は両方とも大切ですが、この順番がどうなっているのかで物事の本質が変わってきます。

この「何のために」ということは、自分自身の初心を確認するものです。例えば、同じ質問であっても何をして働くのかと何のために働くのではその問いの意味が異なります。

何のためにというのは、働くことへの原点でありその気持ちがあればどんな職種であっても仕事であってもあまり影響はないとも言えます。しかしこれを自分と向き合っていなかったら何をするのかが重要であり、業務や職種に依存してしまうことにもなります。もちろん、何のためにと追求していくのなら次第にその人の仕事が本質的になりますから業務も職種も近づいていき気が付けば相応しいものになっています。

つまりは人間を観るのに大切なのは、その人の肩書や立場、結果ではなくその人がなぜそれをするのか、そしてその人が何のためにそれをするのかを確認することです。

それを観ずにしてやっていることだけを見ていたらその人間が本当はどのような人物で何をしたいのかが分からなくなります。そしてこれは当然相手だけではなく、自分自身にも確かめ続ける必要があります。それもまた初心なのです。

初心の確認というのは、お互いに本質的であり続けようとする確認でもあり、人生の方向性を見誤ることがないようにお互いにそれぞれ何のために生きるのか、何のために働くのかを忘れないようにし、その人の本質を観続けて助け合っていこうとする相互理解・相互扶助の道徳の仕組みなのです。

私たちが行う一円対話は、聴福人が本質を問い続け何のために働くのかを忘れないために初心の振り返りを行うのです。人間は、忙しくなりすぐに流されて心を亡くしてしまうと初心を見失います。何のために働くのかを忘れるから、心が疲れてくるのであり、何のために生きるのかを忘れるから好奇心が減退し面白くなくなってくるのです。

常に本質を見失わない工夫こそが、人格を高め人格を磨きます。真実の人たちを守っていくことが子どもたちの未来への偉大な布石になります。

引き続き、何をやるのかではなく何のためにやるのかを発信し続けてこの世の中に本物の価値を伝承していきたいと思います。

まちづくりの原則~復興の本質~

かつて二宮尊徳は荒廃した村を復活するのに、優先するのは「心田開発」であるといいました。その理由は、先に心が荒廃するからその結果として村々の荒廃があるというのです。よく考えてみるとこれは現代のまちづくりでもまったく同じことが言えます。

なぜ過疎が進み荒廃していくのか、そして都心でもまちが乱れていくのか、それはそこに住む人たちの心が大きな影響を与えています。例えば、まちづくりであればそれぞれが主体的に暮らしを整え、美しい生き方や、心豊かに生きようとするのなら、その場所は次第に暮らしに向いていく場所になります。しかし、そこに住む人たちの心が荒んでいけばゴミを捨てたり、周辺住民と紛争ばかりを繰り返したり、不平不満や不安や恐怖を感じていたらそのまちは荒んでいくのはわかります。これはすべてにおいて人々の「徳」の影響が出ているのです。

別に今と昔は大差なく二宮尊徳のいた時代も同様に、村が荒廃するのはその村の人たちが心が先に荒廃していくからその結果として村が荒廃したのです。今の時代も同様に、まちの人たちの荒廃がまちの荒廃になっているのは自明の理です。まちを治したいのであれば何を治すのか、まちづくりのするのならその大前提になっている価値観そのものを丸ごと転換しなければならず、前提が変わらずにちょっとやったくらいでは焼け石に水なのです。だからこそ二宮尊徳の時代も為政者に覚悟があるかどうか、本気で腹を決めたかどうかを大切にしたのです。

どんなまちにするのか、どんな村にするのか、それは村や町をどのように経営していくかという視点が必要です。それは会社経営と同様に、どのような会社にしていくか、その覚悟を決めたら、その理想に向けて社長を中心に社員と協力してコツコツと取り組んでいくしかありません。そういう地道な努力があって最終的には物事は開花しますから何を目指しているのかどんな未来にしたいのかと定めたら、あとは時間と努力の掛け算があるだけです。

例えば、株式会社でいえば数字だけを追っかけて社員の大切にせず利益だけのために過酷なノルマを課していればブラック企業のようになります。これはまちづくりも同じで、財政赤字の解消のために町民を大切にせず利益だけのために税金ばかりを課しているのならブラック行政になります。会社ならそこに働く人たちは心身が病んだり、退職や転職をし、その会社も衰退し倒産します。これはまちづくりも同様のことが置きます。原理原則や法理というものは、別に会社やまちに関わらずすべて自然の摂理ですからそのままのことが起きるだけです。

会社経営ならば、よく一人ひとりの社員の声を真摯に聴き、どのような会社にしたいかを定め、みんなで協力して協働しながら安心して働けるような環境に変えていく。そしてその会社で暮らす仲間たちやお客様が仕合せになるような働き方をみんなで一緒に実践して心豊かに日々の努力のプロセスを楽しんでいく。そういうことを同様にまちづくりでも行えば必ずその「まち」は会社経営と同様に時間の経過とともに善くなっていきます。

そういう意味では、誰の会社なのか、誰が経営しているのか、なぜそうしたいのかということが観えない「まち」が多いように思います。そもそもの理念がはっきりしない、そして誰にも浸透していない、何のためにそれをやるのかをみんな知らない、個々がバラバラで好き勝手やっているのではまちづくりなどできるわけはありません。何を優先するかも定まらないのでは、その取り組む順番など無茶苦茶で未来のグランドデザインなど組めるはずもありません。

二宮尊徳が村々を復興させていた時代も、村の荒廃によって住民たちが苦しみました。住民が苦しんで貧困の極みにおいて、報徳仕法という仕組みが実践され村々は復興しました。その時、二宮尊徳が一体何から取り組んだか、まちづくりに取り組む人たちは目先の効率や流行りばかりを追っかけるのではなくもう一度、復興の本質を深く見つめてほしいと思います。

私も子ども第一義の理念で取り組んでいく以上、子どもたちが自立して安心して暮らせる世の中を譲り遺していきたいと思います。引き続き、むかしからの日本的経営と暮らしの甦生を復古起新しながらできることをコツコツと取り組んでいきたいと思います。

 

完璧主義の罠

以前、シェル・シルヴァスタインの「僕を探しに」という絵本を読んだことがあります。内容は「何かが足りない それでぼくは楽しくない 足りないかけらを 探しに行く」、そのためにころがりながら、歌いながら、足りないかけらを探しだしていくというテーマです。具体的には、いろいろな欠片を埋めるためにいろいろな欠片とくっつきますが、そのどれもがしっくりしません。自分の欠片と思っていたものが、違う苦しさに出会います。

そしてようやくぴったりの欠片を見つけて完璧な存在になります。しかしそれもつかの間の喜びで、最期はやっぱり欠片があった方の自分のままでいいと転がり続けていくというような内容だったと思います。

真面目な人や自己評価が低い人は完璧を目指し、自分にできないことを人に求めて苦しんだり、他人にできないことを求めたりして非常に苦しむことがあります。自分の身の丈を超えたことを自他に求めては、どうにかならないかともがき苦しみ転がり続けます。

本来は、完ぺきではないからこそチームが必要なのであり、欠点や欠陥があるからこそ周囲と協力するということが生まれます。しかし根底に自分が完璧でなければならないと思い込んで自他に求める人はその方法を選択せずに自分の努力や能力だけを頼りに乗り越えようとして結局は崩れていくように思います。

この完璧主義の刷り込みは、過信や傲慢さを生み、分を弁えず自他を責め続けるという悪循環に陥ります。自分が完ぺきではないと認めることができない限り、本当の意味で自分の長所や短所を受け容れられず、周囲の人たちの長所や短所も観えることもありません。考えすぎて苦しみ、頭痛ばかりが増えても一向に改善することもなく、もっとも身近にいる協力者にまで苦しみの連鎖を与えてしまっているのを自覚し早々にその刷り込みを手放す必要があるように思います。そのためにはいちいち考えて頭痛ばかりを繰り返す前に、その前提になっている自分の生き方を改善するしかありません。それは具体的には「大きな努力で小さな成果」を積み重ねていくという生き方にすることです。これは鍵山秀三郎氏の言葉です。

「いますぐにできないことは、時間と手間をかけてやる。一人ではできなことは他人の助けを借りてやる。この方法ではできないと思ったら、別の方法を考える。方法も変えないで、一人でできないことを一人でやろうとして、いますぐにできないことをすぐに求めても、それはないものねだりにすぎません。私の人生観は、『大きな努力で小さな成果』を求めていくということです。得られるものはたとえわずかであっても限りない努力を重ねていく。成果が少ないことに甘んじるわけではありませんが、少なさに耐える気持ちが大切だと考えてきました。」

この逆に小さな努力で大きな成果を出そうとするのは、誤っていることはすぐにわかります。それが強いからこそ、できないことを自他に求め、不平不満ばかりを並べては自他を責めて矢印を向け言い訳や文句ばかりを並べてしまうのです。本来は「その成果までのプロセスの努力の価値」が重要であって、それを根気よく継続すれば必ずいつかは成果に辿りつくと信じて日々に精進していくことがもっとも全体にとって価値があるのです。

また同様の話に将棋の羽生善治氏がNHKのプロフェッショナル 仕事の流儀の番組で「プロフェッショナルとはどういう人だと思いますか?」という質問に対して「細かいこと、それをたとえば一日1時間、20年間やれと言われたら大変ですよね。本当のプロフェッショナルとは、そういう努力を続けられる人だと思います」と言っておられました。

このように小さな成果のために大きな努力を惜しみなくできることが、そのままの自分を理解して完全になっていくことであり、自分の欠片ばかりを探しては完璧になろうと思い大きな成果ばかりを求めて探し続けてもそんな欠片は見つからない、もし見つかってもそんなものが本来の成果ではなかったと気づく日が来るのです。

むしろ人はみんな何かしらの欠点があった方がいい、その方が魅力が引き出されていきます。全部悪いところを取り除けば、何の欠点のない人になるのかもしれませんがそれは同時に何も面白くもない人になってしまいます。マジメなのはいいことですが、完璧になることがいいことではないのです。

欠点があるからこそ、仲間にカバーしてもらう。自分にできないからこそ、みんなで力を合わせて乗り越えていく。まさに欠点のままでいい、自分のままでいいという居場所がその人の魅力や持ち味を引き出していくのです。

完璧主義の罠に嵌れば苦しいだけです。コツコツ努力することは自分でできるのならそれだけは続け、自分にできないことは人の助力を受ける努力をすればいいのです。

本来目指している、子どもの憧れる会社、そういう生き方のために自分自身の刷り込みを見つめ直して改善して同様に苦しむ人たちのために貢献していきたいと思います。

共感のやさしさ

人間は、時として一人では乗り越えることができないような困難や葛藤に出会うことがあります。不安や恐怖から、誰かに支えて貰わないと前に進むことができないようなこともあります。そういう時に、心に寄り添ってくれる人や、心の支えになってくれる人が救いになって様々な壁を乗り越えることができることもあります。

見守るということもまた、相手の心に寄り添うことで実現するものです。

しかしこの寄り添うと思いながら頭で寄り添ったつもりになっていて考えているだけで心は着いてきていないこともあるように思います。相手のことを考えていることが思いやりではなく、心を寄り添い、心で近づき、心で共感し、心から相手の心を自分に同一化するほどに受容することができてはじめて寄り添っているとも言えます。

人間は頭でなんとなくきっとこうだろうと思い込んで頭で考えて行動しても心は着いてこないことがほとんどです。頭で考えることは共感とは異なります。共感は例えば、相手が痛い思いをしていたら自分も痛いと感じる心、また相手が悲しみで泣いていたら一緒に泣いているような心、相手が自分と同化するほどに気持ちが伝わり感応するのです。

よくカウンセラーなどが共感してのちにアドバイスをしますが、もしもその人が頭で計算しながらやっているのならその場しのぎの対応になるだけでその人の人生を一緒に乗り越えるほどの支えにはなりません。共感しながらも自分の人生体験から励まし勇気を与え信じ見守るという過程は、真心の行動が伴わなければならないのです。

頭で考えることと真心は異なります。相手の苦しみに寄り添う時間や、相手の困難に共感する時間、すべてはじっくりと心が寄り添うために自分から心を寄せていく「共感のやさしさ」が必要なのです。

この「共感のやさしさ」を磨き続ける人こそ真心の人であり、そのやさしさが具体的な行動になり具体的なアドバイスになり具体的な見守りの環境を創造するのです。

慣れてしまい共感から入るのを怠らないように常に自戒し、心を用いてどのような人へも接していきたいと思います。共感のやさしさを失わないように丁寧に心を寄せていく工夫を行っていきたいと思います。