人間には恐怖心というものがあります。どれが怖いかは人によって異なります。例えば、飛行機が怖いという人、蜘蛛が怖いという人、幽霊が怖いという人、病院が怖いという人、それぞれに怖いという感覚は異なります。本人が怖いと思っていても、周りはどうにもなかったりしますから意思疎通が取りにくくなかなか大変なものです。
この怖いという感覚が身に着くのは、先天性のものもあるのでしょうが、幼少期や過去のトラウマ体験であったり、もしくは何かを見知りしたことを怖いと決めつけていたりします。怖いと思っているからこそ、マイナスしか見えず、不安からその怖さが何十倍にも増幅します。怖いという感覚がすべての器官を鋭敏にしてしまうように思います。
この怖いという感覚は、命を守るための危険予測でもあり経験値から本能でそれを避けるようにできているとも言えます。自然災害の畏怖などはまさにこの危険予測であり、自然の怖さを知っている人は災害時に助かる確率が高くなります。このように自然の畏怖を忘れないことは命を守るために大切なものです。
しかし、恐怖を克服しなくてはならないような時、どうしてもそこを避けては通れないようなときは私たちはその恐怖に立ち向かう必要があります。例えば、病気や怪我のリハビリであったり、夢や目標の実現のためであったり、自分が成長していくためには避けては通れない体験であったり、その時はこの恐怖の克服が必要です。
実際には、恐怖の克服は何度も何度も練習して恐怖を感じないように擦るしかないといいます。私自身の体験でも、怖いけれどちょっとずつ練習して怖くないと言い聞かせながら取り組んできたことが多いように思います。それに過去の記憶に頼らずに、現在だけに集中して体験を刷新し続けたようにも思います。むかしできなかったことや、昔は知らなかったことが今はできるようになり、新しいことを学んだとき、その恐怖は薄れたことが分かります。
記憶の調整や、感覚の工夫は、この薄まっていくという工夫のようにも思います。その逆に、大切な忘れたくないことや信念は濃くしていくという工夫のようにも思います。
畢竟人間は、自分自身をどう創り上げていくかという自主錬磨でありその錬磨によって削り磨き光らせたりしながら目指す理想に向かって鍛錬していくしかないのでしょう。
薄れてくれば、恐怖を乗り越えて立ち向かう勇気も沸いてきます。怖いけれどそれを超えても実現したいという信念や夢は濃くしているか。そして何度も繰り返し挑戦して恐怖を薄めているか、常に正対しながら今を生き切っていきたいと思います。