私たちは光を見て、物を確認することができています。これは光を見て脳が認識しているとも言えます。光が一切入ってこない真っ暗闇の中では何も物は見えません、それは光がそのものに反射しないからです。私たちは光の強弱などによってその物体を立体的に脳が認識して捉えることができるのです。
不思議ですが、その光が差し込んできて出てきた物体を見ると時にはそれが美しく感じ、時にはそれが儚く感じます。光というものを通して、その物を透かし見ているのかもしれません。光はいのちを透過させるようにも思います。
この光を見るためには、感性を磨く必要があります。言い換えれば、磨くことで光を観る感性が豊かになります。例えば、どんなものでもしっかりと磨けばそれは光ります。それが砂浜の砂であっても、貝であっても、または骨董品のようなものであっても、綺麗に磨けばそのものは光ります。
この時、光るのは私たちが光を観る感性が磨かれているからです。何も磨かなければただ眩しいだけですが、しっかりと磨いている人にはその感性によって光が本質を映すのが観えるように思います。
私たちは、四季の暮らしの中で様々な光を観ています。その光を観ることで、同じ空間であっても気配が全く異なり、同じ場所であってもまったく違った景色を観ることができます。つまりは、光を通して日常の一期一会を味わっているのです。
その光は、磨かれる場所や磨いている場所でこそ光そのものの美しさが出てきます。この光が集まる場のことを人はパワースポットと呼びます。つまりこのパワースポットとは磨き切られた場所のことを言うのです。
自分を磨く人は、その場によって磨かれた自分の感性を静かに見つめます。そして未熟さを知り、また磨き直していきます。このように神社や場を巡ることは、光に出会う旅路でもあります。そして光は私たちの生き様を通して灯りになります。
いつの時代も光を求めて人々は、集まりそして感性や魂を高めていきます。いのちのテーマは、永久不滅の理です。それぞれのいのちを活かし、子どもたちの持ち味を見守り続けられるように私自身の光を磨き灯りを守り続けていきたいと思います。