暦の甦生

私たちが何気なく使ってる「月日」というのは、暦から来ているものです。何月というのは月の運行のことで、何日というは太陽の運行のことです。地球が今、太陽の黄道のどの辺にいるのか、そして月が今、どの位置になっているのか、天体を想像しながら季節と自然のバイオリズムを観察しているのが月日でもあります。

この月日も、むかしは銀河系が宇宙のどの辺を巡っていてその銀河集団がどの位置にあるのかまで観通したかもしれません。すると宇宙月日となったかもしれません。現代人間は日々に忙殺されてつい天体を眺める時間も少なくなってきましたが、かつての人たちは夜になれば天を仰いで星々の流れを見つめる時間が多かったのでしょう。

そもそも月を基準にしている暦は漁業においてメリットがあり、太陽を基準にしている暦は農業においてメリットがあります。むかしは、自然の中で暮らし自然を理解しながら食べ物を確保していたり時期を逆算して事業に取り組んだことから月日を選んで何事にも取り組みました。例えば、六曜などもありますが吉日や縁起を担ぐのも少なからず自然の影響を受けているからかもしれません。

このように暦は常に私たちの暮らしと密接にかかわってきます。暮らしは自然と一体になる生活を指しますから暦がとても重要なのはすぐにわかります。現代のように自然から離れて生活すればかつての太陽太陰暦は意識しなくても済んでしまいます。

日本人の先祖や、人類の祖先が築き上げてきた智慧を今に活かすのが本来の子孫の役割だと思います。子どもたちが有事の時、地球で生き残っていけるように暦を学び、暦を甦生し、暮らしを温故知新していきたいと思います。

暦の知恵

昨日、聴福庵の夏の室礼を片付けて秋冬に向けての準備を行いました。旧暦では現在は秋の真っただ中でそろそろ中秋の名月を眺める時期に入ります。現在ではスケジュールやカレンダーなどの数字を元にしたものでなんとなく季節を推察していますがむかしの人たちは二十四節季といったものを用いて感覚で理解していました。

この二十四節季は太陽の動きをもとにしてつくられています。太陽が移動する天球上の道のことを黄道といい、その黄道に合わせて24等分したものが二十四節気です。まず黄道を夏至と冬至の「二至」で2等分にします。そして春分と秋分の「二分」で4等分になりその中間に立春、立夏、立秋、立冬の「四立」を入れて「八節」とします。その一節を45日に分けてこれを15日ずつに3等分したらちょうど「二十四節気」。さらにそれを5日ずつに3等分し、時候を表したものが「七十二候」といいます。

旧暦では、これを用いて現在の季節がどのようになっているのかを判断していくのです。

むかしの人たちは太陽と月の動きを観て季節を判断してきました。今のように自然をあまり視ずスケジュール管理が優先されたりカレンダーのみの数字で生きていたらあまり太陽とか月の影響を感じなくなっているのかもしれません。

むかしの暦は、八十八夜などというように立春から何日目という具合に数えていました。自然の四季の巡りを通して、今が何の季節かを感じ取ったのです。決して9月に入ったから秋なのではなく、春からどれくらい経っただろうかを感じ取り、そろそろ秋の支度をしようと季節を待ったのです。

太陽や月の運行に合わせることは、地球のバイオリズムやバランスに自分の方を合わせていくことです。そのことで自然の一部である体の調子も整い、そして精神も穏やかになり、四季のめぐりの有難さと現在の地球の様子などを直観することができたように思います。人間は自然と一体になるときに心が安心して歓びを感じます、そしてその自然と暮らすことが一度しかない人生を豊かに楽しむことになるのです。

改めて旧暦を思う時、スケジュールやカレンダーから入ろうとするからその数字の刷り込みに頭が支配されてその意味が理解できなくなることが多いように思います。その時は、一度、太陽や月と地球の位置のこと、立春から考えること、巡りをイメージすることなどを工夫してみるといいのかもしれません。

日本人の先人たちが長い歴史の中で培ってきた暦の智慧を暮らしの中で復古起新して未来の子どもたちのその智慧を伝承していきたいと思います。

枯山水庭園~澄んだ真心~

聴福庵の箱庭には、白川砂を用いた砂利が敷かれています。この白川砂の白川とは、京都府京都市北東部、左京区を流れる川のことです。比叡山と如意ヶ岳の間に源を発し、京都盆地に流れ出てからは南へ向かって琵琶湖疏水に合流し、さらに南西へ向かって鴨川に注がれる全長 9kmほどのことろに花崗岩地帯から白い砂を流してくるので白川と呼ばれていました。今では条例でこの砂は採取できなくなっていますが、この砂が白川砂で御所、社寺などの庭園にはよく使われています。京都では銀閣寺をはじめ、有名な寺院の庭園は室町時代以降ほぼすべてで白川の砂が使われているといいます。

この白川砂が用いられた枯山水庭園は、禅の思想が入っています。禅宗寺院の方丈の南側には儀式をとり行うため清浄を意味する白砂を敷き詰めた「無塵の庭」がありました。そこが庇のある広縁が儀式の場に変わり、さらにその場が室内となったことから、南庭は儀式に用いられなくなったそうです。そこで瞑想や座禅の場にふさわしい造景として枯山水庭園へと発展していきました。

この枯山水庭園を簡単に言えば、水を使わず石、砂、苔、といった要素を用いて山水の風景を表現する庭園の形式のことをいいます。

日本人の美意識の一つとも言われる「わび・さび」には、この白川砂は欠かせないものです。現在は、採取できない関係で岐阜県産などもありますが特に「さび」が入った白川砂は温かみもありながら澄んだ光を放ち、独特な庭の爽やかさと優美な和かさを感じます。

情報化社会で日々に追われるように生活していく現代人において、この質素でシンプルな枯山水庭園を見つめる時間は、内面の自己とも触れ合う時間になり心が落ち着いてくるものです。

聴福庵は、「澄」にこだわっているからこそ枯山水庭園もまたその心澄むことに対する大切な演出の一つです。自然の持つ美しさ、その心に映る澄んだ真心を枯山水庭園で表現していきたいと思います。

 

清らかに生きて豊かに暮らす

昨日は、千葉県神崎にある「むかしの田んぼ」で無事に御米を収穫することができました。無農薬であることはもちろんのこと、無肥料で育てているため通常の御米よりも実の量は少なく小ぶりですが健康的に生きる力が凝縮しているお米は美味しく、心身を澄ませてくれるものです。

今回は、仲間と共に田んぼの真ん中だけを刈り、そこにゴザを敷き田んぼに祭壇を設け、竈を設置し御飯を炊いておむすびを握り、またたくわんなどの漬物の燻製や、汁椀などを炭を使って料理してみんなで食べました。

祭壇には四方を青竹で囲み結界を設け、稲木といって収穫した稲をはさかけし、その手間には日ごろ使っている鎌の供養も行いました。また私たちの家名の幟も立ててみんなで車座になって団欒を楽しみました。

宴の余興としては、ドジョウ掬いの安来節の衣装と、早乙女の衣装を着た仲間と、伝統の農家の衣装を揃えた私も参加し、寸劇などを撮影したりして豊かな収穫祭を味わいました。

現代の農業は、便利な機械や農薬や肥料などを用いて効率が上がり時間も短縮することができるようになりました。しかしその短縮された時間は、今度はもっと大きな収穫を得るために拡大を繰り返し、時間が元よりもなくなってしまいました。機械化で便利さを追求するあまり、大勢で一緒に取り組んでいた農業も一人で済むようになり、働くことも作業のようになってきました。すると、お金を稼ぐためにはと農協などの問屋の検査に適うように見た目のよいお米を作り効率も上げるために農薬を大量に使い、収量を増やすために肥料を大量投入するようになりました。そうすると資金が目減りし、もっともっとと機械化し拡大することでさらに経営が悪化するという悪循環に入り農家になりたいという若い人も減ってきています。

本来、日本の農業は豊かなもので仕合せなものでした。それはかつての原風景の中に遺っているように、みんなが笑い稲を一緒に育てていく中で豊かな時間を過ごしていました。

確かに効率を上げて時間が確保できることはいいことです。しかしその効率を上げて時間を確保したことで、その時間を何に使うのか。そこをまたお金のために使うのか、それとも仕合せのために使うのか。豊かさとは単に資金が豊富にあればいいのではなく、思い出や暮らしが充実することが豊富であるという見方もあるのです。

豊かに働いてそして必要な資金は得ていくという発想は、清らかに生きて豊かに暮らすということです。

子どもたちが未来永劫、この世に生まれてきた意味や仕合せを感じて平和で福世かな暮らしができるように天に祈り、自分たちの生き方で背中を見てもらい希望を次世代へと譲っていきたいと思います。

 

荒物の伝統

先日、約250年間続いている荒物屋のご主人にお会いしお話をする機会がありました。かつて近江商人だった先祖が、背中に籠を背負って全国を渡り歩く中でこの地を訪れそのままこの風土に根付いて商いを続けて今に至るそうです。

店舗の奥の方には150年以上前に建造された立派な土蔵造りの蔵もあり、かつては荒物問屋として大切な商売道具を保管するために使われていたそうです。120年前に大火があってこの辺りの家は350メートルほどまで消失したといいますが御蔭で蔵は無事に難なく保たれたといいます。

興味深いお話としては火伏りのために建てられた蔵には、どこも入り口には常に粘土を常備しており火事になれば扉を閉めてすぐに扉の隙間を粘土で塞ぐそうです。そうすると中までまったく火も通らず、熱も分厚い土壁で遮断することができるそうです。この土蔵は約3年ほど懸けて左官が仕上げていくそうですが、むかしの職人さんたちがじっくりと丁寧に取り組んだ形跡が内部のあちこちに拝見できます。土蔵の重厚感と調湿効果、漆喰の薫りや音の響きなど魅力は尽きません。

話を荒物屋に戻せば、そもそも荒物屋というのは室町時代末期頃に大きめで重めで安価な商品を「荒い」ものととらえて、広く「荒物」と称していたといいます。 それが江戸時代になると、ほうき・ちりとり・鍋・釜・おけなど暮らしに必要な道具を販売することになりました。

現在、8代目になる主人からは「荒物は手作業で作るものだから手が荒れるという意味もある」と仰っていました。同時に、「むかしは土の中奥深くのものあるのは循環しないし持続可能ではないから使わなかった」とも。土の上のもの、自然物を使いそれを暮らしの道具にするところが暮らしの道具の全てだったそうです。

今でもそこはほとんどが日本製で、いい品物ばかりを揃えていました。250年間続く荒物屋の問屋として今でも全国各地に荒物をつくる職人さんたちと繋がりがあるそうです。今の時代、情報化社会の中でなんでもインターネットで買えるようになってきていますが、ここの荒物屋さんは丁寧に商品の説明や由来、理由や暮らしの智慧などを伝えていただき納得して購入することができます。この荒物屋の伝統に一つの近江商人の生き方を感じました。暮らしの伝統の道具が今に続くのもまた、かつての生き方がいつまでも息づいて生き続けているからです。

本来の商いの姿勢、250年の取り組みの伝統を実感し改めて暮らしの道具、荒物に興味関心が高まりました。今後も荒物に関することを少し深めてみようと思います。

省くこと

組織において優先順位を決める際、全体にとって何が最も善いかを考えます。これを全体最適とも言います。その視野が広く深いほど何をやることが最もみんなにとっていいかということが観えてきます。

いくら自分にとって良かれと思っても、自分勝手な行動が全体に大きな影響を与えるのが組織でもあります。形が決められている機械のような組織であれば、自分の持ち場をマニュアル通りに守ればいいのでしょうが、もしも組織が一つの生命体のようなものであればマニュアル通りにしていては反って全体に多大な迷惑をかけることもあります。

だからこそ自ら考えて自ら優先順位を常に確認しながら行動していく必要があるのです。そしてその優先順位は、何を足すかではなく何を引くかということです。今、何をなすべきかを思うこともありますが、何をやらないかということを判断しなくてはなりません。

敢えて、今、何をしないかを決めるということです。言い換えれば、今、何を省くのかということです。これはとても難しいことですがこの判断がその後の未来を決定づけるとも言えます。

経営者は常にその判断をし続けています。やりたいことやしなければならないことは、いくらでも増え続けますし、いくつでもやろうとすればできるものです。そして自分の都合だけではなくいろいろな多方面から有事もやってきますから暇になることはほとんどありません。

その中で、何を優先するかは、如何に理念や初心を忘れていないかといった目的に対する強烈な意識が必要になります。人は反省しないとすぐに流されて自分自身もわからなくなりますから、常に日々に内省を怠らずに何がよくなかったか、何が課題だったか、そしてできたものが何だったかを振り返り続け日々の些事に振り落とされないように自分自身を見つめ直す必要があります。

そういう日々の繰り返しによってそぎ落とされ、刈り込まれ、竟にはシンプルに純粋に、「省く」ことができるようになるように思います。多くの選択肢は反ってその人の判断を迷わせます。

省くことを意識し、最も人生で実現したい目的に向かって日々に磨いていきたいと思います。

省事=政治

中国の名宰相に耶律楚材(1190~1244)という人物がいます。この人物はモンゴル帝国初期に大変活躍した宰相で、字 (あざな) は晋卿 (しんけい) 、諡 (おくりな) は文正といい契丹族に属し、遼 (りょう) の王族の子孫です。最初は金に仕えましたがチンギス=ハンに降って政治顧問となり、オゴタイ=ハンに信任されて中書令となり、行政制度・税制などの基礎を確立した人物と言われます。元々、耶律楚材の父は金の宰相でしたが金という国がやがて北方から攻めて来るモンゴル人に攻め滅ぼされてしまうことを父が予測し、いつか息子が他国で必要とされる人物となるようにと息子を「楚材」と名づけたという話も遺っています。

その耶律楚材は歴史にも遺っているあの残虐非道で凶暴な政治を繰り返すモンゴル人やチンギス=ハンを少しでも自分の力で和らげることができたらと自らモンゴルに降り、天文の知識を持ってチンギス=ハンの信任を得、無謀な殺戮と略奪をやめさせるための懐柔策を次々に打ち出していきます。そして政治的な組織を持たなかったモンゴル人に政治の仕組みを教え、文化を持たず文化を軽蔑していたモンゴル人に文化の大事さを三十余年間、根気強く真摯に教え導いたとも言います。あの時代、遊牧民のモンゴル人たちに国家や政治を説く人物があったという事実、このような人物があの国の宰相をしたという事実は歴史上観ても大変偉大なことです。

その耶律楚材に有名な言葉があります。

「興一利不若除一害  一利を興すは一害を除くにしかず。
生一事不若減一事  一事を生(ふ)やすは一事をへらすにしかず。」

これを安岡正篤氏はこう解釈します。

「上掲の言葉はこの偉人の語にしては消極的に感ぜられるかも知れない。然し実際、政治に苦労したほどの人ならば、流石は軍國非常の際に経験を積んだ名相の言だけあることを深く味識するであらう。元來世間の事は雑草のやうに、油断をすれば際限なく生(ふ)えてゆくものである。事件が次から次へと増加してゆくと、その繁雑に紛れて、段々餘裕も反省も無くなつてしまふ。そして結局破滅に陥るものである。絶 えず問題を省みると共に省いて、手にも心にも餘裕を存することが必要である。政治とは省治である。役所を「省」と称することは誠に深意がある。」

政治とは「省く」ことである。この省くということが如何に大切なことか、これは増やすよりも拡大するよりも発展するよりもとても大切なことです。本来のことを守ろうとすれば、本質を守るために省き続けなければなりません。省かないから大変になり本来のやりたいことができなくなります。つい増やすことや増えていくことが価値があるように感じるのが人間ですが、本質を守るのなら省くことが何よりも重要なのです。

「然るに役人政治家ともなれば、功名心に駆られ、人氣を博さうとするから、どう しても何か目新しいことを行つてみたい。整理とか償却とか節約とかいふやうなことは、とんと行(や)り榮(ば)えが無い。そこで「一利を興す」方を好んで、「一害を除く」 ことはなかなか行らない。その中に積弊が手の着けやうもないほどになつてしまふ。 これが革命を誘発するのである。人は、「無事」を祈りながら、何と我から「多事」にして居ることであらう。」

この無事を祈りながら多事をにしているということ、仕合せを求めながらも足るを知ろうとはしないということ、人間の本性を見抜いているようにも思います。

私もわかっていながらもどうしてもこの「省」がまだまだ習得することができません。謙虚に自らの日々の行動や思想を手入れし、常に「省事=政治」を慎んで取り組んでいきたいと思います。我を省き、初心を忘れない実践を積み重ねていきたいと思います。

 

 

覚悟の問

志を立てて歩んでいても機が熟さなければ何をやっても上手くいかないものです。この機とは、時機のことで作物の実が熟すのを待つように収穫できる時機かどうかを見極めなければなりません。同様に作物もよく観察していなければ旬を逃してしまうことがあります。もしくはお腹が空いたからと熟すのを待たずに早くに収穫してしまえば食べれるものも食べれなくなります。自然には時機があり、その時機を待つために自ら努力し続けなければなりません。

渋沢栄一にこんな言葉があります。

「どんなに勉強し、勤勉であっても、上手くいかないこともある。これは機がまだ熟していないからであるから、ますます自らを鼓舞して耐えなければならない。」

志を立てて日々に一歩ずつ努力を続けていますが、報われない日々を過ごしているうちにそろそろいいだろうとか、ここまでしているのにとか、なぜ変化がないのだろうとか、あまりにも結果につながらないと気持ちが弱っていくものです。しかし、そんな時こそ信じて遣り切るしかありません。その信じたことが、後に自信になり時機が来た時に迷いなく熟したということを自覚することができるからです。

信じる力というものは、自分が先に諦めなければそれを伸ばしていくことができます。それは相手を見て信じるかどうかではなく、まさに自分自身の心と向き合って信じるかどうかを決断する日々の覚悟の醸成なのです。

覚悟を決めているのなら物事の結果は外側次第相手次第ではなく、自分次第になるからです。信じるかどうかも自分次第、継続するかどうかも自分次第なのです。自分が信じたように人生がなるといわれているのは、この信じる努力をし続けたかどうかということが人生の中心になっているからでもあります。

信じきれない時こそ、自分を信じる切る努力をすることが継続の本質です。

そしてどんな時でも、信じて諦めずに努力する仲間がいるからこそその仲間に恥ずかしくないように自分を鼓舞して挑戦し続けるのです。道の同志や、仲間がいればもしも自分が志半ばにして斃れても仲間がそれを受け継いでいつか夢を果たしてくれます。もしも仲間が先に斃れたら、自分がその志を受け継いでその志を貫遂するように使命を果たします。

一歩一歩ずつしか歴史は創れず、一日一生だと人生を生き切るしか道は拓けていかないように思います。たとえ一人になったとしても、自分はこの道を歩むか、それは覚悟の問です。継続する中で、今日も何とかやることができたという必死な努力と何とかやらせていただけたという感謝の努力、他にも謙虚な努力、思いやりの努力、信念の努力など色々な努力がありますが努力を継続していきたいと思います。

子どもたちの未来に向けて徳を遺し福を蒔きたいと思います。

 

国譲りの本質

日本の神話には、国譲りの神話というものがあります。これは出雲の国津神だった大国主が高天原の天津神である天照大神に国土を譲るという話です。ここから日本という国の本源が形成されて今に至ります。

もちろん神話は史実が神話として伝承されてきたものもあると思いますが、これは大局的なものの観方になりますが単に国家が別の国家に主権を譲ったという話ではないのが洞察できます。それは今までの日本人の暮らしを観ればわかります。

例えば、今更自分が国津神だとか天津神だとか言い争う人はほとんどいません。これだけ混血し歴史が混濁すれば、元をただせばみんな同じ民族だとも言えます。それだけ多数の人たちが混ざり合って今があります。どちらの民族の国というよりも、日本はそれだけ民族が混ざり合った国です。しかし今でも大切にしているのは、神社に参拝しみんなでお祭りをし自然に沿った暮らしをすることです。

ここから感じるのは国譲りの本質は、「自然に譲った」ということになります。つまりは、人間優先の世の中ではなく自然を尊重する世の中にしていこうという国家永続の理念を初心にされたということです。

田畑であっても、戦であっても、常に自然を守り、自然を尊重し、その中で慎んで謙虚に行うということ。必ず其処に神社があるのは、杜を守り、澄んだ心を失わないことを維持するためです。

人類が滅びるとすれば、現代のように人間が優先され傲慢になり自然を破壊し自然を尊ばないような生き方になるときだと神話は物語ります。神話はかつて、戦乱の世の中で如何に自然から離れることが危ないか、自然を尊ばないことが破滅を呼ぶかを知っていたのかもしれません。

国譲りに観られるように、私たちは自然に国を譲り、自然の中で自然に見守られ同時に見守りながら歩んでいこうとしました。様々な罪や穢れも大祓いによって清浄化され澄まされていくようにと人間の欲と付き合うための仕組みを工夫していました。

自然から離れないためにも身近には必ず神社という自然の杜を置き、そこにお参りすることで先人の教えや遺訓を言葉ではないその場の教えによって引き継いでいたのでしょう。

人間が自然に譲ることこそが、国譲りの本質なのです。

引き続き、生き方を見つめ直して常に自然を尊重しながら文化を高めていこうとして先人に習い、日々を精進していきたいと思います。

 

永続する思想と技術~自然の叡智~

経営論を勉強した人の話と実際に経営をした人の話は、その体験からの学びが異なります。実際に経営をしてみてはじめてわかるものが多い中、先に勉強をしてしまうと本来素直に学べるものが学べなくなるものです。

結果や問題を気にするあまり、先手先手と先を読んでやっていくようですがそのノウハウによってなぜそれをする必要があるのかということが分からなくなるものです。何でも思想と技術のバランスが大事で、どちらかに偏ることはできません。

例えば、思想に偏れば技術がついてきていませんから空論ばかりが空回りします。思想を語れて教えることができても具体的な技術がなければ相手は救われません。また逆に技術だけを指導してできるようになっても、その背景にある思想を理解しなければその技術を相手は正しく実行できません。

思想があって正しい技術を持てるようになるためには、体験を通して一つ一つの意味を積み重ねていく必要があるように思います。その積み重ねの中で本当の楽しさや豊かさを知り、思いやりが出てきます。技術に優しさが着いてきていたり、思想が丸く柔らかくなっていたりと、その人物の人格が磨かれていることに気づきます。

何のために思想や技術を習得するのか、それは誰もが「仕合せ」のためであるのでしょう。人が仕合せになる、地球が仕合せになる、そういう思想から生まれた技術は自然の叡智に従った素晴らしいものばかりです。しかし自分さえよければいいと思ってつくられた技術はやはりどこか自然から乖離した危険なものになるように思います。

先人たちがどのような文化を創ってきて伝承してきたかを思う時、戦争に使われるような技術や思想、そしてみんなを仕合せにするような技術や思想ではその生産しているものが全く異なることに気づきます。

人間がコントロールすることができなくなっているほどの技術や思想が欲と合わさり取り返しがつかないところまで来ているようにも思います。本来の在り方、先人たちが守ってきた古きよき伝統を改めて学び直しながら永続していく思想と技術を伝承していきたいと思います。