昨日は、千葉県神崎にある「むかしの田んぼ」で無事に御米を収穫することができました。無農薬であることはもちろんのこと、無肥料で育てているため通常の御米よりも実の量は少なく小ぶりですが健康的に生きる力が凝縮しているお米は美味しく、心身を澄ませてくれるものです。
今回は、仲間と共に田んぼの真ん中だけを刈り、そこにゴザを敷き田んぼに祭壇を設け、竈を設置し御飯を炊いておむすびを握り、またたくわんなどの漬物の燻製や、汁椀などを炭を使って料理してみんなで食べました。
祭壇には四方を青竹で囲み結界を設け、稲木といって収穫した稲をはさかけし、その手間には日ごろ使っている鎌の供養も行いました。また私たちの家名の幟も立ててみんなで車座になって団欒を楽しみました。
宴の余興としては、ドジョウ掬いの安来節の衣装と、早乙女の衣装を着た仲間と、伝統の農家の衣装を揃えた私も参加し、寸劇などを撮影したりして豊かな収穫祭を味わいました。
現代の農業は、便利な機械や農薬や肥料などを用いて効率が上がり時間も短縮することができるようになりました。しかしその短縮された時間は、今度はもっと大きな収穫を得るために拡大を繰り返し、時間が元よりもなくなってしまいました。機械化で便利さを追求するあまり、大勢で一緒に取り組んでいた農業も一人で済むようになり、働くことも作業のようになってきました。すると、お金を稼ぐためにはと農協などの問屋の検査に適うように見た目のよいお米を作り効率も上げるために農薬を大量に使い、収量を増やすために肥料を大量投入するようになりました。そうすると資金が目減りし、もっともっとと機械化し拡大することでさらに経営が悪化するという悪循環に入り農家になりたいという若い人も減ってきています。
本来、日本の農業は豊かなもので仕合せなものでした。それはかつての原風景の中に遺っているように、みんなが笑い稲を一緒に育てていく中で豊かな時間を過ごしていました。
確かに効率を上げて時間が確保できることはいいことです。しかしその効率を上げて時間を確保したことで、その時間を何に使うのか。そこをまたお金のために使うのか、それとも仕合せのために使うのか。豊かさとは単に資金が豊富にあればいいのではなく、思い出や暮らしが充実することが豊富であるという見方もあるのです。
豊かに働いてそして必要な資金は得ていくという発想は、清らかに生きて豊かに暮らすということです。
子どもたちが未来永劫、この世に生まれてきた意味や仕合せを感じて平和で福世かな暮らしができるように天に祈り、自分たちの生き方で背中を見てもらい希望を次世代へと譲っていきたいと思います。