日本には人形文化というものがあります。むかしは、どの家にも雛人形をはじめ様々な人形が飾られてあったようにも思います。生活様式が変わり、今ではあまり人形を見かけなくなりましたがこの日本の人形は日本人の大切な文化の一つでした。
私の家にも、祖父母から初節句のお祝いでいただいた源義経の武者人形を飾っています。日本の家に人形が多かった理由は、かつて生活環境の厳しさから日本の子どものほとんどは7歳まで生きられなかったといいます。そのため、人間よりも彼岸に近い存在として「子どもは7歳までは神の子」と言われてもきました。 親は子どもが出来るだけ長く生きられるようにと祈り願いを込めて人形を飾っていたといいます。女の子はひな人形ですが、常に人形は健やかに育ってくれるようにと先祖の祈りと願いが篭っているものでした。そのほかにも、様々な祝い事に人形は活躍してきました。
古代、人形の由来はどうだったかを調べると日照りが続いたり、雨の日が続いたりする異常気象が起こったりすると神様が荒ぶって災いを起こしているのだと信じられていました。その神様の機嫌を直そうと、人身御供といって子どもや女性などを生贄に捧げていたとされています。そこで人形にも魂は宿ると信じられていたため、人形を生者の身代わりとして使用したということです。日本でも神話の中で相撲の神様と呼ばれる野見宿禰が、垂仁天皇に人身御供を人形で行うことを提案し受け容れられそこから天皇陵の副葬品として埴輪などの人形が埋葬されるようになったといいます。
そしてそれが土人形になり、今でも伝統工芸品として日本の各地に遺っています。この土人形の始まりは、京都の伏見で土器などを作っていた「土師部(はじべ)」が遊び心で人形を作り始めたのが最初と言われています。その後、様々な形で全国各地に広がり、江戸時代末期〜明治時代の頃には郷土玩具として全国に200ヶ所を超える土人形産地が続出して、庶民生活に深く根をおろしていたといいます。
明治以降は塗料が有害であるという理由でそれまでの塗料が禁止されたり、生活様式が西洋風になり次第に廃れていきました。しかしこの土師部たちがこの2千年以上の間、祈り供養のためにと焼き続けた人形は、確かに日本人の魂を見守ってきた歴史を感じます。
聴福庵にも、おくどさんの間に七福人の布袋さんの土人形があり、玄関の横には鍾馗様という土人形が家を守ります。子どもたちに人形のはじまりや歴史を伝承していきたいと思います。