カグヤの挑戦

昨日は、聴福庵から群言堂の松場夫妻の講演に同行し国東半島まで一緒に同行する機会がありました。道中は楽しいばかりで、今までのことこれからのことなど希望に溢れたお話に元氣をたくさんいただきました。

改めてお話をお聴きすると敢えて誰もが手を出さないような巨大な難しい仕事に一匹狼のように挑んでいこうとする、まさに「逆行小船」のような純粋な生き方に感動しました。お二人の人生は周りから反対されることを敢えてやり続けてきた人生であったと講演ではお話がありましたが、常に自分たちの信念を貫く生き様であったように感じました。

時代の流れのなかで大量生産・大量消費、すべて同じ顔をした同じ物があふれていく世の中で、大量消費こそが価値のように消費しつくされていくなかで世の中の人たちが安易に捨てていくものに対して大きな疑問を持っていく。それは果たして捨てていいものかと。

例えば、手仕事の豊かさであったり、家族の愛おしい時間であったり、金銭を超えた信頼関係であったり、もしくは懐かしい思い出との慈しむつながりであったりと、色々と消費が加速するスピード社会の中で本当に大切なものを拾い続けていこうと覚悟されたこと。そして事業にされたこと、やっていることをお聴きすると私の会社以上に多岐に及び、伝統や地域だけではなく、教育やモノづくり、啓蒙活動に文化育成、書ききれないほどに様々なことに取り組んでおられました。

「時代と逆行していくかもしれないが、理念を守り1パーセントの壁を守り続ける」とその歩んできた人生に器の大きい美しい生き様を感じます。人間の器の大きさとは何か、これは矛盾を受け容れながらも信念を貫いていくその度量の品格を言うのではないかとも思います。

日々に暮らしの中で何百年前から今も残るむかしの道具たちと触れていたら、傷だらけになりながらもあちこちが修繕されながらも何百年何千年と子孫たちを見守り続けて生き続ける姿を観ます。まるで数千年の巨木、また数百年のお社のような存在の大きさです。信念は人を大きくし強くする、私もまたかくありたいと思いました。

最後に、講演の中で「本来の”消費”とは未来への”投票”であらねばならない」と仰いました。

「うちの会社は説明しても一体何の会社なのかと理解してもらえないし、なかなか分かってもらえない。それは「生き方」を販売しているからです。時代は必ずモノ売りからコト、そして必ずココロへと成長していく。だからこそ人々がこの会社の生き方を買おうとしてもらう、その投票してもらうことをやっている事業をしているのです。みなさんが選挙で応援し投票したのは、会社=生き方だからこそ、この会社から消費するとしていきたいのです。」

子どもたちが安心してこの先も暮らしを豊かに紡いでいけるようにするには、人類の意識を変化させていくしかありません。それは生き方を変えていくしかないということです。生き方を変える事業こそ、人生を懸けた私の、そしてカグヤの挑戦なのです。

過度な消費文明の中で消耗しきってただ滅亡を待つ日々を闇雲に過ごすのではなく、子どもたちのことを思えば思うほどに敢えて逆行してでもそれを解決しようと挑んでいくことに命を懸ける価値があるように思えます。短い小さな人生でそんなにできることはありませんから引き算しながら取捨選択するしかありません。

私も子ども第一義の理念に恥じないように、生き方=働き方を本気で遊んで極めていきたいと思います。

富苦労の恩返し

昨日、私の人生の価値観に大きな影響を与えてくださった大恩人の夫婦に聴福庵に来ていただくことができました。約2年半前にご縁をいただいてからここまでこの方々の言葉を信じて、そして生き方を尊敬し自分も学び直そうとここまで取り組んでくることができました。

人は、できるかできないか、成功するか失敗するか、いろいろな選択肢があるなかで「信じるか信じないか」という物差しがあります。私はこの「信じる」ということだけを大切にここまで生きてきました。

思い返せば、今、人生でご一緒している大恩人や道の達人たち同志仲間を信じたから夢を体験することができています。もしも疑ったり信じなかったりしたらどうなったでしょうか。当然、今の自分はありませんし周りもご縁もありません。御縁を活かすというのは、「信じる」ことです。そしてそれは信仰心にも似た純粋なものであり、真心の生き方のことでもあります。

出会いが素晴らしいのは、信じあう世界を築いていくことができるからです。一期一会に出会ったご縁によって、その人を信じることによって新たな世界が拓けていく。その人生のご縁を大切にする人はみんな信じ切ってきた人たちかもしれません。

その信じる気持ちが疑いになったとき、信じることができなくなったとき、そこで諦めてしまえば真実は隠れてしまいます。真実に生きるというのは、「信じるに生きる」ということなのでしょう。

その当時はまったく何もわからなくても、振り返ればその「信」の御蔭様で私の周囲の人たちも心豊かに暮らしを学びはじめ、そして子どもたちにも伝承できる永遠の智慧をたくさんいただいています。

信じるというのは、自分を信じるということです。それは言い換えるのなら、その人の信じるものを自分も信じる、そして信じる自分を丸ごと信じたということです。自分を信じ切るということこそが信念の本質なのでしょう。

直観や信念は、常に出会いを大切にする中にこそあります。

大恩人たちへの信じた証をお伝えできる今があるのは、苦しいときにも諦めずに自分が信じてこれたことの富苦労の恩返しです。一緒に道を拓いてきた恩師の古希祝いも明々後日にあり、信じてきた自分を心から誇らしく思います。

人生の出会いとその感謝を片時も忘れずに、一期一会のご縁を結ぶ仕合せに生きていこうと思います。

本当の仕合せとは何か

人生には自分の人生の節目節目にご縁を導いてくださっている恩人がいます。その恩人とは、心の恩人であり自分の心が歩んでいく方へ時としては支え、また時としては与え、ある時は叱咤激励し、そして見守ります。

節目というのは恩人を感じやすいことであり、恩人が節目を彩ります。自分がどのように生きているか、そして自分が何を実現したか、自分が何処に向かって挑戦しているかを観ていただくこともまた一つの恩返しのように思います。

このご縁によって結ばれたことが恩そのものであり、むかしの人たちはその恩を忘れませんでした。恩を忘れないというのは、ご縁を忘れないということです。

今の自分が今、こうあるのは何の御蔭様かを考え深めたときそれはご縁によってそうなったと誰もが自明します。そしてそのご縁をさらに感謝しているとそれは偉大な恩がそこにあるのが分かります。

一期一会で生きる人たちは、そのご恩を忘れません。そしてそのご縁を大切にします。ご縁を大切にするというのは、その結び合いによって何が誕生したかということの顕れでもあります。

例えば、男女が結ばれて子どもができます。これは男女のご縁が結ばれて恩が生まれたのです。その恩は、子どもから観ると両親こそが恩人でありその恩を返したいと思うのです。親孝行も恩を忘れないから行うことです。そして返せないほどのその偉大な恩をどうするか、今度はまた自分が同様にご縁を結び恩をつないでいくのです。

つまりは、縁=恩であり恩返しとは縁恩返しなのです。

この「返し」というのは、表裏一体のことで自分が表でいただいた御恩は、今度は入れ替わって相手の御恩となるということです。先ほどの親子でいえば、親が恩を与え、子どもが成長して恩を与える。お互いにご恩を行き来しながら表裏一体のご縁を味わっていく。

このご縁とご恩は、結び合いの中にある「仕合せ」のことを言っているのでしょう。まさに縁恩和合し結ばれたことが至高至大の幸福だということなのでしょう。

仕合せは、こうやってご縁やご恩に生きている今のことをいいます。

物があふれ、我を強くし、一時的な幸せが幸せに苦しんでいる人たちが増えています。それはご縁やご恩を大切にするという、古来からの日本的な懐かしい生き方が失われてきているからです。

子どもたちがご縁やご恩に恵まれ安心して豊かに生きていけるように、私自身、恩人の方々との節目を味わいながらその偉大な一期一会を大切にしていきたいと思います。

情熱の人

私の同志であり古くからの友人の一人に情熱家がいます。滅多には会わないのですが、お互いの存在によっていつも見守りあっています。存在が助けるというのは、お互い同じ思いをもって信念を貫いて生きていこうと誓っている仲間でありどんな困難があっても前進していこうと挑戦しているからです。

苦しい時こそ師友を想うように、師友に恥じないように生き方をしたいと心が動くのです。心というものは、ゆっくりとじっくりと成長していきます。時折、心が砕けそうになることもありますが心は自然に時を経ては治癒されまた新たな心をはぐくんでいくのです。

情熱家というのは、すべてに対して全力投球をします。思いが強く、まずは思いから入ります。言い換えれば信念とも言いますが、強い思いで事に当たります。他人が気分で話したことであっても真心で真剣に受け止めます。相手に対してではなく、自分自身に対して誠実であろうと命を懸けます。他人とぶつかることを恐れず、みんなのためにと思うからこそ本当のことを言いきります。状況に悲嘆するのではなく、自らが変わり状況を変えていけばいいと心から思っているのです。

この情熱の人は、別の言い方では「革新者」(イノベーター)であるとも言えます。有名な人物にアップルの創業者のスティーブ・ジョブズ氏、ソフトバンクの孫正義氏などがあります。これらは、新しい常識を創り出す人たちのことで、既成や既存の刷り込みをぶち壊していく人々です。

孫正義氏は革新する者は「情熱の人」であって「感情の人」ではないとも言い切ります。つまり「他人の評価や自分に向けられた感情によって影響を受けない」といいます。世の中や世間、周囲の人達からいわゆる「善人」と言われたい人であれば既成の秩序を壊すことなども不可能です。だからこそ他人の目を気にするなと言います。

そうはいっても、情熱家であっても人は人ですから誰にしろ感情があります。周りの非難や否定、誹りや嫉妬、近親者やわかってもらいたい人に弱っている時に全否定されたり辛い態度を取られたら誰でも深く傷つくのです。

しかしここからが情熱家の違うのは、それを「力」に換えることです。そして情熱家はその失敗を糧にさらなる躍進を遂げるのです。誰の目にもみても不幸で不運と思われる出来事に遭遇したとしても、そこから不死鳥のように蘇ってくる。これこそ情熱家の真骨頂です。

また情熱家は、消えかけた炭の小さな火であったとしてもそこからまた火を熾していきます。どんなことがあっても消えかけても消えることはない、心の炎を燃やしていくのです。そのいのちの燃やし方こそがその人の生き方であり、感情の情すらもすべてを丸ごと熱量に転換する生き様をやってのけるのです。

私自身、未来の世代のためにと今の世直しや世の中に挑んでいる以上、既成の価値観や常識に認められようとは思ってはいません。しかし自己確立がまだまだできず、些細なことに躓き地を這いぼろぼろになり汚れながらも澄ませていこうと葛藤の日々を過ごしています。

子どもたちのためにと信念で生きるからこそ、勇気を出して自分らしく自分の人生の作品を自分の納得するように仕立て上げていきたいと思います。心の炎を燃やしていきます。

道の友

生きていく中で、尊敬する友人と出会い、その友人たちの生きざまを拝見していると、敢えて自ら苦労を選択して大変な思いをしていることが多いように思います。その苦労している最中は、傍で見守っていても辛く厳しく、時折もうその辺でいいのではないかと深く心配することもあります。

しかし、自ら苦労を選択して前に進んでいく姿にそこには単に苦しみを受け容れるだけではなく喜びの先送りをして後に必ず訪れる偉大な仕合せを心から信じて時を待っているかのような気配もあります。

人間は、最終的には一人で生まれて一人で死ぬようにすべてのことと一人で正対していくしかありません。いくら代わってあげたいと願っていても代わってあげることもできず、その人のために祈ることしかできません。

しかし信じて見守っていけば、必ずその人の苦労が報われていつの日か楽しい笑顔と豊かだったその当時の苦労のことを思い出し、祝福の思い出に変わっていきます。そこまでの道のりを単につらい苦しいだけのものとするか、それともそれもまた人生だと受け容れて自分を変える力にするかは、その人の心が決めているとも言えます。

その心を励まし元氣づけ、支えて応援してくれる仲間や友人は道の友であり、同志であるとも言えます。絶望するからこそ、挑戦しようとする希望が湧いてくる。そういう生き方をする友達に恥じることがないように、信念を磨き、勇気を高め、努力と運と丹精を籠めて子ども第一義の道を邁進していきたいと思います。

一流と陰徳

日本の格言の中の一つに「三流は金を遺す。二流は事業を遺す。一流は人を遺す」という言葉があります。他にも「金を残すは「下」、事業を残すは「中」、人を残すは「上」」という言葉もあります。

同じ意味ですが、この「一流や上」とはその道を究めた人物ということです。道を究めた人が流派を立ち上げるのもまた、その道の基本を徹底して学び達人の域にまで到達した人こそ一流とも言えます。

その一流は、同じように道を歩み自らを高め精進していくような人物を薫風してはぐくんでいきます。つまりはその生き方や生き様が、周囲の人物やあとから伸びてくる者たちの指標になっていくのです。

何を残すかと考えるとき、もっとも子孫たちへ残しておきたいものは何かと考えます。山岡鉄舟は金を積んでもって子孫に遺す。子孫いまだ必ずしも守らず。書を積んでもって子孫に遺す。子孫いまだ必ずしも読まず。陰徳を冥々の中に積むにしかず。もって子孫長久の計となす。』と言います。

お金は事業は子孫や周囲の人たちは必ずしもそれを継承することはないし、それがいつまでも継続することもない。では何を残すか、それは陰徳を粛々と積むことでその遺徳遺恵が代々に受け継がれ永続的に繁栄と発展をするのだということです。

この陰徳というものは、人知れずして善い行いを積み重ねていくことです。つまりは天を相手に天に恥じない人格を磨き、世のため人のためになることを誰も見ていないところで実行していくということです。

中国の易経に「積善の家には必ず余慶あり」という言葉があります。善行を積み重ねてきた家には必ず子孫に歓びが起こるということです。因果律からもこれは当然のことと言えるでしょう。

人間はとても長い目で観ると、善いことを積み重ねること以上に効果のある行為はありません。短期的にみると自分に損と思えることでも、長期的にみて子孫のためだと思えば価値のある行いはたくさんあるのです。

子どもたちのための仕事というものは、かくありたいものです。 引き続き、周囲になかなか理解されなくとも自分の信念に従って同行してくれる志の友たちと伴に道を極めつくしていきたいと思います。

かけがえのないもの

私たちが参拝にいく神社仏閣もしくは、観光にいく遺跡や遺構などを拝見できるのはそこにお世話をしてくださっている方々がおられるからです。当たり前のことすぎて気づかないものですが、守ってくださっている方々が守ってくれる存在を守り続けているのです。

これは親子においても同じです。子どもが元氣でいるのは、子どもの陰で見守ってくれる存在があり、それを大きくしていけばご先祖様がおられ、また支えてくださった縁者の方々がおられ、地域があり、国があり、世界があり宇宙があるということ。

自分ひとりで生きているわけではないのだから、陰ながら常に助けてくださっている存在があって私たちは日々に生きて暮らしていくことができるのです。

目立たない存在、陰ながらの存在、しかしそのかけがえのない存在にどれだけ気づいているかということが真実を見極めるには必要だと思います。

今の時代は、唯物主義論的で物質文明に偏っていますから派手に見た目の結果を出している人や、肩書や地位や名誉、富を多く持つ人の方が価値があるように信じられていたりします。

しかしその陰のさらに奥の方に、もっと偉大な陰徳があるという事実。これを知っているのなら、結果よりも大切にしなければならない存在を感じ直すように思います。

謙虚さというものは、これらの御蔭様を観る力の一つであり、御蔭様の存在が感じられるのならいのちを粗末にすることもないし、心が枯渇することもありません。しかし現代は、評価を中心に誰かの目線を常に浴びて常識という刷り込みによって個性を蔑ろにされますからどうしても御蔭様を感じにくくなっているようにも思います。

陰ながらの存在のことを大切にするという実践は、身の回りの道具たちや日々に当たり前になっている存在を見つめ直し丁寧に手入れをするということのように思います。

親しき中にも礼儀ありというのもまた、親しくなるからこそお互いに思いやり手入れをしていこうという意味もあるように思います。コミュニケーションもまた、お互いに感謝の言葉を交わし、謙虚に御蔭さまの恩徳をお互いに認め合うことのようにも思います。

自分が支えていたようで支えられていたのは自分、自分が見守っていたようで見守られていたのは自分、自他一体というのは自分が相手そのもの、相手は自分そのものといった陰徳の御蔭さまの世界です。

引き続き子どもたちの今と未来のために、生き方を見つめ丁寧に改善していきたいと思います。

切磋琢磨できる幸せ

物質的なものが増えて便利さやスピードの価値ばかりがフォーカスされると人間は「ラク」になることを求め始めるものです。このラクは確かに効率を高め、効果があり、簡単便利になることで結果を満たすものです。しかしプロセスを味わったり、それまでの経緯に感謝したりといった心に必要な時間が奪われ、脳で考えたこと通りになることが良いことであり、次第に心は無関心になってくると心のエネルギーが枯渇していくように思います。

人間本来の仕合せを改めて見つめ直すとき、それは心の通じ合いであったり、個性のままに自分らしくそれぞれがお互いに活かしあい磨き合える関係であったり、そのすべてが今の一つ一つのプロセスの中にあることに気づきます。

私は聴福庵の甦生を通して、一人一人の伝統職人さんたちが時間をかけてじっくりと家を修繕していくのを観てきました。現在の世の中の風潮としては、短期間であっという間に新しく変えることを修理といったりもしますが、本来の修理は壊れているところを一つ一つ丁寧に磨き直すことであったはずです。伝統職人さんは不便であることに文句を言わず、むかしの道具でむかしのやり方で、そして現在の文明の価値観と折り合いをつけながら信念をもって本物の仕事に取り組んでくださいました。

この一つのことに長い時間をかけるというのは、それだけ自分が着実に年輪のように成長することであり、不便であるというのはそれだけ試行錯誤をし創意工夫を高めることであり、様々な精神的な困難や心身の苦労は試練であり、その試練を通して人間は人格を磨き上げていくことができるのです。

ストレスというものは、確かに物質的なものからみれば早く取り払いたい不便で仕方がないものかもしれませんが人間の成長から見ればまさにピンチはチャンスであり、自分をより感謝や謙虚さ、そしていままでの自分をブラッシュアップする貴重な体験になっているのです。

人間の人生は生きている以上、一つだって無駄で無意味というものはありません。生きている以上、どんなことも学びであり成長であり意味があります。だからこそどんな時も前を向いて一歩一歩、怠らずに努力していくしかありません。怠惰な自分、ラクを求める自分、傲慢な自分と向き合って初心を忘れずに何のために生きるのか、何のために苦労するのか、何のために自分の人生を使うのかを時間を大切に実践していくしかありません。これは私の自戒でもあります。

そうして人間は一つ一つの出来事に真摯に向き合い、そこから逃げずに前進するとき与えられた機会がとても大切なメッセージを伴っていることに気づくのです。逃げるときこそ自分がラクになりたいと自分が自分を諦めるときでそういう時こそ自分を丸ごと信じて根気強く根性を磨いていくときだと修行を積むしかありません。

人は一人ではなく、必ず隣に応援してくださっている人たちや、支え見守ってくださっている人たちがいます。感謝の心さえ失わなければ、謙虚ささえなくさなければ、そういう恩や徳といった有難いご縁と一期一会に歩んでいくこともできるでしょう。

切磋琢磨できる幸せを感じながら、子どもたちのために信念を貫いて歩んでいきたいと思います。

学びを深める~ストレスを活かす~

人間は生きていく上でストレスというものを持っています。このストレスの意味は、生活上の圧力および、それを感じたときの感覚であるといいます。語源は苦痛や苦悩を意味する distress が短くなった単語とされています。

このストレスは、生きていく上で誰もが持っているものですが使い方次第では健康に害があるものになったり、もしくは向上していくための栄養分になったりもします。

最近、アメリカではこのストレスの研究が進み「ストレスが健康に害があると信じていた人」のみが死亡率が高かったことが証明されています。これは『スタンフォードのストレスを力に変える教科書』(ケリー・マクゴニガル著)に記されています。

スタンフォード大では他にも子ザルを母親から引き離しストレスを与える実験をしました。すると母親から引き離された子ザルは、過保護に育てられた子ザルより物怖じしなくなり、活発に行動する事がわかったといいます。それは母親から引き離された子ザルが物怖じしなくなった理由は、ストレスが脳の前頭前野を発達させたためでした。前頭前野は不安を抑えたりする働きがあり、実際にはストレスはその人の生きる力を育てる側面があるということです。

また他にもストレスはむしろない方が危ないということが研究で分かったといいます。たとえば、退職後のリラックスした生活はかえってうつ病を発症するリスクが40%も高くなるともいいます。

ストレスに対してもっとも問題なのは、アメリカで3万人を対象にした調査によると、ストレスは体に悪いと思い込むだけで死亡リスクが43%もアップしたということです。この悪く思い込むといったことがストレスを一方的に悪いものにしているのかもしれません。この悪く思い込んだり決めつけたりすることは健康を著しく害するのは、人間はネガティブになり不安や心配事が増えるとストレスもまた悪者になってしまうからです。正義か悪かと決めつけるとどうしてもバランスが崩れます。ケリー教授は、かえってその思い込みや決めつけを活用すればいいと「マインドセット」という仕組みも提案しています。

人間は生きているうえで必ずストレスがありますから、それをどう活かすか、どう上手く付き合うかが生きていく上で大切な要素になります。このマインドセットの中でケリー教授はストレスのことを悪いものと決めつけるのではなく善いものもあると転換し、「ストレスと友達になればいい」とも言います。なぜならストレスで出るホルモン物質のオキシトシンは、かえって生きていく上でも大切なものになるからだそうです。他にもアドレナリンという物質もありますが、これも集中力を高め五感を研ぎ澄ます力があるともいいます。ストレスを悪者にするのではなく、ストレスで得られるものがあるという発想。単に白か黒かではなく、如何に白も黒も両方活かすかという考え方には日本的な「ないものねだりをしない」考え方と似ていてとても共感します。

先日の逆手塾の講師の話にもあったように、マイナスなものも見方を変えれば使い道があるという話にも共通することを思い出しました。

私も体調を崩したり、感情や心が乱れるとストレスをすぐに悪者として決めつけてしまいます。それはストレスだけではなく、身の回りのものをなんでも悪者にしてしまったりもします。物事には必ず、善い側面と悪い側面が同時に発生しますから如何に善い方を観て悪い方をカバーするか、もしくは悪い方も活用するかというのはこれからの時代の子どもたちへの生き方の模範になるかもしれません。

自分自身に起きることを何のメッセージかと受け止め、学びを深める材料にしていきたいと思います。

 

 

 

物々交換

先日の天神祭では、来庵していただいた方々や応援してくださる方々からたくさんのお土産をいただきました。当日は、野花をはじめお野菜や炊き込みご飯、ご当地の有名な食品や梅が枝餅などもいただき直来もまた豊かになりました。

むかしはそれぞれがお互いに欲しいものを交換していた時代もあったのですが、今ではお金が中心になっている金融社会ですからあまり物々交換をすることも少なくなってきているように思います。

以前、奈良の長谷寺に行ったときに「わらしべ長者」の話をお聴きすることがありました。それは1本のわらから物々交換を重ね、ついに長者になれたのは長谷寺の十一面観音さまのお告げに従ったからだったという話でした。具体的にはこう紹介されていました。

「今は昔、貧乏で身寄りのない青侍(あおさぶらひ 奉公人のこと)が長谷寺の十一面観音さまに「ご利益がいただけるなら夢で示して欲しい」と願をかけ、21日目の次の日の明け方、夢に僧が現れ「かわいそうだから授けものを与えてやろう、お前が寺を出て手に触れた物があったら捨てずに、たとえどんな物でも観音様から賜った物だと思うが良い」とお告げがあった。青侍がお寺の大門を出ようとしたとき、けつまずき、わらしべを手にする。それから不思議なことに、わらしべを身分のある女とミカン3個に交換し、出会う人ごとに、ミカン3個を布三反と、布三反を名馬1頭と、名馬1頭を田一町と米少しに次々と交換し、その後、田一町を近辺の人に小作させ家など建てて、ついに資産家になったのは長谷寺の観音さまの御利益である。」(今昔物語巻16の28より)

手に触れたものはすべて観音様からの授けもの、それを捨てずに大切にすれば必ずご御利益があるという話です。

不思議なことですが今回、天神祭にいただいたものもすべて天神様からいただいたものではないかと思うほどにみんなを潤し、時間が経過するとそれが多くの人たちの仕合せにつながっていきました。

「もったいない」というものを大切にする感謝の心は、それを受ける側の心次第です。

むかしのような物々交換は、いただいたものの意味やそのご縁や繋がりをより一層感じさせ感謝しやすいものです。目に見えない恩徳や、循環していく因果応報などむかしの人たちはもったいない心を意識してお互いに物々交換していたのではないかとも思います。

時代が変わっても、本来の智慧は普遍的に今の世の中にも遺っているものです。暮らしを復古起新しつつ大切な真心を子どもたちに伝承していきたいと思います。