先日、イギリスで19世紀から20世紀に活躍したアイルランド出身の劇作家、劇評家、音楽評論家、政治家、教育家のジョージ・バーナード・ショーの言葉に出会う機会がありました。
本質的でユーモアにあふれ、真実をありのままその通りに上手く表現できる文章の数々に磨かれた一点の曇りのない鏡のような心を感じました。いくつかの言葉を紹介します。
「いつも自分をきれいに明るく磨いておくように。あなたは自分という窓を通して世界を見るのだから」
自分の心を通して目は物事を観ます。美しい心を持つ人は美しい景色が、疑心暗鬼の目を持つ人の心には疑心暗鬼の世界が、本来の心は赤ちゃんのように純粋無垢、そこに様々な知識が発生し心が曇ります。その心の曇りを取り払うこと、それは自分の心と内省して日々に純粋な心を保ち続けるために心の垢を洗い清めながら拭いて初心を磨いていくということでしょう。
だからこそ彼はこう言います。
「間違った知識には注意せよ。それは無知よりも危険である」
知ってしまい歪んだ知識を得れば、それが今度は自分の心を蝕んでいきます。今のような簡単便利に知識が先行して頭でっかちなれば心の手入れを少しでも怠れば心が迷子になったり心が澱んでいきます。心の状態が悪くなれば、それが感情や肉体、精神に影響を与え始めるのです。知識を深め続けるというのは、学問を実践を通して経験しそれを内省し深め、それを今の現実に活かし続けて高めていくことです。知らないことの方がまだましというのは、それは心の話を言っているからだろうと私は思います。それは彼の生き方にも顕れています。
「私は若かりしころ、10のことを試しても9つがうまくいかないことがわかった。そこで10倍努力した」
「学者とは、貴重な時間を勉強でつぶしてしまう怠け者のこと」
「できる者は実行する。できない者が教える」
「もし人になにかを教えようとすれば、彼は何も学ばないだろう」
「人間が賢いかどうかは、その経験のいかんによるものではない。
その経験をいかに活かすかによるのである」
学ぶということがどういうことか、実践するということがどういうことか、それを平易で分かりやすく例えています。日々に体験したことから気づいたことを改善しそれをまた実行する。当たり前のことですが、学問の本当の意味が洞察されています。
そして私が最も影響を受けた好きな言葉です。
「人は自分が置かれている立場を、すぐ状況のせいにするけれど、この世で成功するのは、立ち上がって自分の望む状況を探しに行く人、見つからなかったら創り出す人である」
何かの問題を決して環境のせいにはしない。なければ自分が探すか自分で創ればいいという。その通りです。
「分別がある者は、自分を世界に合わせようとする。分別がない者は、世界を自分に合わせようと躍起になっている。ゆえに、分別がない者がいなければ、進歩はありえない」
変人でなければ進歩はありえない、常識に合わせていても世界は変わらないといいます。
「人生とは自分を見つけることではない。人生とは自分を創ることである」
自分探しなど意味がない、自分をどう創るか、自分を創り上げてこそが人生であるといいます。
「富を産まずに富を消費してはならないように、幸福を創り出さずに幸福を消費してはならない」
自分が幸福を創り出しているか、ただ幸福に浸っているか。ここに未来がかかっています。いのちは確実に消費していきます、消費するということはそれは未来へ投資しているとも言えます。消費して消えていくだけ、現在ある資源を食いつぶして贅沢をしてただ自分のことだけを満たして死んでいくのか。それとも子孫たちのために、新しい生き方を示し未来への投資のために今の時代に何を創造しどれだけのものを譲り遺して改善していけるかそれは時代を生きるものたちの決断次第です。
最後に心に沁みた言葉です。
「為すべきことは熱を与えることではなく、光を与えることなのだ」
光を与えられる人になるように、自分をきれいに明るく磨いてこの世のために精進していきたいと思います。