襤褸の心

先日、聴福庵の離れの古布の襤褸を眺めながら改めて「ぼろ」の意味などを深めていました。私は人生の中でよくこの「ぼろぼろになっている」という気持ちになる体験から多く、そんな状態であっても信念に従って真心を盡したいと挑戦し続けてきました。今年は「許し」をテーマに取り組んでいますが、この襤褸と許しはとても密接に関連しているように思います。

そもそもこの襤褸というのは、襤褸と書いて「ぼろ」と呼び、擬態語のぼろぼろも同じ意味です。江戸時代以前、綿布を刺し子という技法で強化されたり穴があくと継ぎを当てボロボロになるまで使い込まれ、なおかつ裂き織りという形で布の命が尽きるまで最期まで使い切られていました。一代だけで着終わるのではなく、遺り続ける入り子々孫々の方々に大切に着られてきたものです。

これがフランスのファッション界に評価され、今では「BORO」として世界共通語となり欧米の染織美術・現代美術のコレクターの人気になっているとも言います。

このいのちを尊重して大切に使い切るというのは自他を思いやる心に充ちているようにも思います。そしてこの襤褸ほど許しに満ちているものはないように私は思うのです。

自分というものを削ぎ落していく中で、遺ったものが何か。ことわざに「ぼろが出る」という言葉もあります。隠していた本当の自分が出てくる、認めていなかった自分と向き合う、いくら表に出ないようにと振舞っていても自分自身のことは自分が一番身近でよく知っているのです。

それをいくら責めて心をひた隠しにしていても、心は限界になって表に出てきます。そしてぼろが出るのです。この襤褸とは自分自身のありのままの姿のことで、あるがままの心の現実のことです。

それを如何に許すか、つまりは自分を認めるかというのはとても難しいことです。自分のことをわかってもらえない、自分を理解してもらえないと辛く苦しみますが、それは自分が自分のことをわかってあげようとしないことから発生します。

自分というものを直視するのは、あるがままの自分を許し認めることが必要です。直視せずにいくら偽ってもぼろぼろになるだけで本当の自分という襤褸になるわけではないのです。

そのままでも美しい、あるがままでも必要価値があるというこの襤褸の心は私には必要不可欠なものです。まだまだ時間がかかりますが、経年変化とともに磨かれてそぎ落とされていくその凛として美しさに恥じないように私も学び直しを続けていきたいと思います。