仕事観

先日、「仕事観」について考え直す機会がありました。そもそも仕事とは何か、それは個々でそれぞれの価値観によって定義されています。仕事というもの自体をその人がどのように定義しているか、それが仕事観ということです。そしてその仕事観を聴けば働き方になり生き方が分かります。人生として働き方と生き方が一致させるにはその「仕事観」こそよく自分で再構築する必要があるのではないかと気づくのです。

たとえば、一般的な仕事観としてはどのようなものがあるか。それはやりたくないことをやるのが仕事、やらされることが仕事、生計を立てることが仕事、会社に行くことが仕事などというものがあります。こうなると、仕事が増えることは苦痛そのものであり自分に仕事が回ってくると損する気持ちになったり、面倒に巻き込まれたと思うのでしょう。次には、社会貢献することが仕事、お客様に喜んでもらうことが仕事、幸福を与えるのが仕事などというものもあります。こうなると仕事が回ってくると喜びや感謝、遣り甲斐や生きがいという気持ちがわいてくるのでしょう。

世の中には生き方が多様であるように個々人の生き様と同じく様々な仕事観があり、その仕事観によって人は日々の働き方を創造しているのです。もしもその仕事観が、やらされているものややりたくないものをやること、もしくは自分勝手にこれが仕事なのでと割り切っていたらそのうち一生その仕事をすることが自分の生き方になっていきます。

一生涯かけて取り組む仕事だからこそ、その仕事観は果たして一生かけてもいいと思っているものかどうかということを確かめる必要があるのです。なぜならそれが人生の幸福と密接にかかわっているからです。仕合せに生きるためには、仕合せに生きるための自分自身の仕事観をもう一度問いただす必要があるのです。

たとえば毎日の仕事が楽しくなくなってくるのは、その人の仕事観が歪んでいることが多いように私は思います。本来の仕事とは何か、それが根にあり芯が入っていれば多少の辛いことがあったとしても仕事が楽しくなります。しかし仕事観が本当に一生涯かけて取り組むことではないことをモチベーションにしていたらすぐに消極的な感情に呑まれて生き方や働き方を誤魔化してしまうようにも思うのです。

自分を偽り誤魔化す働き方をしていたら、それがそのうちに自分を偽る生き方になっていきます。自分らしく自分の生き方を貫くためには、自分が生涯かけてもいいと思っているようなことに今日も取り組んでいるんだという働き方を日々に磨いていく必要があります。

そのために、まず自分の仕事観や固定概念が果たしてどうなっているか。仕事だと割り切ったこと、常識だからと諦めたこと、過去の体験から刷り込まれたものをもう一度見直し、改めて「働くとは何か、生きるとは何か」という大前提の土台を創り直す必要があるように思います。

知ら知らずに私たちは誰かから教え込まれた仕事観というものを学校や社会から刷り込まれていくものです。責任の押し付けであったり、我慢して嫌なことを引き受けたり、健康を害してでも努力したり、そういうことをやることが仕事だと思い込んだりします。そのような仕事に合わせすぎているちに本来のチームであることができなくなったり、仲間であることができなくなったり、同志であったことを忘れたりもするものです。そういう時こそ内省によって何に合わせたか、仕事というものはこういうものだという固定概念に合わせなかったと気づけるかどうかで人生の歓びもまた変わっていくのです。

特に私が関わっている幼児教育の業界では「キャリアアップ」などという研修が流行りで行われています。まずキャリアとは何か、仕事とは何かを定義することなしに、単に補助金を配布するための知識を詰め込み直すような研修をやっていると現場の方々からもよくお聞きします。

子どもの仕事をするのに、なぜそれを本人の生き方や働き方と何ら関係しないつまらない仕事観に導こうとするのか。本来の子どもの仕事とは、生き方を与えるものであり保育とはその働き方で伝道していくものでしょう。

私たちは仕事観というものをまず見つめ何をもって生き方と働き方の一致というのかをそれぞれに問いてほしいと願います。私の働き方はふざけていて常識的な世の中から見ると自分勝手にやっているように見えるかもしれません。しかし「本当の仕事とは何か」が観えればこれが自分の目的に適っている仕事の仕方であることが観えるはずです。世のなかの仕事の常識を壊せるかどうか、この辺は簡単にはいきませんが遣り甲斐のあるプロジェクトです。

これからもカグヤは、その一点に集中して子どもたちの憧れる生き方と働き方に特化していきたいと思います。