人生を振り返るとき、出会いの一つ一つの意味を後々に深めていると偉大なお導きによって今につながっていることに気づきます。その時、あの時の奇跡がまさに今の自分を創造しているからです。
この「お導き」という言葉は、言い換えれば「こちらですよと案内された」という感じにもなると思います。あなたの道はこちらにありますよと導いてくださった人たちはみんな出会った人たちの御蔭です。その道に従って素直に歩んできたから今があります。
運命というものを想う時、どちらに行くのだろうかとわかっているような感覚もあります。これは私が以前、交通事故にあった時や、災害を逃れられた時、いつも大切な局面で目には観えませんが予兆や予感によって助けられました。ある人はそれをご先祖様の見守りといい、またある人は運が善いからとも言います。
もしも道案内の方がいつも傍に居て、そっちではないですよ、こちらですよと観えるのならこんな安心なことはありません。多少道を間違えても、すぐに戻ってこれる。ちょっと寄り道してもまた元の道に戻ってこれる。自分の与えられた道が観えるというのは仕合せなことのように思います。
松下幸之助さんは、「自分は死ぬ直前まで運命に素直に従いたい」と言いました。この境地はどれほどのものかと思うのです。導かれて生きる、運命をひらく生き方というものは素直に今を味わいきるもっともお導きに任せた生き方なのではないかと思うのです。
つまり、運命を生き切った人が素晴らしいことであり運命は必ずその人に仕合せをもたらせているとも言えます。しかしそれを阻害しお導きを感じられなくなるのは運命に対して素直に生きていないからかもしれません。松下幸之助さんはこうも言います。
「苦しかったらやめればいい、無理をしてはならない。無理をしないといけないのはレベルが低い証拠。真剣に生きる人ほど無理はしない。無理をしないというのは消極的な意味ではない。願いはするが無理はしない。努力はしても天命に従う。これが疲れないこつである。」
天命に従う人は疲れないと言うのです。逆に天命に従わないから疲れると。無理というものは天命に逆らっているからだともいうのです。つまりすべてを「天にお任せするのだ」ということでしょう。
結果を気にして、評価を気にして、自分の人生を誰かのものにしてしまえば無理して疲れるばかりです。まさにこの今は、運命であり天命であり、これでいいのだと素直になって従っていけば自分の都合のままにはいきませんが必ず善いことになるとお導きに任せていけるのです。
お導きがこうであるのなら、素直にお導きに従いますと今を真剣に歩んでいる人は素直に自分のままでいられるように思います。あるがまま自分のままであるという仕合せは、何物にも代え難い人生の幸福です。
現代は脳ばかりを肥大化させ、人工知能の世の中ですから天命や運命、お導きなどという「信じる」ことはあまり意識されませんがこれは人間としての大切な永遠の叡智として切り離しておくことはできません。
子どもたちにも自分らしく疲れずに無理をせずに素直に生きられるように、天命に従いお導きを信じる生き方を譲り遺していきたいと思います。