選択と性格

人間関係というものは自分の性格をもっとも磨く機会を与えてくれるものです。また人間関係を通して行う仕事というものも同様に、性格を磨く最大の砥石になります。仕事を通して人間は成長するということがどういうことであるか少し深めてみようと思います。

amazonの創業者、ジェフべソス氏が母校で語ったスピーチに有名なものがあります。その話の中にこのような言葉があります。

「賢さは生まれ持った才能ですが、やさしさは選択です。生まれ持った才能とは、言ってしまえば与えられたものなので努力を要しません。その反面、選択をするということ、これは難しいことなのです。気を付けなければ、才能は私達を傲慢にします。そして自分の才能にうぬぼれると正しい選択をすることが出来なくなります。」

31歳のとき、それまでの仕事を辞めて挑戦するときこの選択が道を切り開く判断基準であったということです。

人間は才能を中心に据えて仕事をしていると、その能力に驕り思いやりや優しさを失っていくことが多いように思います。これを能力主義とも言いますが、その能力で成果を出すことを成果主義とも言います。結局は競争社会で生き残るために才能を磨けと才能のみに集中した結果、社会は貧しくなっていったように思います。

もちろん便利な力は成功を生みますが、その成功が人類の成長とイコールであったかどうかは別問題です。それに道具も使い道次第でどうにでもなりますから、道具といいます。使い手や使い道が成熟していなければ、それは戦争の道具になったり、他人を傷つける凶器にもなります。

それだけ便利な道具というものは、リスクを含んでいるのです。だからこそ発明家や技術者には単に賢さだけではなく、性格が必要になります。どのような性格を持っているかで選択が変わってくるからです。

現在、保育の業界であっても簡単便利に仕事がはかどるような道具は次々に生み出されています。しかしそれは果たしてどのような影響を与えるのかはあまり検証されず売れればいいと楽になるものばかりが増えてきています。本来のものづくりや発明というものは、目指している人間としての成長や仕合せを熟慮し取捨選択をしていくことで後世に遺されていきます。

私が古民家で扱う道具たちも、先人たちは多少不便であっても循環するものを中心に造られ地球が歓び、周囲のいのちを活かすような素材や材料、また使い手の心を磨き続けるようなものを残してくださっています。このものづくりの心は、賢さだけではなく確かな選択によって産み出されたものです。

私も発明家が幼い頃から夢でしたから、エジソンの本は何百回も呼んだし座右の銘もエジソンの努力の言葉にしていた時期も長くあります。発明するためには、世の中が明るくなるためのものと暗くしてしまうものがあります。

だからこそ私たちは思いやりや優しさを軸足にした組織やものづくり、仕事の仕方をしていく必要があると思うのです。それが真の働き方改革であり、それが本来の働く意味に直結しているのです。

子どもたちに譲り遺していきたい未来は、この今の選択にこそ懸かっています。その選択は性格によって決まっていきます。自分の性格を善くするために失敗することが挑戦の本質であり、挑戦することで人間は人間として偉大に成長するのです。

最後にそのジェフべソス氏の後輩へのメッセージです。

「他の人を蹴落としてまで賢くなるか、それともやさしくなるか?80歳になったあなたが、あなたの過去を振り返るとしましょう。その時に一番心に残っていること、思い出すことはあなたが下してきた決断の数々であると私は信じています。あなたが何を選ぶか、あなたが下す決断が「あなた」をつくっていきます。あなただけの道を切り開いて下さい。」

私も日々に子どもたちに先人の徳がそのまま譲れるように、心を優先して頭を使っていきたいと思います。

性格をつくる~木鶏の境地~

人間にはどんな人にも平等に存在しているものがあります。それは時間です。この時間というものは、子どもでも大人でもどんな人でも同じように時を持ちます。しかしその時の過ごし方となってくると同じではありません。その質量も価値も、時間との関係においては個人差があるからです。

その時に対する価値観がどうなっているのかで優先順位が決まっていくとも言えます。その時、何をやるのかというのは突き詰めていけば何を取捨選択するかということが観えている必要があります。

やらなくてもいいことをやっていても時間は足りなくなるばかりですから、本当に何をやればいいかというものに集中していく必要があるのです。その要点を掴む人はもっとも時間を活かしているとも言えます。その要点とは性格が決めているようにも思います。つまり時間を活かす人とは人格が磨かれ高まった人とイコールであるということがわかるのです。

この時間というものと正対するとき、それは単に時間管理能力ではなくその人の全人格が何よりも影響を与えているということがわかります。司馬遼太郎の坂の上の雲の中で出てきた秋山真之という海軍軍人がこういうことを言います。

「人間の頭に上下などはない。要点をつかむという能力と、不要不急のものは切り捨てるという大胆さだけが問題だ。従って物事が出来る、出来ぬというのは頭ではなく、性格だ」

その時々で何を先にやることが重要か、そして何から取り組むことがもっとも問題を解決するのかという能力は、今何を先にやるべきかがわかる力とも言えます。そのうえで、敢えて今やるべきことに集中するという胆力が問われるということです。

事物は料理のようなものと同じで、段取りが必要になります。その優先順位を今起きている事物から全体を見極め、その時々で最適な手を打ち続けていかなければなりません。いわば、タイミングを見極め、タイミングに合わせて最善の手を盡していくという判断能力が必要になるのです。リーダーとは、その判断する人のことであり善い参謀とはそのリーダーが最適な判断ができるように心配をかけないように仕事を進め、そのリーダーが自分の役割に専念できるようにあらゆる手を盡していくことです。秋山はこうも言います。

「明晰な目的樹立、狂いのない実施方法、そこまでは頭脳が考える。しかし、それを水火の中で実施するのは、頭脳ではない。性格である。平素、そういう性格をつくらねばならない。」

そのうえで、リーダーと共に実務を遂行する人にも性格が問われるといいます。この性格とは感情や意志などの傾向、つまりは「善い性格」を醸成し続けて自分自身の感情の調整や調和を取る力が必要になるということです。

人間が時間を有意義に活かすためには性格が必要で、その時々に発生する事柄に対して常に自分の感情や意志のバランスを取る力が問われます。たとえば、危機的な時には楽観性を併せ持ち、安定安寧の時には危機感をもって精進するというように常に性格を主軸にバランスを取るのです。

これらのバランス感覚が優れている人が何よりも時間管理に長けており、何を今、もっともやることが全体にとってもっとも必要なことであるかということの判断と行動が実行できるようになると思うからです。

今しなければならないことを先に延ばすのも、やらなくてもいいことをいつまでもやってしまうのもまたこの性格が鍵を握ります。何のためにやっているのかと考え続けていくことも性格を磨きます、また優先順位を常に確認して大胆に取捨選択していく決断や判断も性格を磨きます。

どんな状況であっても性格によって対処していく、これを木鶏の境地と私は呼びます。

しかしそうなるには、日々の時間の使い方、つまりは生き方が左右します。「今何をやるべきか、いつも何をやるべきか、常に自分の使い方を気を付けていく」といった自分の生き方を変えない限り性格も変わらず、性格が変わらなければ時間もまた変わらないのです。だからこそ日々性格をつくるのだという気概が時間を活かす要点なのでしょう。

きっと日露戦争での勝利は、激変激動の中で木鶏であった人たちが導いた勝利だったのでしょう。まさに変化のときこそ、この言葉を大切にしていきたいと思います。

 

共存共栄

人は成長し合う関係の中で信頼関係を築いていくものです。どちらか片方だけで成長しているかといっても能力が高まっただけで本来の成長ではありません。この成長とは、一緒に生きるという人間関係になっているということです。

これは夫婦も同じく、働くパートナーも同様に共に成長することではじめて成長したと言えるのです。この「共に」というものを大切にすることを「共存」といい、お互いに成長し合って発展していくことを「共栄」と言います。

共存共栄とは、一緒に成長し合う関係を築いていくということです。

もしも自分さえ生き残ればそれでいいと強く逞しいものだけが生き残ればいいという発想のもとに成果主義、能力主義で個人ばかりを優秀にしていく社会にすれば孤立無縁関係になっっていきます。必死に能力を磨いて生き残ろうとしても、その孤独感やプレッシャーで精神的に疲れていくものです。

殺伐とした関係の中で本当の信頼関係はできません。如何に安心できる関係を築くか、それはすべてこの共存共栄にかかっているといっても過言ではありません。

能力が高く強いものが生き残り、弱者は切り捨てていくという発想では世の中は優しくなりません。思いやりのない社会をいつまでも作ることに加担していたら、世の中で不仕合せな人が増えていくばかりです。お金ばっかりたくさん貯蓄して富裕層になったとしても心が貧しければそれでは真の豊かさを持ち合わせたのではありません。

真の豊かさは人間関係の中にある信頼関係にこそあります。人間は暮らしが安心していくのならそこに生きがいや遣り甲斐、働き甲斐や幸福感を感じることができるからです。

いい会社というものは、古今東西、歴史を鑑みても不況の時であっても社員を切り捨てるのではなくリストラをしないで全員で痛みを分け合って乗り切ろうとします。また敢えて障碍者を採用してみんなが仕事ができるように優しく思いやり、仕事も分け合って助け合って経営をしている会社は優しくて幸せな会社になって社会も豊かにしている上に業績もしっかりと伸びています。

決して能力主義や成果主義、比較評価といった弱肉強食の思いやりに欠けた環境で競わせなくても人間は思いやりや優しささえあれば、組織をよりいいものに換えていけるのです。

私が目指しているいい会社とは、思いやりを優先する優しい社会のことなのです。共存共栄の社会は一人の自覚からでも興せます。その一人一人が増えていくことが社会を改革していくことになります。

子どもたちの憧れる社会のために尽力していきたいと思います。

 

草莽崛起

歴史を学ぶ中で志が受け継がれていることを感じるものです。現代の様々なものは、かつて志を立てた人がいて、それを後世の人たちが引き継ぐことでカタチになっているとも言えます。それにこれからもまた、その志を受け継ぎ偉大なことが実現するときまで誰かが顕れ継承されていくのです。

わかりやすいものは、明治維新のころの松下村塾です。吉田松陰もまた、先人たちの遺志を継いで志を立てましたがその志は塾生たちによって実現していきました。また塾生たちが出会った人物たちもその志に触れ志を立てて参画し継承していきました。

たとえば、松下村塾の塾生に久坂玄瑞という人物がいます。この人物は禁門の変によって若くして亡くなりましたが坂本龍馬、西郷隆盛、高杉晋作など多くの志士たちに多大な影響を与えました。彼の死によって、志士たちはその遺志を分け合い後を引き継ぎ事を為す原動力にしていきました。

このように志は、志士によって醸成され、それは継承されることでさらに発達発展を遂げていくのです。代を積み重ねるたびに力が増していくのです。自分の代だけで簡単に終わってしまうものは志ではなく、死してなおそれが受け継がれていくようなものを持つことが志ともいえるのです。

「今自分の胸にあるのは、病人を治す処方ではない。天下を治療する処方である」

これは久坂玄瑞が松下村塾で立てた志です。もちろんこれは吉田松陰に出会うことで、志に出会ったのです。そしてその志は次第に草莽崛起という言葉に発展していきます。

「大名や公家はあてにならない。本当に力を発揮するのは草莽の志士の連中だけだ」

そして久坂玄瑞が亡くなったのち、高杉晋作や坂本龍馬、西郷隆盛をはじめ多くの志士たちが同時に立ち上がり草莽崛起を実現していくのです。

この草莽崛起という言葉は、まさに志士たちのためにある言葉です。久坂も「私の志は、夜明けに輝く月のほかに知る人はいない」ということを詠んでいます。見た目は他と変わらぬ普通の人であったとしてもその志は見た目にはわからず理解もされません。しかし自分自身は何よりもその志を知っています。明け方に月を眺め、意志を強く持って行動を続けた純粋な姿が観えてきます。

「私は、意志が弱い人間です。将来、私は、成功出来る人間ではない。しかし、もし私自身が駄目だと思い、行動しなければ出来ることも出来なくなる」とも詠んでいます。いのちを懸けるというものは、いのちを懸けようと行動した人たちが語れる言葉なのです。

それらの志をそれぞれの志士たちが自分の道で実現していくこと、道はたくさんあるのだからその道で志に向かいいのちを懸けることこそが草莽崛起であるのです。

時代がいくら変化しても、草莽の志は絶えることはなく私たちの心魂の中で生き続けて成長を続けていきます。まさに代を重ねていくいのちそのものとなってです。

私も草莽の志士としてなすべき今に集中していきたいと思います。

 

鏡開き

昨年末に御餅つきをして歳神様に祀っていた鏡餅の鏡開きを行いました。一昨年は、カビが御餅の中までひどく生えて食べることができなかったため、今年ははじめから色々と工夫しました。

たとえば、御餅に焼酎を塗りこんだり、粒炭を御餅と御餅の隙間に入れたり、ワサビを御餅の近くに置いたり、また日ごろは玄関の神棚の近くの温度が上がらないような場所に置き、お祝いの時だけ床の間に出したりと歳神様の依り代としての鏡餅をずっと意識しながら工夫しました。

御蔭様で今年は一切カビも発生せず、いい具合に乾燥も進み綺麗なままのお姿で鏡開きを行うことができました。

この鏡開きとはお正月の間ずっと歳神様がいらっしゃる松の内の間は鏡餅としてお祀りしておりますが松の内が過ぎたらさげて歳神様を遠方へとお見送りします。その際、歳神の依り代であった鏡餅には歳神様の魂が宿っておられる鏡餅を食べることでその力を授けてもらい一年間の無病息災を祈念したのです。歳神様にお供えした鏡餅を家族で一緒に食べることではじめてこの行事は滞りなく実施されたことになるのです。

もともとは鏡開きは武家から始まった行事なので、鏡餅に刃物を使うことは切腹を連想させるのでよくないとされました。そこで手か木槌などで割ることになりましたがこの「割る」という表現も縁起が悪いとされ末広がりを意味する「開く」を使って「鏡開き」というようになったといいます。

今回はしめ縄づくりで用いられている古い木槌を使い御餅を打ち開きました。なかなか硬くて開けませんでしたから、力いっぱい何度も何度も打ち開いていくうちに細かく分かれていきました。

健康や幸福を祈り、お米のもつ力をみんなで感じてながらその力を分け合い頂くことの有難さを改めて感じました。

私にとっては新しいことを開くことを決意する貴重な一日になりました。

この日を忘れずに、新たな道を開いていきたいと思います。

志半ば

私が起業したての頃、郷里で志を同じくする仲間ができました。その仲間の一人が昨年、志半ばで斃れて亡くなりました。あれから9か月過ぎ、彼のご両親と同志と一緒に改めて生前のこと、彼の人物、その人柄を語り合い懐かしみ共に心を寄り添い供養をしたような有難い御縁と時間になりました。

彼は志半ばで逝きましたが、改めて思い返せば返すほどに志に生きた素晴らしい人物であったのを感じます。何よりも自分の会社を愛し、生き方と働き方すべてを一生一体となり、何よりも働くことにおいては同志を求め、そして同志たちに深く愛され、目的を最期まで手放さずに遣り切りました。その生き方や生き様は私たちの人生の中に生き続けており、この後、道を引き続き歩む私たちの養分になってくれているように思います。

人間の生死は自然であり、不自然ではありません。いつ生まれいつ死ぬか、それは天にしかわかりません。しかしその一生において、何にいのちを懸けたかはその人だけのものです。つまりは生き死には決められなくても、どう生きるかは決めることができるのです。

自分の決めた生き方を貫いた人は、後に続くものたちへの追い風になります。その追い風は、どんな逆風の時でも逆境の時でも柵となり流されないように支えてくれます。同志の存在は時空を超え、場所を超え、志という絆によってお互いを強く支え合い前進するための原動力になります。

彼の生前の生き方をこのタイミングで知れたことは、私にとってもかけがえのない出会いになりました。不思議なことですが、出会いは亡くなってからの出会いもあるということを知りました。むしろ亡くなってからの出会いの方が、生き方や生き様、その「思い」との出会いですからより純粋に道を紡ぎやすくなる感覚がありました。

何かをすることで同志というのではなく、何のために生きるのかを求道したからこそ同志と呼べる。

業務や仕事内容、会社の違いなどはたいした問題ではない。本当に大切なのは、何にいのちを懸けたかという生き方の問題なのです。その何とは、目的のことです。目的が同じかどうかを確認することなしに、仲間を簡単に同志とは軽々しく言ってはならないと私自身も考え直す機会になりました。

最後に、彼を思い返せば返すほどに司馬遼太郎さんの時代歴史小説の中の「竜馬がいく」の竜馬のように飄々としてふざけていて明るく前だけを向いて笑って理想に生きた人だったような気がしました。この竜馬の言葉を彼の生き方に照らしつつ同志に手向けます。

「人の一生というのは、たかが五十年そこそこである。いったん志を抱けば、この志に向かって事が進歩するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。たとえ、その目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。生死は自然現象だから、これを計算に入れてはいけない。」

「業なかばで倒れてもよい。そのときは、目標の方角にむかい、その姿勢で倒れよ。」

「男子は生あるかぎり、理想をもち、理想に一歩でも近づくべく坂をのぼるべきである。」

・・・

「おのおの、その志のままに生きよ。」

・・・

道半ばで斃れてもその屍をこえてゆくのが遺された人たちの運命ですから、志を受け継ぎ残りの道を心ゆく迄歩んでいこうと思います。

また次の出会いが楽しみになりました、貴重な御縁と出会いをありがとうございました。

生き方と働き方の一致

だいぶ前に「180°south 」というライフドキュメンタリー映画を見たことがあります。これはアウトドアの世界的有名ブランドのpatagonia創業者イヴォン・シュイナードとTHE NORTH FACE創業者ダグ・トンプキンスの二人の運命を180°変えた一つの旅を振り返り、ひとりの青年がその軌跡を追体験するように制作されたものです。

その中でイヴォン・シュイナードの人柄や美学にはとても共感するものがありました。自分の生き方を仕事にしていて、仕事が生き方の一つの表現になっている。生き方と働き方を分けない姿が、このブランドの価値を創造したように思います。

このパタゴニアは、マーケティングにおいても10パーセントの同じ価値観や生き方をする人たちだけでいいと最初から決めてすべての生産や販売を管理しています。また社員たちも同じ生き方をしようとする人たちを集めるために、採用においても工夫をしています。

現在では、老舗企業の風格で創業メンバーの子どもたちが志を受け継いで展開しているようですが今でも多くの人たちの心をつかんでいるように思います。

そのイヴォン・シュイナードの言葉にこういうものがあります。

「シンプルで居る事は難しい、何でも複雑にして行く事は簡単なんだ」

これは本質であり続けることの難しさ、「何のために」ということを突き詰めて生活を削ぎ落していくことの難しさを語っているように思います。日々の喧騒ですぐに忘れてしまう目的や初心が、より自分の人生の道を曇らせていくように思います。その中でも本質を保つということはよほど覚悟を決めた旅を歩んでいく必要があります。

またこうもいいます。

「「時間がなくて」あるいは「忙しくて」。これらは嘘の言い訳だ。これらの言葉の裏に隠れた真実は「優先度合が低いからまだやっていない」のであり、もっと言うなら、やりたくないというのが本心である。」

自分の人生の優先順位を間違えてしまえば、本当にやろうとしたことよりも日々の雑念や我欲に負けてもっともらしい理由をつけてはやろうとはしなくなります。これはやりたくないということを隠しているだけであり、本来の覚悟が揺らいでいるのです。自分で決めた生き方があるのなら、どんな理由があったにせよ途中であきらめるわけでにいきません。しかし、ちょっとした困難やトラブルがあったくらいで人は早々に諦めてしまうことが多いようにも思います。だからこそこうもいいます。

「旅で、想定外のことが起こったら、そこからが冒険だ」と。

冒険する人生を旅するというのは、決してアウトドアの世界の話だけではなく生き方の話です。冒険が楽しいからこそ、仕事も楽しいと言えることがシンプルにするということでしょう。

パタゴニアの社訓は「遊ばざるもの、働くべからず」とあります。これは遊ぶように働き、働くように遊ぶという意味でしょう。まさに本質でありシンプルであり、生き方と働き方の一致を言います。

カグヤも生き方と働き方の一致を目指していますから、冒険こそが人生の醍醐味になるような生き方を優先していきたいものです。

最後に、この映画で共感したこの言葉で締めくくります。

「人は魂の救済のために行動しないと。それぞれの方法で。」

世界には同志がいて、それぞれの方法で同じ頂きを目指しています。私もその一人として、自分のやるべきことに専念し最期の一人になっても登頂にアタックする覚悟で一期一会の挑戦を楽しみたいと思います。

 

 

 

 

自分に正直に生きる

昨日、海外に住む親戚の長男が聴福庵でオリジナルのダンスを披露してくれました。様々なダンスの大会に出たり、学校に通ったりと自分なりに好きなことを楽しんでいました。

若さの花もありますが、好きなことを本気で打ち込んでいる姿には引き込まれるものがありました。自分に正直に生きていくということは、誰かが教えてくれるわけではありません。自分自身が何よりも悔いのない生き方をしているかは、自分自身が一番よくわかっているからです。

人間は誰しも小さな自分への嘘が積もりに積もっていくうちに自分への不信を募らせていくものです。そのうちに仕上がってしまえば、本心を打ち明けることもなく本心のままでいることもできなくなります。

自分に嘘をつかないというのは、自分に正直になることですがこの正直になるということが頭ではわからないものです。他人に聴かれても正直になるとはどういうことか、それは自分勝手になることか、自分中心になることかと考えてしまいかえって周囲の反感を買う人も多いように思います。

そうではなく、人生は二度となく自分も二人といないのだから「悔いがないか」と自分に問うということが正直であるということなのです。

悔いのない生き方をする人たちは優先順位をもって生きています。自分が何を大切にしているかということ、そして何のためにこのいのちを使うか、そして志を立てるために何を諦め何に集中するかということが腹に落ちています。

だからこそ今に真剣に打ち込むことができるのであり、何よりも自分というものと正対して自分にしかない天命を生きていこうとするのです。天命を生きる人は仕合せな人であり、悔いのない人生を生きる人は幸福を味わいながら歩んでいくものです。

本来の自分が何を優先して生きようとしたか、それを忙しさの中で忘れないように理念や初心はあるのです。自分自身が自問自答することなしに仕合せを掴むこともできず、自分に正直に生きることなしに真の幸福もありません。

一期一会の人生が座右ですが、まだまだ反省することばかりです。

引き続き、自分に正直に生きることで子どもたちに希望の光を与えていきたいと思います。

あなたの志は何ですか?

今年も無事に萩にある松陰神社に参拝することができました。幼い頃から志を学ぶ師と仰ぎ学び続けてきましたが苦しかった年、辛かった年の後ほど此処に来ると志風によって偉大に応援されている気持ちになります。

自分の頭で考えたことがどれだけあった一年であったか、どれだけ他人との答え合わせに生きるのではなく自分の答えを生きたか。ここに来ると毎回不思議ですが自分自身の人生の主人公として魂を磨ききったかと師に問われている気持ちになります。

きっと吉田松陰にとっては日々歳月の艱難辛苦こそが学問を通して自己を磨き自己を確立する善い機会だと歓喜し道の探求と実践を積み重ねた日々を送っていたように思います。それが生前に遺している言葉の数々からも省みることができます。

計愈々(いよいよ)違(たが)ひて志愈々堅し。天の我れを試むる、我れ亦(また)何をか憂へん。

仮令(たとい)獄中にありとも敵愾(てきがい)の心一日として忘るべからず。苟(いやしく)も敵愾の心忘れざれば、一日も学問の切磋(せっさ)怠るべきに非(あら)ず。

志荘(こころざし そう)ならば安(いず)くんぞ往(ゆ)くとして学を成すべからざらんや。

夫れ重きを以て任と為す者、才を以て恃みと為すに足らず。知を以て恃みと為すに足らず。必ずや志を以て気を率ゐ、黽勉に従ひて而る後可なり。

を立ててもって万事の源となす 。

この「志を持つことをすべての原点」とした吉田松陰の教えは、松下村塾の塾生たちの生き方に多大な影響を与えました。そしてそれは死後もまた、純粋な日本人の魂に語り掛け続けています。

気が充実するというのは、機が充実するということです。これはその機会が満ちるのを待つという状況であり、それまでは気を蓄え機(タイミング)まで力を磨き続けるということです。この「気」こそまさに志から発するものであり、気力の充実は志力の充実でもあります。志が結実するとき、まさにそれが時機でありその時期に応じている結晶が結果として顕現します。

すべての機会を自分を磨くためにあるとする生き方は、今のような人生とはあまり関係のない歪んだ学問がひろまっている時代にはとても大切な指針になるように思えます。学問は他人のためではなく、自分のためであるといったのは孔子の時代からあったことですから今さらどうこう言っても仕方がなく、指針として生き方を学び直すしかありません。

志とは、刀と砥石の関係であり魂は志があってはじめて磨かれるのです。

最後に今年のテーマに近い言葉に出会いました。どの時代においても変化に適応していくことは学問の要です。

「天下に機あり、務(む)あり。機を知らざれば務を知ること能(あた)わず。時務(時務)を知らざるは俊傑(しゅんけつ)に非(あら)ず。」

意訳ですがこの世には必ず機があり、それを待つ実践というものがある。いくら能力が高く優れていたとしてもその幾に当たらなければ決して何もできはしない。その場その場に集中し、今を適切に応じて実践していくことなしには天与の才徳を持っているとは言えないのである。と。
つまりは本来の天才は、日々の実践を知るものこそが機を活かすことができるということです。目標が達しないからと腐るのではなく、まだまだ志が低く徳が薄いのだと精進するものこそが天与の才徳を活かすのでしょう。
過去や未来を思い憂い、今から離れようとする時こそ「あなたの志は何ですか?」という言葉を三省して自己を磨き続けていきたいと思います。子どもたちに譲り遺していきたい生き方を自らの道を歩むことを以て伝承していきたいと思います。

しっくり

和室を整えていると、心も同時に整ってきます。和とはそもそも整い調和することで、すべての関係性があるべきところに配置され理想的な空間を産出すことを言うと私は思います。

たとえば、自然であれば美しい山に入るとそこには様々な自然が配置されています。木々はもちろんのこと、川のせせらぎや大きな岩、そして谷に空に獣道まで見事に調和して山の風景を彩ります。美しい山には、不自然な物はなくそこには自然に造形したものが見事に配置されているのです。この配置は一つではならず、あるべき場所にあるべきものがしっくりくる時に感得するものです。

このしっくりとは何か。これは私の感覚では根づくということです。たとえば、畑で苗を植えていきますがその場所に相応しいところに配置しなければ他の野菜たちとぶつかり安心して育つことができません。その苗が生きていくために必要な空間、またはその畑全体の配置を考えて植えていかなければそれぞれが結実していくことがありません。

同様に和室の空間の道具たちもまた、全体の空間にしっくりと来るように根付く場所を与えてあげなければそのものが宙ぶらりになってしまいます。そういう時は、片付けをして仕舞いまたその場所が空くのを待ってもらうか、もしくは別のところを探して配置していくしかありません。

この根づく感覚がしっくりであり、それは具体的にその場所でそのものを置いてみなければわかりません。しかしこのしっくりと来る感覚が分かれば、次第に心が落ち着くということもわかってきます。

お互いの関係性が結びつきやすいものか、その場所が居心地の善い場所か、それは物を置いてみればわかりますし、一緒に並べてみればわかります。私は古民家で、炭と水晶を一緒に活用することもありますが火と水というものも調和するととてもしっくりと来るものです。火鉢の鉄瓶から湯気が立っているのを観る感覚に癒される人が多いことと同じです。

それくらい万物が一体に調和すると、心もまた落ち着いてくるのです。この心の落ち着きこそがしっくりであり、しっくりくるときその場はとても清浄な場所になっていることが証明されます。

場づくりというものは、目には観えませんがマネージメントの本質であり人間の智慧の結集されたものです。私はこれを風土と定義しており、私の持つ風土感はこの一点に凝縮されているのです。

心が落ち着けば自ずから穢れは払われ、その場は清浄になりすべては調和します。調和を乱さないように常に配置には気を付け、常に配置に配慮することが思いやりや真心になっていくのです。

なかなかこれを誰でも伝わるように仕組み化するのは骨が折れる作業ですが、諦めずに子どもたちのためにカタチにしていきたいと思います。