先日、稲盛和夫氏の言葉で「謙虚は魔除け」という言葉を知りました。これはとても感じ入り、すぐにノートにメモを取りました。確かに、謙虚であるときは不思議と福が集まり好転する循環が発生してきます。しかしこれが傲慢になるとき、ありとあらゆる魔が差し込んでくるものです。
その「魔」とは何か、少し深めてみようと思います。
この「魔」は辞書には、「人を迷わすもの。修行をさまたげ、善事を害する悪神。人間わざでない、不思議な力をもち、悪をなすもの」と書かれています。ブリタニカ国際大百科事典には「古くは摩,磨とも書いたが梁の武帝のとき,魔にしたのが始りといわれる。しかし,武帝以前に魔の字は存在したらしい。魔はサンスクリット語 māraの音写,魔羅の略語で,殺すものという意味。翻訳語に殺者,奪命,悪魔などがあるが,人の生命を奪い,善事を妨げる悪い鬼神をさす。仏教では魔の内観的意味として,煩悩など衆生を悩ますものを魔といい,自己の身心から生じる障礙を内魔,外界から加わる障礙を外魔という。」と紹介されています。
つまりシンプルに言えば、人間修養の妨げになるものであり人間の煩悩のことを言うように思います。人間には誰しも己の中に魔が住んでいるといいます。これを「己心の魔」とも言います。己の中から湧き出てくる魔を如何に払い除いていくかに「福」が関わっているということでしょう。
この己心の魔は、自分自身に宿る煩悩や欲望で仏教では五欲や十悪などと言われますが人それぞれに非常に多くの煩悩が存在します。人間としてどう生きていくかと向き合い取り組みはじめても常にその煩悩が邪魔をしてくるのです。この「邪魔」とは文字通り、道を歩む妨げになるものです。
その「魔」を除けることで道を安心して歩んでいくことができます。神社では御守りやお札などで魔除けをします。同様に生きる上で心がける御守りを持つということは、様々な自戒をもって歩んでいくことに似ています。その一つに、謙虚というものがあるのです。
中道を歩みバランスを崩さずに歩んでいくことはとても難しいものです。一度、己心の魔に呑まれたら都合よく解釈をして自分がズレていることにも気づきません。そうならないように常に自己を正しく反省するために、物差しになるのは同じように修行をしている謙虚な人々の生き方を学び直したり、その人たちに触れたり、諫言や叱ってくださるようなアドバイスを自ら学んだりという素直さが必要です。
そして素直になれば、自分の傲慢さで自分の魔に打ち克つ謙遜があります。本物の自分でいるか、あるがままの自分を自覚しているかと確かめていくのです。自分の心が澄んでいないのではないかと常に確認している人は、常に今を善き心にしようとします。このように生きている人は、まさに「謙ゆえに福、虚ゆえに幸」なのでしょう。
道を歩む心構えを歪めないように、日々に深く反省し子どもたちや大切な人たちを見守れるように私自身の精進を怠らず謙虚を魔除けにして努めていきたいと思います。