問題というものは問題の原因がわかることで半分が解決していきます。しかしその問題がわからなければループを続け、いつまでも苦しみが続いていくように思います。まずはその問題の本質が何か、そこに気づくことが大切です。
しかし問題というものは、表に出ているものもあれば潜在的に隠れているものもあります。特に表に原因がはっきりとわかるものは問題が見つけやすく、対策もまた立てられますが過去の幼少期の体験で記憶にないものや、もしくは生まれる前の記憶のようなものに対しては原因の特定が難しく、問題も見つけにくいように思うのです。
その問題も解決した方がいいものと、問題があった方がよりよい人生が歩んでいけるものもあります。生きがいや遣り甲斐につながるものもあるからです。その時の基準は仕合せかどうかということになりますが、仕合せになるためにはその時々の本質と向き合い適応していくしかないように思います。
問題が出てくると感じるときはどのような時かと振り返ってみると、自分が不仕合せを感じるときです。なぜ不仕合せかと思うと、そこに自分自身の潜在的な意識や、心の持ち方に何かしらの問題を抱えていることに気づきます。
その問題に気づけるかどうかというものも、自分の感情で満たされていたら気づけませんし、同様の体験をして乗り越えた人の話でなければ心に響くこともありません。そしてまた向き合い受け容れ許すためには内省や内観が必要になってきます。
人生の中で、愛に気づいて愛に目覚めるというのもまた自分の実体験を通した疼きや傷から出会いが生まれてくるように思うからです。人生体験で私たちが得るものは、愛や仕合せということなのでしょう。
愛や仕合せを味わうために、必要な人間関係があり、日々の出会いがあります。心の平穏もまたその日々の暮らしの中に存在しています。
子どもたちが憧れる生き方を目指し、もっと素直に、自らの心の声に従って自分を毀していきたいと思います。