大切なことを忘れないDAY 8年目

東日本大震災から今日で8年目を迎えました。あの時の東京で被災した私もあの揺れの大きさや自然の畏怖は忘れることはできません。あの時を思い返すと、まるで昨日のようにその怖さが思い出されます。

新宿の高層ビルの中、周りの高いビルが左右に揺れて今にも折れそうな具合です。これが折れたら間違いなく死ぬだろうとほぼ諦めの状態でテーブルの下に隠れていました。

その後は、電車などすべてが止まっており帰宅するとキッチン周りがぐちゃぐちゃになっていました。この揺れの恐怖でも大変なのに、その後に津波が来たと思うと想像を絶するものです。そしてあの原発のメルトダウンが発生し、空から放射能が降ってくるという人災がやってきました。あの人災が立ち直れないほどの災害で、自然は回復しても人災はなかなか回復することができません。

私たちはすぐにサテライトオフィスを福岡に設け、そこに社員と家族を連れて移動しましたが移動できない人もいました。遠方からできることとしたら物資の調達やお手紙などで励ましくらいでした。

あの体験がなければ、私たちは今のようにむかしの田んぼでお米を作ったりすることもなく、自然農法や発酵技術を学ぶこともなく、むかしの暮らしとして古民家の甦生や、伝統の継承なども学ぶこともなかったと思うと私たちは今でもあのことを忘れてはないと感じるのです。

毎年この日は、会社で「大切なことを忘れないDAY」として、日本人の生き方や道徳、そして何を優先するべきか、日本人とは何かということを学び合います。これは子どもたちが将来、同じような体験をするとき先人をはじめ私たちがどのようにそれを受け止めて乗り越えてきたか、そしてその禍いを転じてどう福にしてきたかというモデルを示すための実践の一つです。

いつの日も、いつの時代も、最期まで遺り、子孫の徳になっていくのは先人たちの譲り遺した想いと生き方、生き様です。

子どもの志事とは何か、私たちの本業は何か、忘れない日にしたいと思います。

刷り込みの仕組み

先日、インターネットのニュースでメンタリストDAIGOさんの興味深い記事を読むことがありました。この方は心理学に基づき、それを応用して暗示や人心を掌握したり人間の持っている刷り込みなどを上手く逆手にとって活用する仕組みを展開されています。

今回私が興味を持った記事は下記の話です。

『タバコやダイエット中の甘いものなど、やめたくてもやめられないものってありますよね。今回のメンタリストDaiGoの「心理分析してみた!」では、そんな悪い習慣をやめる方法について解説します。禁煙やダイエット中、自分に禁止や制限をかけると、1.5倍それが欲しくなってしまうというのがわかっています。では、どうすれば成功するのでしょうか。実は人間の、強制をされたりノルマを課されるとやめたくなるという心理を利用すればいいのです。つまりタバコをやめる方法としては、制限をかけるのではなく、逆に自分に「何本まで吸わなくちゃいけない」といったノルマを課すのが正解なのです。禁煙をすると太るという話もありますが、これなら両方簡単に成功できて、一石二鳥かもしれません』

この自分の悪い習慣をやめる際に、禁止や制限をかけることでかえって欲が増大するということがわかっています。それを逆手にとって「ノルマ」にしてしまうという発想です。

ノルマを自分に課せば課すほど、「やらされ感やさせられ感」が強くなっていきますからかえってやりたくなくなっていきます。「やってはいけない」ではなく、「やらなければならない」と思った方が人間やりたくなくなるという心理を活用しているのです。

これは上手く人間心理をついていることと思います。

昔から本来、やりたかったものにノルマを課される教育をされてきていますから勉強が嫌いになっている人が多いように思います。私も、社会人になってから学問の歓びを知り、今では様々な人から博士だのオタクだの職人だのこだわり強いなどいろいろと言われますが勉強好きだったわけではありません。

ノルマを課されていたころは、反発するか仕方なく従うかしか選択肢がなく、すぐに自分に「しなければならない」と言い聞かせて行動する癖が沁みついていました。主体的にやりたいことをただ楽しくやっているのではなく、どこかからマジメにやることにすげ変わってしまい楽しくなくなっていくのです。

責任感という名のノルマを自分に課すことでかえって続かないという悪循環に陥るのです。それを逆手にとって、自分の悪習慣を換えてしまうというのは面白いことと思います。

悪習慣をやりたくないことによって改善していく、マイナスをマイナスで消すという仕組みです。そもそも悪習慣をマイナスと思っていないから、いつまでたっても直すことができません。だからこそ、悪習慣を悪習慣だと如何に脳に自覚させていくか。ここが重要だということになります。

本人の脳がこれは絶対によくないと刷り込みを取り払われるまで、その悪習慣はいつまでも変わりません。これが意識改革です、それを取り払うための仕組みとしては脳の構造を理解し、脳がかえって刷り込みを刷り込みなおすのを手伝うことを実行していくという具合です。

色々と刷り込みを深めていると、なぜ刷り込まれたか、どうして刷り込んだかの理由が見え隠れしてくるものです。子どもたちが安心して自分らしく生きていけるようにより探求してみたいと思います。

 

刷り込みに気づく

物事には見方というものがあります。その人がどのような見方をしているか、それは生き方が左右していることがわかります。あるものを見る人と、ないものばかりを見る人では生き方が異なります。

そして見方や生き方が異なるから判断もまたその通りになってきます。例えば、ないものばかりを見る人は常に物事の悪い方やマイナスな方ばかりに意識を持っています。何か事があればよくなかった方、できなかった方、ダメだった方に意識を持つようになります。すると、改善という言葉に対してもマイナスをプラスにする方法のことだと思い込んでしまうのです。

その逆に、あるものばかりを見る人は常に物事の善い方やプラスの方を意識します。何か事があれば楽観的にこのままでいい、ちょうどいい、うまくいっていると感じポジティブな意識を持つようになります。すると改善という言葉は、プラスがもっと良くなる、さらにいいことになると思い込んでいきます。

これは意識の差が出ていることは明白です。人間、足るを知る意識の人の方が仕合せになるからです。ないものねだりばかりをしては不平不満をして生きていては笑顔もなくなりますし、周囲の人間関係も良好に築けません。

そしてこの意識の差は一生を左右していきます。生き方を変えるというのは、この物事の見方を変えることをいいます。自分の脳の癖や、思考のパターンを変革していくことは行動を変えて習慣を換えていくしかありません。

この習慣を換えていくために人は、敢えて今までの自分と決別した行動をとったり、勇気を出して今までのものを手放したりすることで成長していきます。ありたい自分を創り上げていくことは、自分自身を新たに創造していくことです。それは新しい自分に出会うことであり、自分自身を自分で育てていく主人になることです。

自分の意識を改変していくということを意識するには、自分自身の意識が人生を左右していることに気づくのが先です。周りばかりを見るのではなく、自分の物事の見方がどうなっているのかを自らがメンテナンスしていくのが何よりも優先だからです。

自己改革というのは、価値観の改革であり世界観の改革です。思い通りにいかないときこそ、感情が揺さぶられ苦しい時こそ、一度、自分自身の意識がどうなっているのかを見つめるチャンスだと思うことのように思います。

変わっていく面白さ、刷り込みは取り払えることを子どもたちに背中で見せていきたいと思います。

 

初心を忘れるな

人間にはそれぞれに得意分野というものがあります。自分が得意なものを周囲に知ってもらってそれを活かしてもらえることは仕合せなことです。同じように周りの人たちにもそれぞれに得意分野というものがあります。

その得意分野を持ち合いながら助け合えることで人はみんなで大きなことを実現できるように思います。この得意は、特異でもあり、それぞれの異なりを活かすという寛容さや共感が必要です。

もしも自分のやり方ばかりが正しいと固執し他を認めなければすぐにギクシャクしてしまいます。お互いを認め合うためには、まず自分自身を認め、同様に他を認めるというプロセスが必要です。

自分らしさや自分のままであること、そのうえで同じように周りもそのように自由に認めていくこと。さらにお互いに自由なままで共通の理念や目的のために折り合いをつけながら助け合うこと。これらは人間としてのスキルになってきます。この人間スキルが、人間学であり修養でもあります。

この人間を磨いていく時期は、思いどおりにもならず苦しいかもしれません。しかしその苦しい時期は、自分が人間を磨いている時期だとし、慎独しながら自分の心に耳を傾け、本来の動機はどうだったかと初心を振り返り、何のため誰のためにやっていたのかと理念に立ち返るしかありません。

人は暗闇の中で灯台を見失えば、どうしても焦りや不安から感情に呑み込まれてしまいます。そのような時こそ、自分の心の中にある灯台を見出し、心の灯台を信じて暗闇を歩んでいくしかありません。

仏陀に、自灯明、法灯明という言葉があります。これは「自らを灯明とし、自らを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなかれ」といいます。

大事なのは、他人に依拠してはならぬと。自らを灯明にせよということです。

自分自身の初心を忘れるなという言葉は、この言葉と同じ意味です。引き続き、子どもたちのために自らの灯明を照らし続けていきたいと思います。

天の時、地の利、人の和

人間が利便性を追求してなんでも思い通りになることが前提になっていくと、不測の事態や思い通りにならないことがあると途端に脆弱になっていくものです。つまり簡単便利になればなるほど、それに反比例して人間が弱く脆くなっていくということです。

本来、自然界で存在していれば思い通りになることなどほとんどなく自分自身が環境に合わせて変わっていくしかありません。自然から遠ざかり自分の思い通りなることが上手くいっていると思い込み、周りが変わらないことをいくら怒ってもそれは不自然ですから自然の流れからは淘汰されてしまうものです。

不安の元が何なのか、本当に間違っているのは何かを見極めるには自分自身が自然と向き合い、時の流れや人の関係、どの場所にいるのかなど客観的に自分を見つめて冷静に判断していくしかりません。何が自然かと見つめるためには客観的に事実を理解していくことからはじまります。

客観的に物事が観えるようになってくると、人は次は楽観的に物事を感じれるようになります。この楽観性は、あれば人は笑顔になり融通無碍にどのような変化が出てきてもそれを味わい、臨機応変に自分を発揮していくことができます。

人が主観だけになり悲観的になるのは、己に負けてしまうからです。己が不快な感情になるのは、自分を喜ばせていないからであり、周囲もまたその波長によって喜べなくなっていくのです。自分で自分を苦しめると周りも苦しみます。その逆に一緒に喜び合うためには、自分が先に自分自身を愉快にして周囲もまたその愉快によって共に楽観的な環境を創造していくかありません。

人間に知性が求められるのは、自己の発揮に己を律し、己を立てる必要が出てくるからです。自己を確立していくためには、自分に打ち克ち、自分の初心や動機を忘れずにどれだけ今に尽力したかということに命を懸けなければなりません。そのためには、人工的な利便性を追求した便利な頭脳ではなく、自然を感じて直観的に不便であっても手間暇をかけて丹精を籠めて自己改善に取り組んでいくという誠が必要になります。怒りや苦しみに耐え、つらいことを乗り越えてどのような生き物も成長していきます。

最後に渋沢栄一の言葉です。

「どんなに勉強し、勤勉であっても、上手くいかないこともある。これは機がまだ熟していないからであるから、ますます自らを鼓舞して耐えなければならない。」

天の時、地の利、人の和。

そのどれも変化には欠かせません、それをすべて壊してまで自分の思い通りにしたとしてそれで一体何が残るのか。悲しいのは、自分に負けたという現実だけです。だからこそ、真実を見極め、本質をとらえ、初心を忘れずに理念を実践していく。そのうえで、間違い失敗してもまた立ち上がって何度もチャレンジしていく。これらを続ける中に人生の歓びがあり、仲間との出会いがあり、仕合せのご縁があります。耐えることの後に希望があり、忍ぶことのあとに歓びがあるのです。

成長することを与えられた機縁に感謝し、自分を超えていきたいと思います。

21世紀型日本民家

昨年、私たちの聴福庵に訪れた方が自宅を聴福庵と同じように落ち着いた空間、穏やかで和む場にしたいと熱望されました。その際は、古民家の年輪や時は刻まれたものでそれを磨き直してできたこの独特の場、間、和は難しいとお断りしました。

しかし、ぜひ寝室の和室だけは健康を維持するためにも本物の和で休みたいと仰っていたので和室だけはとお手伝いすることにしました。具体的には、和室に備長炭を500キロ入れ、水晶の欠片を50キロ、また伝統の七島イの畳を古来からの形式で丁寧に畳職人が仕上げたものを入れ、壁紙には手漉きの秋月和紙と襖には京都にある伝統唐紙で若松紋様と枝桜紋様を仕立てました。また装飾には、菊炭を50キロほど、唐紙の行燈をはじめ、照明も創作の作家のものにしています。

それが終わり、これでひと段落と安心していたらどうしてもリビングやトイレにカビ臭さがあり室内の空気が悪いので何とかできないかと相談を受けました。和室をそれまでのものと変えてからはよく眠れるようになったと大変感謝され、どうしても健康のためにもっとも過ごす場の空気を改善したいと依頼されました。

そこから悩んだ末に、居心地の善い空間として本物の伝統の素材によって改修することを決めてこの一か月取り組んできました。

具体的には、壁面はすべて伝統の漆喰を塗り、トイレには土佐漆喰、その天井には珪藻土を施しました。また床の間風の場所には、その土地の伝統の土を用いた割れ壁塗り。主な柱をはじめ、梁には古色の弁柄、階段や扉には渋墨を塗り、そのほかの床をはじめ様々な建具は場所には柿渋で仕上げました。

また窓のすべてに障子を施し、和紙は手漉きの秋月和紙を、室内の床下には大量の竹炭、そして空気の循環を計算し空調の配置とファンを取り付けました。修繕が終わり、確認すると明らかに室内全体の空気が異なり、空気が澄み渡っていました。

さらに、落ち着いた空間というニーズに対応するため日本の伝統職人が一つ一つ丁寧に手掛けたビンテージの家具を揃えていきました。具体的には、明治頃の七段箪笥に武家箪笥、欅のキッチンテーブルに大きな八角火鉢テーブル、本漆塗りのローテーブルをはじめ60年前の手作りのソファーや、七島イの円座、岐阜美濃和紙の照明や藍染の筒描きなどです。

そして室礼には、古伊万里の花器や室町時代の古備前の壺をはじめ、古く懐かしいもので飾りました。夜は灯りを楽しめるようにと、和ろうそくや行燈などを設置し、光の加減には特にこだわりました。

この後は、トイレと洗面所の陶器を有田焼で仕上げて庭をデザインすれば終了です。この私のデザインを見た方はこれを和モダンや古民家風といいますが、私は和モダンとは思っていません。日本人本来の伝統を守り美しい暮らしのままに家屋を甦生するのは和風ではないし古民家風ではないのです。

21世紀型の日本民家はかくあるべきという思いから、このように仕上げたのです。時代が変わっても、変えていいものと変えてはならないものがあります。それが正しく継承してこそ、本物がわかるということです。

もしも次回の修繕の依頼があるのなら、今度は和で洋を丸ごと呑み込んでみたいものです。子どもたちに遺していきたい伝統や思い、その生き方を一つ一つ形にして智慧を譲り渡していきたいと思います。

おもてなしの本質

昨日は、大阪の藤井寺にある佐藤禎三さんのひな祭りを拝見するご縁がありました。3月3日をはさむ土日含む数日間、屋敷内全部を自由に開放しいろいろなお雛様をお披露目してくださいます。

すでに30年間、毎年これを自費で実施されてこられたことも驚くことながら4日間で約4000人ほどの来訪者の方々にお茶やお菓子も無料で提供されておられます。

「おもてなしの本質」とは何か、まさに生き方から深く学び直させていただきました。

佐藤禎三さんは、ご自分の数寄を純粋に徹底して極められておられまさに当代一流の数寄者であり遊び心に満ちた方でおられました。すべての暮らしの古道具も佐藤禎三さんの手にかかれば甦り喜びます。そしてすべての人形や陶器などの「もののいのち」もまるで披露宴のときように活き活きと輝きます。美しいものが穏やかに和して独特の空間を創造し場が落ち着いています。

そしてその喜ばせよう、喜ぼうとする純粋な想いとおもてなしの室礼は人々を深く感動させます。その物事の意味や本質を見極め、それを深く咀嚼し理解したものを自己のいのちを輝かせるように遊んでいくということが如何に美しいか、日本の精神文化や和の心の意味を改めて学び直させていただくばかりです。

また最後に、お抹茶と和菓子をいただき「ご馳走様でした」と感謝を込めて来訪者は笑顔で帰られます。ここにもお祀りされている韋駄天尊のように礼を盡されます。この韋駄天はもともとはバラモン教の神さまでしたが仏教に取り入れられて仏法や仏教徒を守る神様です。

「韋駄天」の由来と伝承はお釈迦さまがお亡くなりになった後、お釈迦さまの歯を盗んだ盗人を駿足で追いかけて捕まえ歯を取り戻したことから足が速い人のこといいます。

そして日本の礼儀の一つ「ごちそうさまでした」は漢字でご「馳走」さまであり「韋駄天」が駆け巡って食物を集めたことに起因します。ここからおもてなしをする「美味しい料理」という意味に転じ、その準備をしていただいたことに感謝する言葉になったといいます。

ご準備していただいたのを楽しみ喜ばれ恩着せることも一切なく、そこには自他の喜びのみがある。すべてのものが活き活きと喜ぶ価値観に触れることは、美しい暮らしそのものに通じています。

この学びを子どもたちの未来へ託せるよう、自己精進を味わって私も数寄を愉しみたいと思います。

稽古の伝承

昨日は、朝倉市にある秋月中学校を見学する機会がありました。ここ秋月は、稽古館という秋月藩の藩校があり大いに学問が繁栄した場所でもあります。学問が繁栄するところ、そこには志があることがわかります。

場所に立つと、志を立て紡いできた方々の歴史を感じます。この「場」の力というものは決して知識で理解できるものではなく、感じて直観するものです。それは時に刻まれた重みのように確かに存在するのです。

そもそもこの秋月藩の由来はデジタル大辞林によればこうあります。

「江戸時代、筑前(ちくぜん)国夜須(やす)郡秋月(現、福岡県朝倉市秋月)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。福岡藩の支藩。藩校は稽古館(けいこかん)。福岡藩初代藩主の黒田長政(ながまさ)の遺言により、1623年(元和(げんな)9)、その3男の長興(ながおき)が5万石を分与されて秋月藩が成立した。筑前国のうち夜須郡、下座(げざ)郡、嘉麻(かま)郡の55ヵ村を領有。長興は1624年(寛永(かんえい)1)当地に入り、兄忠之(ただゆき)の本藩によって江戸参府を妨害されたものの、翌年ひそかに江戸に上って3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)に謁見(えっけん)、朱印状を与えられた。以降明治維新まで12代続いた。1775年(安永4)に藩校の稽古亭(のち稽古館)を開設。1785年(天明(てんめい)5)から本藩に代わって長崎警衛に当たり、幕末には佐幕派の立場をとった。特産品は元結(もとゆい)、紙、葛粉(くずこ)、木蝋(もくろう)、陶器など。1871年(明治4)の廃藩置県で秋月県となり、1876年(明治9)福岡県に編入された。」

そしてこの「稽古」という字の由来はこうwikipediaには紹介されます。

「『書経』尚書/堯典[1]等中国古典籍にあることばである。 日本では『古事記』太安万侶序文末に「稽古」がありその意味は、古(いにしへ)を稽(かむがへ)ることである。同文の「照今」(今に照らす)とあわせ、「稽古照今」という熟語としても使用される。 日本武術などの形練習においては過去の達人であった先人の遣った理想的な形に近づべく修練することである。武道、芸能に限らず、親方や師匠が教えることを、稽古をつけるという。また、単に学んだことを練習することも稽古という。お稽古ごとというと、伝統芸能に限らずピアノ教室なども含まれる。どれにおいても、稽古を積み研鑚を重ねることによって実力をつけていく。 リハーサルは、通し稽古の意味でも使われるが、こちらは芸道に限らず稽古とは言わない場合にも使われる。『風姿花伝』には、「稽古は7歳ぐらいから始めるのがよい」といった旨の記述があり、後世、稽古始めを6月6日とするようになり、江戸時代の歌舞伎において、「6歳6月6日」というセリフが頻繁に用いられ、伝統芸能では稽古始めを6月6日とするようになった。」

 この「稽古」という字は、まさに古典を学び直すことによります。
いにしえに生き方を学び、いにしえの人物からその人間学を修養するということでしょう。学校というものを何のために建てるのか、学校は何のためにあるのかという原点を継承していくことは、この先の未来を生きる子どもたちにはとても大切なことです。
私たちは知識が増えましたが、いにしえの人々は何を「教え」として何を学問の本義にしてきたか。時代が変わっても変えていいものと変えてはいけないものがあります。それを正しく理解した人たちが、本物の伝統を継承していけるように思います
たくさんの示唆をいただいた秋月は、まだまだこれから深めてみようと思います。

恥を知る~日本人の精神文化~

昨日は鹿児島県知覧にある富屋旅館で理念研修を行いました。ここの旅館は、特攻の母として多くの方々に親しまれた鳥濱トメさんが開いた富屋食堂がそのまま時代の変遷を経て継承されている場所です。

日本人なら一度は訪れたい場所としてここの富屋旅館があります。なぜ日本人ならというのかといえば、ここには日本人の精神文化の源流が「場・間・和」の教え(知恵)が旅館と共に息づいているからです。

私たちはつい当たり前のことを忘れてしまいますが、私たちの血肉には先祖代々から伝承されてきた生き方というものがあります。この生き方とは、日本人の特徴でもあり日本人の人格でもあります。

例えば、震災の時など日本国民が冷静さや威厳を保って対応している様子を世界の各地で称賛されました。どのような状況下であっても日本人が略奪や暴動を起こさず、相互に助け合っている和の姿に世界が感動するのです。

今ではあまり日本人のことを話すと右だとか宗教だとか、色々と批判されたりします。しかし本来は自分たちのルーツがどのようなもので何を大切に生きてきたかということが誇りであり、みんなそれを大切にしているから自信をもって自分の国の素晴らしさや美点をもって世界の善きものと調和し尊重し合って共存共栄していくことができるのです。

そんな当たり前のことを思い出さないくらい、日本人は誇りを失ってしまったように私は思います。日本人として美しいと感じる生き方や、素晴らしいと思える精神性は人間として私たちがどのようにこれまで成長してきたかといった発達の真実であり努力の結晶なのです。

その一つには、「武士道」というものがあります。私も祖父や父から「恥を知る」という教えを伝承されました。これは江戸中期の侍の本「葉隠」の中で「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉に通じます。これは、生き方として死んだ身になっていれば、恥も間違いもなく正しく生きることができるという意味で解釈されます。

いつ死んでも恥じないような生き方をせよ、つまりは自分に対して正直に、素直に、そして後悔がなく立派な人間になりなさいということにつながっています。新渡戸稲造はこの武士道の源流は孔子のいう仁義そのものであるといいます。

日本人は元来、その精神文化の中にこの仁義というものをもっています。みんなが己を律し、己に打ち克ち、お互いに尊重し合って想い合って生きていく民族性があることは世界が認めているのです。

そしてこれは親から子へ、先祖から子孫へと代々受け継がれてきた民族の智慧の結晶り、親祖からの初心なのです。初心を忘れてしまえば私たちはあらゆるものに流されてしまいます。そうならないように、むかしはみんなで恥を重んじ、恥ずかしくない生き方をみんなで守ってきたのです。

災害や震災のとき、私たちに日本人がなぜお互いに律し合い想い合うのが世界に称賛されるのか。それはこの恥を知る心をみんなで守ってきたからなのです。

道徳というものは、徳の道とかくように代々徳が積まれてきた道のことです。日本人の徳とはこの恥の精神であり、それを代々の先人たちが守ってきたことで私たちは何を優先して生きてきたかを知り、どのような初心を持ち続けるかということを学ぶ学問なのです。

子どもたちが、日本人として大切なことを忘れないように引き続き私にできる使命を私の身の丈でこれからも全うしていきたいと思います。

最幸の学校~本物の実力~

昨日、3年間をかけてコンサルティングをしているある高校の卒業式に参加しました。ここは明確な理念を掲げを子どもたちと大人が一緒に学び合い成長していくことを実践している学校です。

世界が科学技術の発展によって一つにつながっていく時代、いかにグローバルな視座でこの先の時代を子どもたちが創造していくのか。それを深く考え抜いた現理事長が「心の持ち方を学ぶ」という一語に魂を籠めて具体的な教育方法として多様性の発揮や個性の尊重、主体性や協力といった本質的な人間の「成長」に軸足を置いて私たちの知恵の結晶でもある一円「対話」という仕組みを使い学校の改革に一緒に取り組んでおります。

私もこの3年間の集大成として、卒業式の一円対話に参加しましたが生徒たちは最初に打ち立てた自分の初心を見事に3年間守り通し、立派に人として「成長」していたのを実感しました。その証拠に、一人ひとりが丁寧に3年間の学びを発表していきましたがその非常にオープンで自由に発言していく人の言葉の中に「心の持ち方」をしっかりと学んだことが凝縮されていました。

そして生徒も先生も一緒に学ぶだけでなく、最後は保護者も一体になって心の持ち方を学び合う姿にこの学校の「本物の実力」を感じることができました。そして生徒たちが初心を語るとき、その初心がこの3年間で全員実現したと自分の言葉で語るその自信に溢れる姿に一人ひとりの「誇り」を感じました。「誇らしい」という言葉は、その人が自分らしく自分の足で歩んでいると感じた時、私はその言葉を用います。つまり生徒たちはみんなこの3年間の学校生活を通して自己と深く正対し「人としての自信」を身に着けたのです。これはこの先の未来において、何よりも重要な時間を過ごしたことになるのは明白です。学問本来の醍醐味とは、この「初心に費やした時間」を言うのです。それが「自ら道を拓く」ということだからです。

そして、私自身もまたこの生徒や先生、学校から深く学び直しています。なぜなら心の持ち方は生き方であり、生き方を学ぶのは決して能力や資格、知識なのではなく「共に今を生きる人間として学ぼう」とする生きた学問だからです。また単なる成功を望むのではなく、幸福を感じ直すための本物の学問です。このような学問を、現代のような一斉画一教育や知識偏重型の刷り込み教育が横行する世の中において、そのバランスを保ちながらも子どもの生きる力を尊重するこの実力がある学校が日本にあることが私の心の誇りにもなりました。

善い志事に恵まれ、善い同志に恵まれ、善い仲間に恵まれたことに何よりも感謝したいと思います。卒業というのは、次のステップ、次のステージに「挑戦するための門出」でもあります。

時空は前へ前へと進んでいきますから、振り返りをしつつも決して立ち止まることなく初心を守り続け夢の実現に向かって歩んでいきたいと思います。

このような一人ひとりの人生を尊重していくような最幸の学校が、世界に増えていくことを祈り、私も自分の使命に全うしていきたいと思います。

一期一会に深く感謝しています。