孟子に「性善説」というものがあります。これは人間の本性を善とするという考え方のことです。そもそもすべての人間の心には本来善への可能性が内在し、その兆しを四端(したん)といい(惻隠(そくいん)、羞悪(しゅうお)、辞譲(じじょう)、是非(ぜひ))の情としました。この四端を拡大していけば、人間の善性は仁義礼智という形で完全に発揮できるといったのです。
この4つの感情とは現代語にすれば、あわれみいたましく思う心、不善を恥じにくむ心、目上にへりくだり譲る心、正邪を判断する心のことでこれは最初から持っているというのです。
人間が素直になれば、これらの感情は持っているというのは生まれたばかりのいのちにはその道理が備わっているという言い方なのです。確かに、生きていくうえで必要な道理というものがあります。
それはこの自然界、宇宙においても従わなければならない絶対的なものがあります。この地球に生まれた以上、これがなくては生きていくことができないというものはもともと備わっているはずです。
水や空気、光や熱なども当たり前すぎて気づきませんが、生きていくためには欠かせません。これらは情となり心となり、私たちのいのちと密接につながっているように思うのです。
そしてそれらを総称して孟子は「善」というのではないかと思うのです。つまりいのちは水であり、水が善であるということ。
老子に「上善水如」があります。
これは最高の善は水であるとし、万物に利益をあたえながらも、他と争わず器に従って形を変え、自らは低い位置に身を置くという水の性質を、最高の善と称えます。
つまりは、善であるというのは水のような存在のことであるということです。人間は生まれながら水を持っている、その水には性質として低きに流れるというものがある。だからこそ、水は環境を受けて変化する。環境としてこの世にある道理を色濃く受けて善になるということでしょう。
つまり「善」は、宇宙における万物自然の道理のことです。
いのちはどんないのちも道理に逆らうことはできません、いのちは道理に従うことでそのものの本来の本性が引き出されていきます。本性を引き出すとは天命を生きると同義語です。
人間は水のように澄んだ存在に近づけば近づくほど、より本性の価値になっていくということです。本性の価値とは地球といういのちの姿です。無為自然とも言います。
善を循環していけるように、新しい仕組みを考案中です。
子どもたちが安心してこの先もずっとありのままであるがままに暮らしていけるように今できることの最善をいのちを懸けて取り組んでいきたいと思います。