見守る思想

人間は自分にとって居心地が善いところに居場所があるものです。その居心地の善さとは、自分のままでいられる空間、自分を自分で認めている空間であるとも言えます。自分の素のままでいても価値を充分感じている時、その世界に自分の居場所があるのです。

この居場所は、競争社会の中でのものと協力社會の中ではその定義も異なるように思います。いつも誰かと競い争っている中では、いつ自分が負けるのかとびくびくしていますから居場所はできません。そして勝っても負けても孤立してしまい、強者か弱者かと比較されていればなおさら居場所がなくなります。

協力社會では、支援する人たちがいていつも信頼し合う仲間たちが助けてくれます。何かに困ったり、助けが必要な時はみんながカバーに入ります。勝ち負けではなく、一緒に取り組むプロセスに価値を見出し存在が認められ尊重されているところには居場所があるのです。

そう考えてみると、この居場所というものは共生や貢献する中に存在します。そして居心地の善さはそのお互いの目指す「場」に対するみんなの意識によって生まれていくのです。

無理に自分の居場所をつくるために、専門職の業務を自分だけにしかわからなくしたり、特別な立場をもっては自分が必要だとアピールする人がいるのを見ることもありますが、本来は業務分担に場があるのではなくそれぞれの持ち味を活かそうとする役割分担や協働のところにこそ共生や貢献の場があるように思います。

かつての日本の民家の暮らしもまた、居場所を創造しているものです。それは仕事業務で分けたのではなく、家族として一家としてみんなで助け合い支援し合う関係を意識し合い場を育ていったのです。そのために、祖父母から孫、またその孫、地域の子どもたちや老人まで社會のネットワークで見守り合う関係を育て見守る思想を場に投影させたのでしょう。

引き続き、子どもたちが安心して暮らしていける社會のために研鑽を積み重ねていきたいと思います。

 

価値の温故知新

世の中には様々な価値が新たに生まれ、古い価値を覆いかぶせていくものです。大量生産大量消費の時代は、「古いもの=価値のないもの」のように新たな価値観で覆いかぶせては「新しいもの=価値のあるもの」というように新品を購入することを提案されていきました。

それは住宅に限らず、車から服、そして食べ物にいたるまで新しいものこそが価値であるということを宣伝され、そしてそのように市場も取り扱うものを変化させていきました。

そのうち、古いものというものは無価値になり二束三文で売り買いされ、さらには厄介者のゴミとして捨て去られていきました。この価値思想は大変危ない発想で、古いものに価値がないとするのなら誰にしろ古くなっていくのだから将来的な無価値になり厄介者になる可能性があるということです。

最初は物にそのような価値をつけましたが、人にもその価値をつけはじめたとするのなら、改めて自分たちの価値観を見つめ直す善い機会になると思います。

本来、この価値というものは価値観ともいいそれぞれの人にはそれぞれの多様な価値観が存在しています。ある人にとって価値がないものでも、ある人にとっては大変な価値がある。そうやって価値を決めるその本人によってそのものの価値が決まるということです。

そうやって価値観も価値基準も変化していきますから、何が価値なのかを流されずに判断することはそれだけ難しいともいえるのです。しかし、その中でも普遍的な価値という価値観というものもあるように思います。それはいくつかの価値基準の問いによって見極めることができるように思います。

例えば、これは100年後も1000年後にも価値があるものか。また世界にとっても価値があるものか、人類や子孫にとって価値があるものか。自分が死んだあとでも価値があるものか。等々、いくつかの質問を投げかけていくうちに普遍的な価値観に出会っていくように思うのです。

そうやって価値があるものを自分で見極めながら自分の価値観が時代に流されないようにしながら、時代の新しい価値観を一緒に創っていくことが温故知新なのでしょう。

私も子ども第一義の理念を掲げていますから、時代の最先端の情報技術をもって普遍的な価値観をどう発展させていくかに取り組んでいます。文化が伝承されてきた濃厚な智慧をヒントに、新しいことに挑戦していきたいと思います。

勧進調達

クラウドファウンディングという言葉があります。これはクラウド(群衆)+ファウンディング(資金調達)からできている言葉で一般の人たちから資金を集めるという意味になります。

もともとは、文化の資産を国の予算だけではなくみんなで出し合って守っていこうとしてはじまったのではないかともいわれています。他にも、その時代で民衆に必要なものを活用しようとするみんなで資金を出し合ってそのプロジェクトを全員で形にしていこうとする民主的な方法の一つです。

日本でも例えば寺などの改修工事で似たような資金調達が行われました。例えば1180年ころ、僧の重源が源平の争乱での焼き討ちで焼失した東大寺と大仏の修復・再建を進言し、東大寺大勧進職に就きました。その重源は再建費用を集めるため全国各地を回り信者や有志から少額ずつの寄付を募り1195年には大仏殿の再建を実現させた歴史があります。その後、寺院や仏像などの新造・修復・再建のため庶民から広く寄付を求める「勧進」という動きが盛んになり無事に修繕が終わると寄付者の名前が寺に記されることもあったそうです。

つまり、みんなが大切に守りたいと思っているものにそれぞれ「勧進」をして貢献していこうとしたといいます。この「勧進」とは仏教の言葉で辞書を引くと「人々に仏道をすすめて、善に向かわせること。寺社・仏像の建立(こんりゅう)・修繕などのために寄付を募ること。」などと書かれています。善い道に導き、一緒に徳を積む人たちを増やそうとすることがその本来の意味なのでしょう。

ただやりたいことをやるのを面白いからやるための資金調達と、本来の勧進の意味の資金調達は意味が異なるのです。

私が近くはじめていこうとする新しい資金調達の試みもまた、この本来の意味である勧進の本質から温故知新して考えているものです。徳を積む仲間を増やしていくことが、未来への子孫の発展と繁栄、人類の調和に深く関係していきます。

むかしも今も、大切なものを守るためにみんなで徳を譲り遺していこうとその時代の人たちが協力して文化や伝統を守ってきました。その思いを今の時代でもどのように受け継ぐか、その本質を如何に守っていくか。

改めて子どもたちのためにも、本質を変えないままに取り組んでいきたいと思います。

地域の宝

先日から地域の宝を守るためにどうすべきかというテーマをいただき深め続けています。ここでの地域とは何か、それは中央か地方かといった地域ではなく、故郷としての地域です。

そして故郷とは何か、それは心の原点のことです。心の原点を愛する人たちによって、故郷は生き続け、それが失われることによって故郷は消失します。

残念ながら画一的になってしまった現代社会の中で、本来多種多様であった故郷の形状は破壊され、ほとんどの地域から故郷が消失しているように思います。地域の宝を残したいという声も次第に失われ、経済効果や生産人口の増加ばかりに地域政策が奪われ本来の大切なことを忘れてしまっているようにも思います。

私たちとっては、子どもというのは社會の宝です。社會とは何か、それは人間が共存共栄していく自然の智慧のことです。その社會の宝とは何か、それは子どもであることはいちいち説明する必要はありません。

子どもが消失すれば社會もまた消失します。子どもたちが創りだす社會が、未来の社會であり、それを見守るのが本来の大人の役割です。そういった原点、つまり宝を受け継ぎ引き継ぎ、つなぎ守ることが未来へ地域や故郷を遺す唯一の方法だと私は思います。

地域の宝を守るというのは、故郷を愛する人たちを守るということです。そして故郷を愛する人たちを増やすことで故郷は甦生していきます。故郷を愛するというのは、故郷の歴史を守るということです。

その時代時代の人たちが愛してきた記憶、そして暮らしてきた営み、つまり歴史を遺していくということです。もし歴史がなくなればその地域の故郷もまた失われます。まったく歴史を無視して、新しいものに入れ替えたなら歴史がなくなり人も心も消えていきます。

そうやって国土や風土がまるで他国のように入れ替わっていくのはすべてこの歴史を奪い故郷を消失させていくから実現しているのです。故郷とは歴史のシンボルなのです。そのシンボルを守ることこそ、地域の宝を守ることなのでしょう。

日本もまた戦後の政策によって地域が次第に消失していきました。地域再生などに取り組む人たちは、何をもって地域再生というのかをもう一度、よくよく考えてみてほしいと願います。

子どもたちが安心して心の原点を持ち、世界で活躍していけるように地域の宝を守っていきたいと思います。

摩滅と甦生~一期一会~

この世にあるすべてのものは滅しないものはありません。いくら永遠のように感じているものでも必ず滅するときが来るのです。それはこの地球も、そして太陽もまたいつの日かは必ず滅します。

そしてこの滅するという法理は、この世のすべてのものに適応されていきます。

例えば、私たちはたくさんの道具を用います。その道具は、時代に合わせてこの世を生きていく道具として私たちは様々なものを創り出していきましたがそのどれもが使っているうちに摩耗し摩滅して最後は滅します。どれだけ長く持たせるか、どれだけ手入れをして摩耗を甦生させていくかという観点からもったいなくいのちを使い切っていこうという発想が生まれます。

これを寿命とも言いますが、有難くいただいたものを最期まで感謝のままに大切に使おうという発想もまたこの滅することから生まれたように思います。

その滅するものの道具の一つに、「言葉」というものがあります。

言葉もまた、私たちの道具の一つです。私たちはその言葉という道具を使い、様々な用途に活かしていきます。その時代に必要な言葉を当てはめ、その人の哲学や使い手の価値観の中で言葉を使い時代を創ります。

その言葉は、次第に磨かれて研ぎ澄まされていきますが最後は滅します。そうやって時代時代に使っていた言葉も、滅して失われたり、もしくは書き残されたものがありますが読めないもの、意味が不明なものが出てきます。その道具が役目を終えている証拠なのです。

その役目を、新たに甦生するのはその道具を別の使い道にして新たにする人の解釈の力だとも言えます。普遍的な道具であればあるほど、摩耗して磨かれても研ぎ澄まされたまましっかりと生き残っているものがいまだにたくさんあります。いざとなった時のためにと先人が摩滅する前に遺してくださっているものもこの世にはまだたくさんあります。それを初心というのです。

その初心の価値に気づいた人たちが、かつての道具を甦えさせ現代の人々の困難を救っています。言葉も同様に、今の時代にとって必要なものを解釈し直し、それを伝道し、現代の人々の心を救っています。まさにこれが私の言う初心伝承なのです。

磨くことと滅すること、この二つはいのちの有り様そのものを表現しています。子どもたちのためにも一期一会を磨き、一期一会に帰するまで日々の有難いご縁を楽しんでいきたいと思います。

人類の智慧、保育の叡智

昨日、お伺いした取引先で理念についての話し合いに参加してきました。そこは先々代の創業者が、どのような想いではじめたのか、そして今その変遷をどのように辿り変化してきたかということをみんなで味わい語り合いました。

過去の歴史に向き合い、今の現実に向き合い、これからの未来に向き合う。

この向き合うためにもその向き合う鏡として理念があるということはとてもありがたいことのように思います。実際には、この鏡を通して自分を観ると如何に自分が本質からずれたことをしているかがわかってくるものです。

物事には必ず動機があり、そしてその理由があります。さらには原点や初心というものがあり、そこから何のために行うのかというみんなが助け合い協力して自分というものを社會で活かすための道徳倫理があります。それを自覚することは、自分を活かし周囲を活かすことになりそれが自他の仕合せになっていきます。

昨日、印象的だったのは自立と協力の話でした。

自立は自律でもあり、如何に自分の中に法やルールを設けて律することができるか。そうやって自分自身を省みて自己自修し慎み自分で善なる自分を練り上げていくか。自分というものを育てるのは自分ですから、自分と向き合う生き方の話です。昔から迷惑をかけているからこそ迷惑をかけないようにしなさいと言われてきたものです。

そしてもう一つの協力とは、迷惑をかけているのだからもっと信頼して助け合いなさいと言われてきたものです。人は一人で何でもできる人を目指したら、孤立してしまい一緒に集団や社会で自分を役立てることが難しくなります。自分の持ち味や得意を活かしてくれるのは周囲ですからみんなに感謝して協働していくことでみんなも自分も豊かな人生を送ることができます。特に人類は、これまで生き残ってこられた最大の智慧は協力してきたことですから迷惑をかけてもいいからその分、みんなと助け合って協力することの大切さを諭すのでしょう。

この迷惑をかけないことと迷惑をかけること、この矛盾する二つは自分に対しては自律、周囲に対しては協力、そのうえで自分を立てることということが成り立ちます。

さらにはその陰に隠れている本当の教えは何かといえば、感謝することを忘れないということでしょう。人間は当たり前のことを忘れると感謝しなくなっていくものです。結局は迷惑をかけないことも迷惑をかけることも感謝を忘れていないかと思いかえすためのものであることに気づきます。

自分というものを成り立たせてくれる存在は、社會の存在です。社會は感謝が循環することで成り立ち、それによってみんなが共生して貢献し合うことができます。自立の本質とは、感謝のことであり感謝できる人、感謝し合う人を育てることこそ人間を育てるということの本質なのです。

如何に能力が高くても、如何に資金力があったとしても感謝できない、感謝し合えないのでは人間としての社會では成立することはありません。人は感謝で立たせ合うことで人になります。目には見えない中にこの人を支え合う感謝がいつも循環していることが、社會を成立させていくための人類の智慧そのものなのです。

人類の智慧を伝承する理念を持つことは、生き方そのものですからその理念にかかわる人たちはみんな仕合せを創っていけます。そしてそれを育むことが保育の叡智なのでしょう。改めて、子どもの仕事とは何か、保育の本質とは何か、機会から学び直し続けていきたいと思います。

 

徳の再構築~時代を創る~

人間はそれぞれの時代を生きてきました。その時代時代に時代の特徴というものがあり、それは歴史を学べばその時代の背景や様子を観察することができるように思います。

人間は社會を形成する生きものですからどのような社會を形成したかでその時代を洞察することができるように思うのです。そしてその時代背景の中でどのように生を全うした人がいたかを私たちは学び、時には感動し、時には絶望し、その人々に共感するのです。

生まれた時代、そして場所が異なるだけで人生は多種多様な生き方がありそれを体験することで私たちは生まれてきた意味を知ります。改めて社會を変えていく仕事というもの、そして世直し業というものの本質を感じるのです。

現代という今を生きる私たちはどのような時代を生きているのでしょうか。

急速なスピード社會、大量生産大量消費の中で暮らしは消失して忙しく日々に追われるように生きています。個々のつながりは次第に断絶され、バラバラになってきているとも言えます。確かに便利になってなんでも思い通りになることが増えてきましたが、その分、心の満足感や充足感は感じにくい環境になってきているように思います。

時代というものは、その時代を象徴するような出来事があります。それが例えば、戦争であったり、天変地異であったり、人災があったりと様々です。どのような政治を行ったか、そして民衆は何を大切に暮らしを維持したか。その時代の価値観ともいうものもその時代時代に醸成されました。

明治の時代の価値観は、今の私たちでは理解できないものがあったり、もしくは江戸時代、鎌倉時代、はたまた縄文時代の価値観は今の社會では受け入れられないものばかりかもしれません。

しかしその時代は、その価値観で生きた人たちによって社會を形成したのです。

私たちは時代に学ぶ必要を感じます。

その時代時代に体験したことで得た智慧を如何に子孫たちに伝承していくか、それは時代を生きた世代の大きな使命であろうと思います。このような時代があり、みんなはどう生きたかという歴史の伝承は、未来を生きる子どもたちへの生きる問になっていきます。

そして今を生きる世代は、どのような背中を見せていくか。どのような社會を創ろうとするか、その姿勢が問われるのです。令和に時代は入りましたが、令和元年に生まれた子どもたちは22世紀まで生きていきます。

私などはどう頑張っても2100年を越えて生きることは不可能です。今世紀中には必ずいなくなるのです。だからこそ自分たちが創りたかった本当の社會、自分たちが学び、こうあってほしいと祈り願った社會の実現に向けてできることをやり切りたいと思うのです。

それぞれの時代で醸成された時代は、個の徳と社會の徳は合致していました。もう一度、徳の再構築を行い、この時代の徳を磨いていきたいと思います。

本物の伝承

本物という言葉があります。コトバンク辞書には、( にせものや作りものでない、本当のもの。また、本当のこと。「本物の真珠」「本物の情報」  見せかけでなく実質を備えていること。本格的であること。「彼の技量は本物だ」 )と書かれます。

俗にいう本物は、洗練されていることやシンプルなもの、鑑定したら事実そのものであったことなどでも使われます。

しかしこの本物は、何が本物であるかを知っている人によって語られるもので本物がわからなくなってしまっていたら本物かどうかを見極める方法はありません。

例えば、歴史をたどればむかしから今まで遺っている土器などがあります。縄文土器などもそうですが、数千年前から今でもそれは残存しています。土器のはじまりを知る人は、土器の本質が何かを知ります。つまりは、むかしから遺っているものがあればそれに基づいて本物が何かを知ることができるのです。

しかしもしもこの縄文土器というものが失われ、現代のような機械で加工して作成する陶器しかない世の中になったなら私たちにとっての本物は現代の土器ということになります。

つまり本物とは、むかしから遺っているもののことを言うのであり今のものをいうのではありません。

古民家も等しく、日本伝来のものが遺っているからこそ今の建築の民家が本物かどうかを判断できるのであって現代工法の家しかもしも残っていないのなら本物は失われたということになります。

本物とは、歴史の篩にかけられても遺ったものであり現代の付け焼刃で加工したものとは異なるのです。何千年も歴史や時代の篩にかけても遺るものこそ「本物」の定義であるということなのでしょう。

本物に触れ、本物を知り、本物を伝承していきたいと思います。

世代の責任

先日、むかしの田んぼで田植えをしましたがこの10年で特に大きな変化としてトンボやカエルがいなくなったといいます。数十年前は、トンボが羽化したら夏の間は山で生活するので田んぼから山に移動するのに空がトンボで埋め尽くされるほどだったといいます。それが秋になると、また田んぼにやってきて卵を産み循環し廻るのです。

それが今ではほとんど見かけることもないというのは、それだけ環境の変化が著しいということです。

私たちは生物多様性といって、あらゆる生物のつながりの中で私たちも存在しています。この地球では、単体の生物だけでは生きられず他の生物や生命と一緒にいのちを共有しているとも言えます。それは動植物だけでなく、バクテリアにいたるまで私たちは全体の中で自分の生命をはじめて維持することができるのです。

この影響は何からきているのか、それは様々な理由が考えられます。例えば、農薬の影響や、食べものになっているほかの生物たちが気候変動の影響を受けていなくなったからだとも言えます。あまりにも理由が多すぎて、どれを特定していいかもわかりませんが地球全体で俯瞰してみるとき、空気や川や海が汚染されている現実が末梢の場所まで変化が起きていると実感するのです。

私たちの前の世代がやってきたことが、間違っていると気づいたとき今の世代がその間違いを正していくのが子孫への責任でもあります。子どもたちの代になったときには、その影響は計り知れず悲惨な現実を譲り渡して私たちの世代は前の世代のせいにして諦めたり、自分たちの世代のやってきたことを後悔しながら生きていくしかありません。

そんな先が読める人生に対して、何を行動するかは今の世代と前の世代の責任なのです。今、生きている人たちがどうにかすること。責任というのは、今を生きることを任されている世代がその問題に対して真摯に取り組むということなのでしょう。

子どもたちは何も知らずに、そのままのものが譲られていきます。まさか譲られたものが自然破壊され汚染されたものなどとは思ってはおらず、美しい地球のままに自分も生を謳歌できると信じているはずです。それは動植物のいのちも同様です。

今、すぐにできることからみんながそれぞれに取り組むことが大きな未来の変化になります。私は私のできることで、子ども第一義の理念に取り組んでいきたいと思います。

平等機会、公平調和

人間はよく公平か不公平か、平等か不平等かに文句を言うものです。自分にとって条件が悪いことを不公平や不平等だといい、自分にとって条件がよければ公平や平等などともいいます。

よく評価の話で、この公平性や平等性が語られますが本来は同じ人間は誰もおらず、みんな異なる存在ですからそんなものは公平も平等もそれを受ける人次第でいくらでも変わってくるものです。

例えば、動物でも道具でも得意不得意というものがあります。早く走れるものだけのレースをするのなら足が遅い動物はいつも負けてしまいます。また道具も繊細なことが必要な作業ばかりのときは巨大なハンマーなどは使い道がありません。それに対していくら文句をいっても、そのルールで行われていれば仕方がありません。

また悪平等という言葉もあります。

これは先ほどのレースであれば、レースをするのに差をつけてはならないと結果同じにしてしまうことです。機会を平等にするのではなく、結果だけ平等にするのは不公平になりかえって競う必要もなくなり誰もやる気をなくしてしまいます。

みんなが同じでいいのなら、誰もが一律に金太郎飴のようになって同じ結果を与えれば済みます。しかしそれこそが不公平であり不平等であることに気づく必要がるのです。これも受け手がどのように自分自身で平等や公平を感じたかに因るからです。

例えば、身長も体重も大きくよく食べる人でよく働く人がいたとします。同時にあまり食べれなくても省エネで長く働く人がいます。その食べる量を一律にしたとして、果たしてよく食べる人はそれで平等や公平を感じるか、そして食べれない人も平等や公平を感じるかは受けて次第。食べるものにおいても好き嫌いもありますから与え手がいくら公平で平等に均一に同量分けたといっても与え手側の公平や平等は受け手の不平等不公平にもなるのです。この辺は現在の教育でも同じことが行われていることがほとんどです。

本来、平等や公平というものは全体を観てその上で何がもっとも平等で公平かはそのものの特性やそのもののその時の価値や重要さで変わってくるのです。集団の中では一人一人に合わせていく必要があります。そしてその集団の中でそれぞれの個性に合わせた配慮をし、状況に合わせて最適な判断を下していくことが限りなく公平や平等につながっていくのです。

しかしいくら平等や公平にしても、足るを知らない人はいつまでも不平等や不公平ばかりを感じて不満を持ち続けて生きていきます。本来、自分に必要なものはすべて与えられていると感じている人はどんな環境下っても自分が生まれつきどのような状態で生まれてきたとしても足るを知り自分自身の価値を伸ばして活かしていきます。そして周囲もそれを活かそうとします、ここには集団の平等や公平が生まれます。四肢が不自由であったとしても、値千金の笑顔で集団を元気づけるのもまたその人の集団での役割もあるのです。そしてそれは集団のみんながそれを自覚しているのです。

しかし個人主義が当然になるとすぐに他人と比較し、その他大勢や世間の一般的な相場などとの比較をする人は足るを知らず感謝を忘れ、不平不満や文句ばかりを並べたててしまいます。そのうち、自分にとってもっとも不平等なところに自分を運び、不公平なところで働き、さらに不平不満の悪循環に陥り孤立することもあると思うのです。なんでも自分にとって相応しいと謙虚に自分を高める人は、そのうち周囲の人たちがその才能や個性を活かすように盛り立ててくれるのです。これがみんなにとっての平等で公平であるとも言えます。

つまりどのような場所で何をするのかによっては百花繚乱の個性の人たちが大勢いますからみんなにとって何が平等で公平になるかは目的に応じて、適材適所にそのものたちの役割や善さが発揮されていく最適な環境をみんなで譲り合い助け合い、感謝し合い学び合い、許し合うことで和が発揮されていくのです。

うちのベランダの植物一つ一つでさえ、日陰が好きなものもあれば風が好きなもの、高所であるもの低所が好きであるもの。光をたくさん必要とするのもあれば、水を大量に必要とするものもあります。そのどれもが、狭いベランダを共有してみんなで暮らして居心地の善い場を創造していくのだからみんなが協力し合って生きていくのが平等と公平の要諦なのでしょう。

今の時代は一人で完結できることが多くなり、みんなで協力し合っていくことが少なくなってきました。だから自分にとっての平等や公平を主張する人が増えました。本来は、むかしは規範があり皆さんと力でと謙虚な人が結果も出ていました。個人主義の社会がこの不平等や不公平をさらに蔓延させているのでしょう。

本来の平等とは、機会の平等のことであり、公平とは、調和することなのです。

利己的になり、自己中心的な世の中で行われる現代のあらゆるところにある国の人事評価が社会を貧しくしているのかもしれません。

最後に孔子の言葉を紹介して締めくくります。

「国を保ち家を保つ者は、寡(すくな)きを患えずして均しからざるを患え、貧しきを患えずして、安からざるを患う、と。蓋(けだ)し、均しければ貧しきものなく、和すれば寡きことなく、安ければ傾くことなし」

まさに和すれば少なきはなく、安ければ傾くことはない。平等と公平の本質は、あの時代から何も変わっていません。引き続き、子どもたちの憧れる社會の実現に向けて様々な刷り込みを取り払っていきたいと思います。