人間はよく公平か不公平か、平等か不平等かに文句を言うものです。自分にとって条件が悪いことを不公平や不平等だといい、自分にとって条件がよければ公平や平等などともいいます。
よく評価の話で、この公平性や平等性が語られますが本来は同じ人間は誰もおらず、みんな異なる存在ですからそんなものは公平も平等もそれを受ける人次第でいくらでも変わってくるものです。
例えば、動物でも道具でも得意不得意というものがあります。早く走れるものだけのレースをするのなら足が遅い動物はいつも負けてしまいます。また道具も繊細なことが必要な作業ばかりのときは巨大なハンマーなどは使い道がありません。それに対していくら文句をいっても、そのルールで行われていれば仕方がありません。
また悪平等という言葉もあります。
これは先ほどのレースであれば、レースをするのに差をつけてはならないと結果同じにしてしまうことです。機会を平等にするのではなく、結果だけ平等にするのは不公平になりかえって競う必要もなくなり誰もやる気をなくしてしまいます。
みんなが同じでいいのなら、誰もが一律に金太郎飴のようになって同じ結果を与えれば済みます。しかしそれこそが不公平であり不平等であることに気づく必要がるのです。これも受け手がどのように自分自身で平等や公平を感じたかに因るからです。
例えば、身長も体重も大きくよく食べる人でよく働く人がいたとします。同時にあまり食べれなくても省エネで長く働く人がいます。その食べる量を一律にしたとして、果たしてよく食べる人はそれで平等や公平を感じるか、そして食べれない人も平等や公平を感じるかは受けて次第。食べるものにおいても好き嫌いもありますから与え手がいくら公平で平等に均一に同量分けたといっても与え手側の公平や平等は受け手の不平等不公平にもなるのです。この辺は現在の教育でも同じことが行われていることがほとんどです。
本来、平等や公平というものは全体を観てその上で何がもっとも平等で公平かはそのものの特性やそのもののその時の価値や重要さで変わってくるのです。集団の中では一人一人に合わせていく必要があります。そしてその集団の中でそれぞれの個性に合わせた配慮をし、状況に合わせて最適な判断を下していくことが限りなく公平や平等につながっていくのです。
しかしいくら平等や公平にしても、足るを知らない人はいつまでも不平等や不公平ばかりを感じて不満を持ち続けて生きていきます。本来、自分に必要なものはすべて与えられていると感じている人はどんな環境下っても自分が生まれつきどのような状態で生まれてきたとしても足るを知り自分自身の価値を伸ばして活かしていきます。そして周囲もそれを活かそうとします、ここには集団の平等や公平が生まれます。四肢が不自由であったとしても、値千金の笑顔で集団を元気づけるのもまたその人の集団での役割もあるのです。そしてそれは集団のみんながそれを自覚しているのです。
しかし個人主義が当然になるとすぐに他人と比較し、その他大勢や世間の一般的な相場などとの比較をする人は足るを知らず感謝を忘れ、不平不満や文句ばかりを並べたててしまいます。そのうち、自分にとってもっとも不平等なところに自分を運び、不公平なところで働き、さらに不平不満の悪循環に陥り孤立することもあると思うのです。なんでも自分にとって相応しいと謙虚に自分を高める人は、そのうち周囲の人たちがその才能や個性を活かすように盛り立ててくれるのです。これがみんなにとっての平等で公平であるとも言えます。
つまりどのような場所で何をするのかによっては百花繚乱の個性の人たちが大勢いますからみんなにとって何が平等で公平になるかは目的に応じて、適材適所にそのものたちの役割や善さが発揮されていく最適な環境をみんなで譲り合い助け合い、感謝し合い学び合い、許し合うことで和が発揮されていくのです。
うちのベランダの植物一つ一つでさえ、日陰が好きなものもあれば風が好きなもの、高所であるもの低所が好きであるもの。光をたくさん必要とするのもあれば、水を大量に必要とするものもあります。そのどれもが、狭いベランダを共有してみんなで暮らして居心地の善い場を創造していくのだからみんなが協力し合って生きていくのが平等と公平の要諦なのでしょう。
今の時代は一人で完結できることが多くなり、みんなで協力し合っていくことが少なくなってきました。だから自分にとっての平等や公平を主張する人が増えました。本来は、むかしは規範があり皆さんと力でと謙虚な人が結果も出ていました。個人主義の社会がこの不平等や不公平をさらに蔓延させているのでしょう。
本来の平等とは、機会の平等のことであり、公平とは、調和することなのです。
利己的になり、自己中心的な世の中で行われる現代のあらゆるところにある国の人事評価が社会を貧しくしているのかもしれません。
最後に孔子の言葉を紹介して締めくくります。
「国を保ち家を保つ者は、寡(すくな)きを患えずして均しからざるを患え、貧しきを患えずして、安からざるを患う、と。蓋(けだ)し、均しければ貧しきものなく、和すれば寡きことなく、安ければ傾くことなし」
まさに和すれば少なきはなく、安ければ傾くことはない。平等と公平の本質は、あの時代から何も変わっていません。引き続き、子どもたちの憧れる社會の実現に向けて様々な刷り込みを取り払っていきたいと思います。