人間は自分にとって居心地が善いところに居場所があるものです。その居心地の善さとは、自分のままでいられる空間、自分を自分で認めている空間であるとも言えます。自分の素のままでいても価値を充分感じている時、その世界に自分の居場所があるのです。
この居場所は、競争社会の中でのものと協力社會の中ではその定義も異なるように思います。いつも誰かと競い争っている中では、いつ自分が負けるのかとびくびくしていますから居場所はできません。そして勝っても負けても孤立してしまい、強者か弱者かと比較されていればなおさら居場所がなくなります。
協力社會では、支援する人たちがいていつも信頼し合う仲間たちが助けてくれます。何かに困ったり、助けが必要な時はみんながカバーに入ります。勝ち負けではなく、一緒に取り組むプロセスに価値を見出し存在が認められ尊重されているところには居場所があるのです。
そう考えてみると、この居場所というものは共生や貢献する中に存在します。そして居心地の善さはそのお互いの目指す「場」に対するみんなの意識によって生まれていくのです。
無理に自分の居場所をつくるために、専門職の業務を自分だけにしかわからなくしたり、特別な立場をもっては自分が必要だとアピールする人がいるのを見ることもありますが、本来は業務分担に場があるのではなくそれぞれの持ち味を活かそうとする役割分担や協働のところにこそ共生や貢献の場があるように思います。
かつての日本の民家の暮らしもまた、居場所を創造しているものです。それは仕事業務で分けたのではなく、家族として一家としてみんなで助け合い支援し合う関係を意識し合い場を育ていったのです。そのために、祖父母から孫、またその孫、地域の子どもたちや老人まで社會のネットワークで見守り合う関係を育て見守る思想を場に投影させたのでしょう。
引き続き、子どもたちが安心して暮らしていける社會のために研鑽を積み重ねていきたいと思います。