聴福庵の離れのお風呂には、禅宗の跋陀婆羅菩薩をお祀りしています。この跋陀婆羅菩薩は『首楞厳経』(しゅりょうごんきょう)に記されている菩薩で、水により悟りを開いたことから禅宗寺院の浴室にはこの像が安置されています。
昨日、あるご縁から日本古来のサウナの甦生に取り組むことになり改めてお風呂の歴史などを整理してみたいと思います。
もともと日本のお風呂のはじまりは、6世紀の仏教伝来と深く関係しています。聖徳太子は仏教を通して沐浴の功徳を説き、汚れを洗うことは仏に仕える者の大切な仕事としてこれを普及していきました。また「温室教」という沐浴の功徳を説いた経文もあったといいます。そこには入浴に必要な七物(燃火(ねんか)、浄水、澡豆(そうず)、蘇膏(そこう)、淳灰(じゅんかい)、楊枝(ようじ)、内衣(ないい))を整えると七病を除去し、七福が得られると記されました。つまり入浴には、穢れを払うだけでなく様々な病を治癒する効果があると信じられていたのです。
今でも奈良の東大寺や法華寺には今でも大湯屋や浴堂が残っています。この時代の家々には浴室などはなく町湯もなかったため、寺院の施浴は宗教的な意味だけでなく有難い施しでもありました。この施浴の仕合せが発展して平安時代の末には京都に銭湯の原型ともいえる「湯屋」が誕生します。
鎌倉時代になるころには、お風呂がある家々ができはじめ「風呂ふるまい」というものが行われたといいます。庶民階級でも裕福な人たちは近所の人々に風呂をふるまったり地方でも村内の薬師堂や観音堂に信者が集まり風呂をわかして入りそのままみんなで宴会をする「風呂講」というものも流行りました。
今では浸かる風呂が当たり前ですが、これまでの時代のお風呂はすべて蒸し風呂のことで、湯気を浴びて湯あみをしたのです。そして蒸し風呂が発展して「戸棚風呂」が誕生します。これは浴槽の底に膝をひたす程度に湯を入れ、下半身をひたし、上半身は湯気で蒸す仕組みです。ここから浸かるといった半身浴がはじまるのです。
そして面白い浴室の工夫には「石榴(ざくろ)口」というものを発明します。つまり湯気が漏れないように入り口を工夫したのです。まず三方はめ板で囲まれた小室に浴槽を置き、出入口に天井から低く板をさげ、そして湯気の逃げるのを防ぎこの板をくぐり出入りしたのです。この柘榴口の名称の由来は鏡を磨くのに柘榴の実を使ったので“かがんで風呂に入る(屈(かが)み入る)”を、“鏡鋳(かがみい)る”としゃれ、「石榴ロ」となったといわれます。江戸らしい言葉遊びです。
そしてついに現代の首まで浸かる仕組みになった「据(すえ)風呂」は慶長年間の末頃に現れます。この据風呂は蒸気ではなく湯の風呂だったことから「水(すい)風呂」と呼ばれて一般家庭でも広がります。当初は湯を桶に入れるくみ込み式だったものが桶の中に鉄の筒を入れて下で火をたく方法が発明されます。この名称は「鉄砲風呂」とい、江戸で流行ります、そして桶の底に平釜をつけ湯をわかす「五右衛門風呂」は関西で流行ったそうです。
ここまで来るのに約1200年ほどの歴史です。
しかし本来のお風呂の意味をどれだけの人たちが知っているのか、そして今では「サ道」などとサウナ道のようなものも流行っていますが日本人がお風呂を愛する理由を歴史から改めて学び直すことができます。
明日は明治以降、そして海外からの文化が混ざりどのような変遷を辿って変化してきたかを洞察してみたいと思います。
復古創新した、本来のお風呂を探求し子どもたちに風呂の起源などを伝承してみたいと思います。