学とは何か、それは今の時代では勉強することだと一般的に思われています。しかし実際には勉強のために勉強などはなく、本来は自己を磨くために学はあります。そして学は己に問うことですから、学問とは自己を研鑽することが本来の道理であろうと思います。
そして学を磨いていくと直観というものに出会います。私はむかしから直観タイプですから、余計に自己内省と直観オタクのように日々を生きています。この直観とは、単なる当てずっぽをしているのではなく、自己との対話によって意味を深め続けているということでもあります。
西田幾多郎氏は、直観についてこのように記されているところがあります。
「私は昔、プロチノスが自然が物を創造することは直観することであり、万物は一者の直観を求めると云つた。直観の意義を、最能く明にし得るものは、我々の自覚であると思ふ。自覚に於ては、我が我を対象として知るのであり、知ることは働くことであり、創造することである、而して此の知るといふことの外に我の存在はない。」
知行合一するとき、そのすべての行為は直観となるように私は思います。本物の直観とは、知識と実践が分かれないのです。同時に考え行動し反省しまた実践する。つまり実践の中に智慧があり、智慧の中に反省があり、まるで自然一体のように本能と理性が融和し統合している状態になっているように思います。
「併し作用が作用の立場に於て反省せられた時、時は更に高次的な立場に於て包容せられて意志発展の過程となる。而して乍用の乍用自身が自覚し、創造的となる時、意志は意志自身の実在性を失つて一つの直観となる。而してかゝる直観を無限に統一するものが一者である、一者は直観の直観でなければならぬ。」
そして直観は意志そのものとなり、自己実現をします。自己実現とは直観そのものの姿のときであり、そこは「分かれていない」という状態になるのです。
「史的唯物論者は対象、現実、感性という如きものが、従来客観または直観の形式のもとに捉えられて、感性的・人間的活動、実践として捉えられなかった、主体的に捉えられなかったという。対象とか現実とかいうものを、実践的に、主体的に捉えるということは、行為的直観的に物を見ることでなければならない・・・どこまでも理論は実践の地盤から生まれるこということでなければならない」
まさに直観とは、実践が先であり真理をあとに知ることで意味を深め意志を確立していくのです。つまり直観は意志の姿であり、意志は直観になります。この状態は無我ともいい、無限ともいい、融通無碍ともいい、無為自然であるとも言えます。
偉大な存在と一体になって行動している状態、まさに自然の一部として自分の天命を全うする状態、まさにここに直観の醍醐味があるのです。私に言わせるとつまり直観とは無の姿なのです。
私は直観を何よりも信じるものですが、そのためには自己を徹底して研鑽し続けなければなりません。信念や理念、意志に従って自己を律し、高め、実践を積み重ねていく必要があります。
しかしこれが活きることの本質であり、いのちや魂を全うするということの仕合せと直結しているのです。直観で生きるためには、妄念や雑念を取り払い、如何に今に集中し今をやり切るかという命懸けの豊かさと共にあります。
引き続き、直観を磨いていきたいと思います。